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戦国の封獣・壱 〜信玄と鬼の眠る湖〜  作者: 霧原零時(orすっとぼけん太)
第7章 星空に静かに抱きしめる夜
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【3】 星穴の夜、静かなる抱擁

田辺博士の指示で、その大きな死骸を隣の解剖室へ運ぶことになった。


天井に備え付けられた定置型ウインチで、ゆっくりと宙へ吊り上げる。

大柄な林と山本――がっしりとした体格のふたりに、東峰部長と丹波助手を加えた四人がかりで、

特に匂いはない――

その異様な死骸を、病院のストレッチャーを思わせる金属台にそっと載せると、

台はわずかにきしみを立てながら、静かに動き出した。


それは、まるで象のように重たかった。

麟太郎もカメラを脇に置き、黙って台車の一端を支えに加わる。


死骸を、解剖室の奥にある手術台のような金属製の頑丈な台の上に移すと、

丹波助手がホースを手に取り、泥を流しはじめた。

ぶしゃぶしゃと泥水の跳ねる音が、静まり返った室内に響く。


一方そのころ、採取室に戻った林と山本は、ゴム長靴に履き替え、足元に注意しながら泥のプールへと注意深く降りていく。

がっしりとしたふたりの巨体がゆっくりと水を揺らしながら、沈んだ塊をひとつずつ拾い上げては、丹念に洗い、採取室の壁沿いに設けられたテーブルの上へと慎重に並べていく。

――その作業は、東峰部長の指示によるものだった。


やがて、無骨な泥の塊が、鎧や兜の一部であることが明らかになっていく。

さらに、大量の矢の**やじり**が出てきた。

そして、ついには――古びた人骨のようなものまで現れた。



(大昔に、この箱の中で……何かあったのか)

箱の上から作業を見渡していた東峰部長の頭に、ふとそんな考えがよぎった。


崩れそうな泥の塊は、無理に持ち上げず、後で完全に水を抜いてから発掘することにした。

現場の判断としては、妥当な選択だった。


一方、田辺博士は東峰部長の許可を得て、先ほど引き上げられた大きな熊の解剖に取りかかることに決めた。


もっとも、東峰部長にとって興味があるのは、金や銀でできた物品だけだった。

動物や魚の死骸が出てきたところで、会長に連絡する価値はないと判断していた。



解剖室では、すでに大きな死骸の解体作業が始まっていた。

――それは、食用の牛や豚、魚などではない。


麟太郎は、ビデオカメラを構えて撮影に専念している。


その場に立ち会っていた碧は、次第に背筋の冷えるような気味悪さを覚え始めていた。

女性は自分ひとりだけだった。

もちろん、日向助手もそこにいるが、彼女は専門家であり、当然、こうした解剖にも慣れている。


(……うわ、ムリかも)

碧は、時貞と一織がいる部屋へ逃げ出そうかと考え始めていた。


(でも、あの二人の調査の邪魔をしては悪いし……)


そんなふうに逡巡していたとき、ふと窓の外に、懐中電灯の明かりが揺れているのが見えた。

目を凝らすと――それは、龍信だった。


彼は中庭で、クレーンのワイヤーロープなどの点検をしている。

石箱の蓋は開いたまま、二本のワイヤーで固定された状態だった。

今は風もほとんど吹いていないが、もし何かの拍子に倒れれば、大事故に繋がる。


昼間の事故――崩れた鉄材――の記憶があるぶん、龍信も源次も、いつも以上に慎重になっていた。

一緒に見回っていた源次は、今はトイレに行っているようだ。


碧は、そばにいた日向助手に「外に出てきます」とだけ告げて、部屋を飛び出した。

この空気の中に、これ以上長く居たくはなかった。


必要があれば、麟太郎が大声で呼んでくれるよう頼んでおいた。


  

碧が駆け寄ると、龍信はすぐに気づき、こちらへ懐中電灯を向けた。


建物は、逆L字型に並んでおり、中央には中庭が広がっている。

その中庭は諏訪湖に接していて、今は巨大な石箱が、まるでワニが口を開けているような姿で鎮座していた。


石箱は、表の国道に面したプレハブ棟と平行に設置されている。

地図のように想像するなら、湖を下に、上にプレハブ棟、右側に作業員宿舎。

そして石箱の左手――林に面した外壁には、一枚の鉄板が、側面に斜めに立てかけられていた。

その逆側、作業員宿舎側には、引き上げられた石蓋が、垂直に立てかけられている。


「え~、すご~い!」


碧が、斜めになっている鉄板の上まで上がると、石箱の内部が一望できた。

内側には苔や藻がところどころにへばりつき、泥の塊がいくつも盛り上がっている。


「落ちるなよ。高さは、三メートル近くあるからな」

龍信は箱の中を見渡しながらそう言った。内部には、とくに異常は見られなかった。


野球場にあるような大型のライトが、四方向から石箱を照らしていた。

五百年もの間、閉ざされていた歴史の箱が――今、その腹の中をあらわにして、現代のスポットライトに晒されている。

石箱は、五百年の時を超えてなお、どこか神秘的なシルエットを醸し出しながら、二人の前に沈黙していた。


碧が正面を見上げると、巨大な石蓋がワイヤーで吊られており、その中心に、小さな円形の穴がぽっかりと開いている。


おそらく向こう岸の湖畔から見れば――

長い首を立てた巨大な生き物の背に、ふたりの人間が、鉄板の尻尾のあたりに立っているように見えるのだろう。

―――そんなシルエットが、照明に照らされて、遠い湖面で揺らいでいるのであろう。



「わぁ~、綺麗……! プラネタリウムの小窓みたい」

碧が、正面のやや上を指さして言った。


龍信は首だけを回し、その指さす先を見やった。

そこには、石蓋の中央に開いた小さな穴があり、その向こうに、満天の星空が覗いていた。


「なんで蓋の真ん中に穴が開いてるのか、ずっと不思議だったけど……今やっと分かった気がする」


「……?」


「いつか未来のどこかで、この石箱を引き上げた人に――

きっと、その星空を見せたかったんだわ」

碧はそう言って、龍信の横顔を見つめた。


龍信は何も言わずに、作業服の胸ポケットから煙草を取り出す。

一本をくわえながら、ぽつりと答えた。


「……そうかもな」



碧がそれに気づき、ブレザーのポケットからライターを取り出して火を点けた。


「お友達、よかったわね」


「ん」


「バイクで事故を起こしたって……そのお友達、意識が戻ったって。一織ちゃんから聞いたわ」


「ああ」


「ほんとに、よかった」


「ああ」

龍信は煙草をくわえたまま、ゆっくりと煙を吐き出した。


……それで、会話は終わってしまった。

龍信は、極端に口数が少ない男だった。

困った碧は、そっと視線をずらしながら、別の話題を探した。



少しして、碧は何を思ったのか、鉄板の上を横に歩きながら言った。


「そうだ。少しずらして、あの穴を見たら……きっと、お月さまも、あの中に――」


その瞬間、碧のヒールがツルリと滑った。

と、同時に――強烈な力が、彼女の体を引き寄せた。


龍信の太い腕が、華奢な碧の背中を、容赦なくがっしりと抱き寄せた。


「うゲっ……!」


咄嗟に引き寄せられた碧の顎が、龍信の分厚い胸板に勢いよく激突する。

その衝撃で、龍信がくわえていた煙草が足元にぽとりと落ちた。


「大丈夫か」


「ええ、ありがとう」

碧は、抱きかかえられたまま、少し窮屈そうに上を向く。


―――そのまま、十秒が経った。


―――三十秒が経った。


―――六十秒が過ぎた。


(……どういうこと?)

不思議に思ったが、なぜかこの状態は心地よかった。


―――九十秒が経過。

いまだに、龍信は強い力で彼女を抱きしめたままだった。


「あの」


「ん」


「え〜と……」


「ん」


「今の、この状態って……どういう状態?」


「え?」


「いえ、別にイヤってわけじゃないんだけど……どういう意味なのかなって」


「なにが?」


「いや、だって、わたし、いま――抱きしめられてるよね?」


「あはは、……それか」

龍信は笑ったが、背中に回した腕は、まったく離してはくれなかった。


「え、ええっ?」

碧は龍信の胸の中で、首をかしげた。


「危ないから。下に降りるぞ」

そう言うと、龍信は碧を抱えたまま、ゆっくりと鉄板を降りていった。


地面に足がついた瞬間、ようやく腕の力がゆるみ、解放される。


「悪かった。あんたに怪我されたら困るからな」


「いえ……(悪くはないんだけど)」

碧は一瞬言いかけて、言葉を飲み込み、


「助けてくれて、ありがとう」と言い直した。


(――あれは、上が危険だから。私に怪我をさせないように支えてくれていただけってことなの)


碧は、少し複雑な気持ちになっていた。

横目で龍信を見ると、彼はもう胸ポケットから、次の煙草を取り出していた。


「少し歩くか」


そのひと言に、碧はこくんと頷く。


二人は、夜の湖畔へと歩き出した。

ライトに照らされた諏訪湖の水面の先は、どこまでも黒一色の静かな闇だった。

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