【3】 星穴の夜、静かなる抱擁
田辺博士の指示で、その大きな死骸を隣の解剖室へ運ぶことになった。
天井に備え付けられた定置型ウインチで、ゆっくりと宙へ吊り上げる。
大柄な林と山本――がっしりとした体格のふたりに、東峰部長と丹波助手を加えた四人がかりで、
特に匂いはない――
その異様な死骸を、病院のストレッチャーを思わせる金属台にそっと載せると、
台はわずかにきしみを立てながら、静かに動き出した。
それは、まるで象のように重たかった。
麟太郎もカメラを脇に置き、黙って台車の一端を支えに加わる。
死骸を、解剖室の奥にある手術台のような金属製の頑丈な台の上に移すと、
丹波助手がホースを手に取り、泥を流しはじめた。
ぶしゃぶしゃと泥水の跳ねる音が、静まり返った室内に響く。
一方そのころ、採取室に戻った林と山本は、ゴム長靴に履き替え、足元に注意しながら泥のプールへと注意深く降りていく。
がっしりとしたふたりの巨体がゆっくりと水を揺らしながら、沈んだ塊をひとつずつ拾い上げては、丹念に洗い、採取室の壁沿いに設けられたテーブルの上へと慎重に並べていく。
――その作業は、東峰部長の指示によるものだった。
やがて、無骨な泥の塊が、鎧や兜の一部であることが明らかになっていく。
さらに、大量の矢の**鏃**が出てきた。
そして、ついには――古びた人骨のようなものまで現れた。
(大昔に、この箱の中で……何かあったのか)
箱の上から作業を見渡していた東峰部長の頭に、ふとそんな考えがよぎった。
崩れそうな泥の塊は、無理に持ち上げず、後で完全に水を抜いてから発掘することにした。
現場の判断としては、妥当な選択だった。
一方、田辺博士は東峰部長の許可を得て、先ほど引き上げられた大きな熊の解剖に取りかかることに決めた。
もっとも、東峰部長にとって興味があるのは、金や銀でできた物品だけだった。
動物や魚の死骸が出てきたところで、会長に連絡する価値はないと判断していた。
*
解剖室では、すでに大きな死骸の解体作業が始まっていた。
――それは、食用の牛や豚、魚などではない。
麟太郎は、ビデオカメラを構えて撮影に専念している。
その場に立ち会っていた碧は、次第に背筋の冷えるような気味悪さを覚え始めていた。
女性は自分ひとりだけだった。
もちろん、日向助手もそこにいるが、彼女は専門家であり、当然、こうした解剖にも慣れている。
(……うわ、ムリかも)
碧は、時貞と一織がいる部屋へ逃げ出そうかと考え始めていた。
(でも、あの二人の調査の邪魔をしては悪いし……)
そんなふうに逡巡していたとき、ふと窓の外に、懐中電灯の明かりが揺れているのが見えた。
目を凝らすと――それは、龍信だった。
彼は中庭で、クレーンのワイヤーロープなどの点検をしている。
石箱の蓋は開いたまま、二本のワイヤーで固定された状態だった。
今は風もほとんど吹いていないが、もし何かの拍子に倒れれば、大事故に繋がる。
昼間の事故――崩れた鉄材――の記憶があるぶん、龍信も源次も、いつも以上に慎重になっていた。
一緒に見回っていた源次は、今はトイレに行っているようだ。
碧は、そばにいた日向助手に「外に出てきます」とだけ告げて、部屋を飛び出した。
この空気の中に、これ以上長く居たくはなかった。
必要があれば、麟太郎が大声で呼んでくれるよう頼んでおいた。
*
碧が駆け寄ると、龍信はすぐに気づき、こちらへ懐中電灯を向けた。
建物は、逆L字型に並んでおり、中央には中庭が広がっている。
その中庭は諏訪湖に接していて、今は巨大な石箱が、まるでワニが口を開けているような姿で鎮座していた。
石箱は、表の国道に面したプレハブ棟と平行に設置されている。
地図のように想像するなら、湖を下に、上にプレハブ棟、右側に作業員宿舎。
そして石箱の左手――林に面した外壁には、一枚の鉄板が、側面に斜めに立てかけられていた。
その逆側、作業員宿舎側には、引き上げられた石蓋が、垂直に立てかけられている。
「え~、すご~い!」
碧が、斜めになっている鉄板の上まで上がると、石箱の内部が一望できた。
内側には苔や藻がところどころにへばりつき、泥の塊がいくつも盛り上がっている。
「落ちるなよ。高さは、三メートル近くあるからな」
龍信は箱の中を見渡しながらそう言った。内部には、とくに異常は見られなかった。
野球場にあるような大型のライトが、四方向から石箱を照らしていた。
五百年もの間、閉ざされていた歴史の箱が――今、その腹の中をあらわにして、現代のスポットライトに晒されている。
石箱は、五百年の時を超えてなお、どこか神秘的なシルエットを醸し出しながら、二人の前に沈黙していた。
碧が正面を見上げると、巨大な石蓋がワイヤーで吊られており、その中心に、小さな円形の穴がぽっかりと開いている。
おそらく向こう岸の湖畔から見れば――
長い首を立てた巨大な生き物の背に、ふたりの人間が、鉄板の尻尾のあたりに立っているように見えるのだろう。
―――そんなシルエットが、照明に照らされて、遠い湖面で揺らいでいるのであろう。
「わぁ~、綺麗……! プラネタリウムの小窓みたい」
碧が、正面のやや上を指さして言った。
龍信は首だけを回し、その指さす先を見やった。
そこには、石蓋の中央に開いた小さな穴があり、その向こうに、満天の星空が覗いていた。
「なんで蓋の真ん中に穴が開いてるのか、ずっと不思議だったけど……今やっと分かった気がする」
「……?」
「いつか未来のどこかで、この石箱を引き上げた人に――
きっと、その星空を見せたかったんだわ」
碧はそう言って、龍信の横顔を見つめた。
龍信は何も言わずに、作業服の胸ポケットから煙草を取り出す。
一本をくわえながら、ぽつりと答えた。
「……そうかもな」
碧がそれに気づき、ブレザーのポケットからライターを取り出して火を点けた。
「お友達、よかったわね」
「ん」
「バイクで事故を起こしたって……そのお友達、意識が戻ったって。一織ちゃんから聞いたわ」
「ああ」
「ほんとに、よかった」
「ああ」
龍信は煙草をくわえたまま、ゆっくりと煙を吐き出した。
……それで、会話は終わってしまった。
龍信は、極端に口数が少ない男だった。
困った碧は、そっと視線をずらしながら、別の話題を探した。
少しして、碧は何を思ったのか、鉄板の上を横に歩きながら言った。
「そうだ。少しずらして、あの穴を見たら……きっと、お月さまも、あの中に――」
その瞬間、碧のヒールがツルリと滑った。
と、同時に――強烈な力が、彼女の体を引き寄せた。
龍信の太い腕が、華奢な碧の背中を、容赦なくがっしりと抱き寄せた。
「うゲっ……!」
咄嗟に引き寄せられた碧の顎が、龍信の分厚い胸板に勢いよく激突する。
その衝撃で、龍信がくわえていた煙草が足元にぽとりと落ちた。
「大丈夫か」
「ええ、ありがとう」
碧は、抱きかかえられたまま、少し窮屈そうに上を向く。
―――そのまま、十秒が経った。
―――三十秒が経った。
―――六十秒が過ぎた。
(……どういうこと?)
不思議に思ったが、なぜかこの状態は心地よかった。
―――九十秒が経過。
いまだに、龍信は強い力で彼女を抱きしめたままだった。
「あの」
「ん」
「え〜と……」
「ん」
「今の、この状態って……どういう状態?」
「え?」
「いえ、別にイヤってわけじゃないんだけど……どういう意味なのかなって」
「なにが?」
「いや、だって、わたし、いま――抱きしめられてるよね?」
「あはは、……それか」
龍信は笑ったが、背中に回した腕は、まったく離してはくれなかった。
「え、ええっ?」
碧は龍信の胸の中で、首をかしげた。
「危ないから。下に降りるぞ」
そう言うと、龍信は碧を抱えたまま、ゆっくりと鉄板を降りていった。
地面に足がついた瞬間、ようやく腕の力がゆるみ、解放される。
「悪かった。あんたに怪我されたら困るからな」
「いえ……(悪くはないんだけど)」
碧は一瞬言いかけて、言葉を飲み込み、
「助けてくれて、ありがとう」と言い直した。
(――あれは、上が危険だから。私に怪我をさせないように支えてくれていただけってことなの)
碧は、少し複雑な気持ちになっていた。
横目で龍信を見ると、彼はもう胸ポケットから、次の煙草を取り出していた。
「少し歩くか」
そのひと言に、碧はこくんと頷く。
二人は、夜の湖畔へと歩き出した。
ライトに照らされた諏訪湖の水面の先は、どこまでも黒一色の静かな闇だった。




