【1】 箱の中、目を閉じたままのもの
―――三十分が過ぎた。
水は半分ほど抜けていた。
さっきから、大きな泥の塊が、箱の真ん中辺に現れている。
麟太郎は、それをズームアップして、ビデオカメラに納めていた。
――その大きなものは、黒かった。
泥の中に、大きなゴムタイヤが積み重なっているようにも見える。
丹波助手は隣の部屋へ向かい、田辺博士を呼びに行っていた。
日向助手は部屋の隅の椅子に腰を下ろし、無言のままじっと様子を見ている。
碧もまた、出番がないまま奥の壁際にある椅子に寄りかかり、腕を組んだまま、うとうととまどろみに落ちていた。
やがて、丹波助手と田辺博士の二人が戻ってくる。
「あの黒いやつなんですけど」
丹波助手が箱の中央を指さした。
田辺博士は老眼鏡を外すと、ハンカチで丁寧にレンズを拭き、再びかけ直した。
その視線の先を見やりながら、
「何だろうね?」
と、博士は丹波助手の顔を覗き込むようにして答えた。
東峰部長と山本は、排水ホースから勢いよく吹き出す濁水を、無言のまま見つめていた。
どろりとした水は、床に設けられた排水口へと音を立てて流れ込んでいく。
一方、大柄な林は、ポンプに繋がるロープを握る手を交互に持ち替えながら、その場でゆっくりと屈伸を繰り返していた。
元ラグビー部の分厚い体が上下に揺れるたび、床板がわずかに軋む。
どうやら、長時間同じ姿勢を続けたせいで、腰にきたらしい。腰をさする手つきが、どこか切実だ。
「大丈夫かね?」
田辺博士が声を掛けると、林はすぐ隣で小さく頷いた。
日向助手は、椅子から静かに立ち上がると、二人の傍まで歩いてきた。
「あっ……気を付けてくださいよ。中は二メートル以上の高さがあるんですから」
丹波助手が、近づいてくる日向助手に向かって振り返った。
「丹波くん、あれは……生物かね?」
田辺博士が静かに言った。
丹波助手は、眼鏡のフレームを中指で押し上げながら、慎重な口調で答えた。
「いえ、生物とは考えにくいですね。神童教授の見解によれば、箱の中にあるものは、侍が駆け回っていた時代――おそらく五百年以上前のものとのことです。
死後それほどの年月を経て、なお形を保っているとは、常識的には考えづらいです」
だがそのとき、背後から日向助手の声が静かに割り込んだ。
「……でも――あれがまだ、《《死んでいない》》としたら?」
丹波助手は、わずかに顔を強張らせながら振り返り、日向助手の顔を見据えた。
そして、語気をわずかに鋭くしながら言った。
「冗談を言っている場合ではありませんよ」
二人は独身同士だったが、決してそりの合う仲ではなかった。
田辺博士が、静かに丹波助手に目を向けた。
「……なぜ、冗談だと決めつけるんだね?」
丹波助手は少し困ったように眉をひそめる。
「だって、五百年も生きている生物なんて、ありえませんよ。百年だって……」
「それは違うわ」と、日向助手が口を挟んだ。
「亀なら百年以上生きるものもいるし、樹木なら二百年、三百年……」
「亀や植物の話じゃなく……」
「――待ちなさい!」
田辺博士の低い声が、二人の声を遮った。
その目には、穏やかさの奥に鋭い光が宿っている。
「丹波くん、君の悪いところはな、そうやって何でも――固定観念や先入観で決めつけてしまうことだ」
田辺博士は一呼吸おいて、ゆっくりと続けた。
「我々は無限の可能性を秘めた生物について研究しているのだよ。
何事も“ありえない”ではなく、“あるかもしれない”から始めることが大事なことだ」
その言葉に、丹波助手は小さく肩を落とし、真面目な表情で頷いた。
「博士!」
そのとき突然、カメラを回していた麟太郎が叫んだ。
彼はレンズから目を離さず、片手で箱の中を鋭く指さしている。
「……あれを、見てください!」
その声に、林はポンプのロープを握ったまま、ぱっと顔を向けた。
田辺博士と助手たちも、思わずそちらへ視線を送る。
――次の瞬間、四人の表情が凍りついた。
碧も、麟太郎の大きな声に驚いて顔を上げた。
眠気は吹き飛び、すぐさま椅子から立ち上がると、小走りで箱のほうへと向かった。
東峰部長と山本も、もはや排水ホースから噴き出す濁水などを、見ている場合ではなかった。慌てて箱の縁まで歩を進める。
全員が、麟太郎の指差す箱の中を覗き込む。
箱の中央、
その泥だらけの黒い大きなタイヤには―――顔がついていた!
その“顔”は泥にまみれ、はっきりとは見えなかった。
だが――確かに、口を開けているように見えた。
碧は息を呑み、思わず腰が抜けそうになる。
水は、すでに三分の二ほどまで抜けていた。
「博士、あれを……!」
今度は、ポンプを吊していた林が叫んだ。
彼の指差す先――泥の塊があり、その中に、錆びた金属片が覗いているのが見えた。
「鎧……?」
田辺博士が思わずつぶやいた。
しかし、誰の視線も釘づけになっていたのは――中央で、泥にまみれながらも異様な存在感を放つ、**あの“顔のあるタイヤ”**だった。
箱の中の水位は、ゆっくりと下がっていった。
それに伴い、いくつもの泥の塊が、次第にその姿を現し始めた。
やがて――水面が箱の底から二十センチほどの位置まで下がったところで、
「もう、ここまでだ」
田辺博士がポンプを引き上げるよう指示を出す。
底に残っているのは、もはや水というより、粘り気のある泥だった。
これ以上吸い上げれば、泥に混ざっている何かが、一緒に流れ出してしまう恐れがある。
博士と丹波助手は、ゴム長靴に履き替える。
日向助手は、一歩引いて、首を横に振った。
彼らの狙いは、中央付近――泥の中に沈んでいる、大きな黒い塊だ。
上から見下ろす箱の内部は、深さ二・八メートル。思った以上に高く感じられる。
梯子を箱の縁にかけて固定すると、博士と丹波助手は、慎重に一段ずつ降りていく。
箱の底――足元はぬかるんでいて滑りやすい。
二人は泥の盛り上がりを避けながら、沼地のような中をゆっくりと進んだ。
――その黒い塊の正体を、確かめるために。
「山本くん、水道のホースを持ってきてくれないか」
箱の中から、田辺博士が声を張った。
山本はすぐに反応し、部屋の隅の流し場へ向かって、がっしりした体を小走りで揺らした。
四つ並んだ蛇口のひとつに繋がれたホースを引っ張り出し、急いで戻ってくる。
「どうぞ!」
箱の縁から身を乗り出し、ホースを下へと垂らした。
田辺博士はそれを受け取ると、中央の塊へ向かって、慎重に歩き出す。
重く淀んだ泥濘みに、一歩ごとに足がとられそうになる。
それでも博士の目は、黒い塊から離れなかった。
その物体は、間近で見るといっそう巨大に感じられた。
まるで大型トラックのタイヤを何本も積み上げたような異様な塊――その姿は、象のようにも、熊のようにも見える。
丹波助手が田辺博士の顔をうかがった。
博士が静かに頷くと、丹波は胸ポケットからボールペンを抜き取り、おそるおそるその表面に触れた。
先端で軽くつついた瞬間、手に伝わったのは――意外なほどの硬さだった。
続いて田辺博士が、ゴム手袋をはめた手で慎重にそれに触れた。
触感は、まるで古びたトラックのタイヤのようだった。
―――弾力性のない、堅いゴムに似ていた。
「山本くん、水を出してくれないか」
田辺博士の声に、山本はすぐさま駆け出し、部屋の隅の流し場へ向かって蛇口をひねった。
「止めるときは言ってくださいよーっ!」
太い声が、流し場の奥から勢いよく響いた。
博士は受け取ったホースの先を親指で押さえ、水圧を高めた。
そして、そのまま水流を泥に向かって吹きつける。
水の勢いで、こびりついた泥が徐々に剥がれ落ちていく。
滑るように泥が流れ、隠されていた形が――徐々に、その輪郭を現し始めた。
「博士!」
丹波助手が息をのむように叫んだ。
その声に、田辺博士は眉根を寄せ、助手の視線の先を追った。
そこにあったのは――紛れもない、《《顔》》だった。
泥に塗れて輪郭はぼやけているが、
その口の中からは、濁った泥のようなものが――どろりと流れ出した。
「……まさか……?」
博士の声は、かすれた。信じがたいという表情で、目を細める。
――その“顔”の目は、閉じられていた。
「死んでいるんですか?」
丹波助手が、目を逸らさずに問いかける。
「……だと思うが」
田辺博士の返答は、どこか曖昧だった。
生き物が、五百年も生き続けられるはずがない。
だが、目の前のその体は――腐敗しているようには見えなかった。
魔物。―――一瞬、その言葉が、田辺博士の脳裏を過った。




