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戦国の封獣・壱 〜信玄と鬼の眠る湖〜  作者: 霧原零時(orすっとぼけん太)
第7章 星空に静かに抱きしめる夜
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【1】 箱の中、目を閉じたままのもの

―――三十分が過ぎた。


水は半分ほど抜けていた。

さっきから、大きな泥の塊が、箱の真ん中辺に現れている。

麟太郎は、それをズームアップして、ビデオカメラに納めていた。


――その大きなものは、黒かった。

泥の中に、大きなゴムタイヤが積み重なっているようにも見える。



丹波助手は隣の部屋へ向かい、田辺博士を呼びに行っていた。

日向助手は部屋の隅の椅子に腰を下ろし、無言のままじっと様子を見ている。

碧もまた、出番がないまま奥の壁際にある椅子に寄りかかり、腕を組んだまま、うとうととまどろみに落ちていた。


やがて、丹波助手と田辺博士の二人が戻ってくる。

「あの黒いやつなんですけど」

丹波助手が箱の中央を指さした。


田辺博士は老眼鏡を外すと、ハンカチで丁寧にレンズを拭き、再びかけ直した。

その視線の先を見やりながら、

「何だろうね?」

と、博士は丹波助手の顔を覗き込むようにして答えた。


東峰部長と山本は、排水ホースから勢いよく吹き出す濁水だくすいを、無言のまま見つめていた。

どろりとした水は、床に設けられた排水口へと音を立てて流れ込んでいく。


一方、大柄な林は、ポンプに繋がるロープを握る手を交互に持ち替えながら、その場でゆっくりと屈伸を繰り返していた。

元ラグビー部の分厚い体が上下に揺れるたび、床板がわずかに軋む。

どうやら、長時間同じ姿勢を続けたせいで、腰にきたらしい。腰をさする手つきが、どこか切実だ。


「大丈夫かね?」

田辺博士が声を掛けると、林はすぐ隣で小さく頷いた。


日向助手は、椅子から静かに立ち上がると、二人の傍まで歩いてきた。

「あっ……気を付けてくださいよ。中は二メートル以上の高さがあるんですから」

丹波助手が、近づいてくる日向助手に向かって振り返った。


「丹波くん、あれは……生物かね?」

田辺博士が静かに言った。


丹波助手は、眼鏡のフレームを中指で押し上げながら、慎重な口調で答えた。


「いえ、生物とは考えにくいですね。神童教授の見解によれば、箱の中にあるものは、侍が駆け回っていた時代――おそらく五百年以上前のものとのことです。

死後それほどの年月を経て、なお形を保っているとは、常識的には考えづらいです」


だがそのとき、背後から日向助手の声が静かに割り込んだ。


「……でも――あれがまだ、《《死んでいない》》としたら?」


丹波助手は、わずかに顔を強張らせながら振り返り、日向助手の顔を見据えた。

そして、語気をわずかに鋭くしながら言った。

「冗談を言っている場合ではありませんよ」


二人は独身同士だったが、決してそりの合う仲ではなかった。


田辺博士が、静かに丹波助手に目を向けた。


「……なぜ、冗談だと決めつけるんだね?」


丹波助手は少し困ったように眉をひそめる。


「だって、五百年も生きている生物なんて、ありえませんよ。百年だって……」


「それは違うわ」と、日向助手が口を挟んだ。


「亀なら百年以上生きるものもいるし、樹木なら二百年、三百年……」


「亀や植物の話じゃなく……」


「――待ちなさい!」


田辺博士の低い声が、二人の声を遮った。

その目には、穏やかさの奥に鋭い光が宿っている。


「丹波くん、君の悪いところはな、そうやって何でも――固定観念や先入観で決めつけてしまうことだ」


田辺博士は一呼吸おいて、ゆっくりと続けた。


「我々は無限の可能性を秘めた生物について研究しているのだよ。

何事も“ありえない”ではなく、“あるかもしれない”から始めることが大事なことだ」

その言葉に、丹波助手は小さく肩を落とし、真面目な表情で頷いた。


「博士!」


そのとき突然、カメラを回していた麟太郎が叫んだ。

彼はレンズから目を離さず、片手で箱の中を鋭く指さしている。


「……あれを、見てください!」


その声に、林はポンプのロープを握ったまま、ぱっと顔を向けた。


田辺博士と助手たちも、思わずそちらへ視線を送る。


――次の瞬間、四人の表情が凍りついた。


碧も、麟太郎の大きな声に驚いて顔を上げた。

眠気は吹き飛び、すぐさま椅子から立ち上がると、小走りで箱のほうへと向かった。


東峰部長と山本も、もはや排水ホースから噴き出す濁水などを、見ている場合ではなかった。慌てて箱の縁まで歩を進める。


全員が、麟太郎の指差す箱の中を覗き込む。


箱の中央、


その泥だらけの黒い大きなタイヤには―――顔がついていた!


その“顔”は泥にまみれ、はっきりとは見えなかった。

だが――確かに、口を開けているように見えた。


碧は息を呑み、思わず腰が抜けそうになる。

水は、すでに三分の二ほどまで抜けていた。


「博士、あれを……!」


今度は、ポンプを吊していた林が叫んだ。

彼の指差す先――泥の塊があり、その中に、錆びた金属片が覗いているのが見えた。


「鎧……?」


田辺博士が思わずつぶやいた。

しかし、誰の視線も釘づけになっていたのは――中央で、泥にまみれながらも異様な存在感を放つ、**あの“顔のあるタイヤ”**だった。


箱の中の水位は、ゆっくりと下がっていった。

それに伴い、いくつもの泥の塊が、次第にその姿を現し始めた。


やがて――水面が箱の底から二十センチほどの位置まで下がったところで、

「もう、ここまでだ」

田辺博士がポンプを引き上げるよう指示を出す。


底に残っているのは、もはや水というより、粘り気のある泥だった。

これ以上吸い上げれば、泥に混ざっている何かが、一緒に流れ出してしまう恐れがある。


博士と丹波助手は、ゴム長靴に履き替える。

日向助手は、一歩引いて、首を横に振った。


彼らの狙いは、中央付近――泥の中に沈んでいる、大きな黒い塊だ。


上から見下ろす箱の内部は、深さ二・八メートル。思った以上に高く感じられる。

梯子を箱の縁にかけて固定すると、博士と丹波助手は、慎重に一段ずつ降りていく。


箱の底――足元はぬかるんでいて滑りやすい。

二人は泥の盛り上がりを避けながら、沼地のような中をゆっくりと進んだ。

――その黒い塊の正体を、確かめるために。



「山本くん、水道のホースを持ってきてくれないか」

箱の中から、田辺博士が声を張った。


山本はすぐに反応し、部屋の隅の流し場へ向かって、がっしりした体を小走りで揺らした。

四つ並んだ蛇口のひとつに繋がれたホースを引っ張り出し、急いで戻ってくる。


「どうぞ!」

箱の縁から身を乗り出し、ホースを下へと垂らした。


田辺博士はそれを受け取ると、中央の塊へ向かって、慎重に歩き出す。

重く淀んだ泥濘(ぬかる)みに、一歩ごとに足がとられそうになる。

それでも博士の目は、黒い塊から離れなかった。


その物体は、間近で見るといっそう巨大に感じられた。

まるで大型トラックのタイヤを何本も積み上げたような異様な塊――その姿は、象のようにも、熊のようにも見える。


丹波助手が田辺博士の顔をうかがった。

博士が静かに頷くと、丹波は胸ポケットからボールペンを抜き取り、おそるおそるその表面に触れた。


先端で軽くつついた瞬間、手に伝わったのは――意外なほどの硬さだった。


続いて田辺博士が、ゴム手袋をはめた手で慎重にそれに触れた。

触感は、まるで古びたトラックのタイヤのようだった。

―――弾力性のない、堅いゴムに似ていた。



「山本くん、水を出してくれないか」


田辺博士の声に、山本はすぐさま駆け出し、部屋の隅の流し場へ向かって蛇口をひねった。


「止めるときは言ってくださいよーっ!」

太い声が、流し場の奥から勢いよく響いた。


博士は受け取ったホースの先を親指で押さえ、水圧を高めた。

そして、そのまま水流を泥に向かって吹きつける。


水の勢いで、こびりついた泥が徐々に剥がれ落ちていく。

滑るように泥が流れ、隠されていた形が――徐々に、その輪郭を現し始めた。


「博士!」

丹波助手が息をのむように叫んだ。

その声に、田辺博士は眉根を寄せ、助手の視線の先を追った。


そこにあったのは――紛れもない、《《顔》》だった。


泥に塗れて輪郭はぼやけているが、

その口の中からは、濁った泥のようなものが――どろりと流れ出した。


「……まさか……?」


博士の声は、かすれた。信じがたいという表情で、目を細める。


――その“顔”の目は、閉じられていた。


「死んでいるんですか?」

丹波助手が、目を逸らさずに問いかける。


「……だと思うが」

田辺博士の返答は、どこか曖昧だった。


生き物が、五百年も生き続けられるはずがない。

だが、目の前のその体は――腐敗しているようには見えなかった。


魔物。―――一瞬、その言葉が、田辺博士の脳裏を(よぎ)った。

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