【6】 封印された死と、繋がる石箱の謎
外はいつの間にか夜の闇に包まれ、窓ガラスには、向かいの作業員宿舎から漏れる外灯の光が、ぼんやりと映り込んでいた。
時貞は一つ息を整えると、静かに話を続けた。
「ここまで破竹の勢いで快進撃を続けていた“甲軍”――つまり武田軍が、突然、兵を引き始めるんだ」
「へぇー、武信玄ちゃん、家に帰っちゃったの? ……JRで?」
「ちがう……」
時貞は呆れたように大きく首を振る。
その拍子に長い前髪が顔にかかり、ふと視線を上げると、目の前で一織がニコニコ笑っていた。
――時貞は「はぁ」とため息をひとつ漏らした。
「そのとき、武信玄ちゃんは……負けそうだったの?」
一織が首をかしげると、時貞はきっぱりと首を横に振った。
「いや、全然。確かに、近江に進出して信長の背後を脅かしていた朝倉義景が、上杉謙信の要請を受けて撤兵したことはある。でも――」
「つまり、ガチで足止めされてた“天下無敵の織田ノブピー”が、こっちに来ちゃう流れね? で、いよいよ破竹の武信君とガチンコ勝負ってわけだ。……でもさ、何で朝倉君は、あっさり兵を引いたの?」
言葉のノリは軽いが、一織の疑問は核心を突いていた。
「信長が、謙信に鉄砲や弾薬を送り、間接的に朝倉義景へ“兵を引け”って圧をかけた。裏工作が成功したってわけ。でも、浅井軍や長島の一向一揆はまだ動いているから、武田軍のほうが依然として優勢だったと見られてる」
「じゃあ、なんで武信玄ちゃんは、あっさり軍を引き上げちゃったの?」
一織が小首を傾げて尋ねると、時貞は、アイスティーを一口飲んでから口を開いた。
「……それがね、信玄の撤退理由って、いまもなお“歴史の謎”なんだ。確実な記録は残ってなくて、歴史学者たちがいくつかの説を“それっぽく”唱えてるだけなんだよ」
「ふーん。でも、どっかで読んだよ。たしか、武信玄ちゃんは病気だったって」
歴史そのものにはあまり興味がない一織だったが、“今もなお謎のまま”という言葉には、少し興味を惹かれていた。
「うん。信玄は、あのとき病に伏していて、長篠城の近くの鳳来寺にいたっていう説もある」
「病気って、何だったの?」
「現代の医学で言えば、肺結核とか胃がんじゃないかって言われてる。あと『甲陽軍鑑』にはね、天正元年四月十一日の午後二時に容体が急変して、口の中に“くさけ”ができて、歯が五、六本抜けた――って、かなり詳細に記録されてるんだよ」
「えぇ~、なんかリアルで怖い……。他にも説、あるの?」
「あるよ。信玄が鉄砲の弾で致命傷を負ったっていう“銃創死因説”もある」
「じゅーそー? ……なにそれ、柔道の技名みたいだぞい」
「これは、信玄が野田城を攻略中の城内から、夜になると美しい笛の音が聴こえてきた。この村松芳休の横笛に誘われて、それを聴きにきた信玄に――」
時貞は少し間を置き、静かに言った。
「……城内にいた鳥居三佐衛門っていう武士が、鉄砲を撃った。
弾は信玄の右肩に命中して、その傷が悪化した……という説なんだ」
「え、なにそれ……悲しくて、ちょっとロマンチック」
戦の夜。
月明かりの下、静まり返った野田城のほとり。
敵の城から聴こえてくる横笛の音に、じっと耳を澄ませる名将・武田信玄――
「……きっと武信玄ちゃん、一人で目を閉じて聴いてたのよねぇ」
「えっ、うん……たぶん、そうかな」
時貞は苦笑しながら、曖昧に頷いた。
信玄が目を閉じていたかどうかなど、専門家たちはきっと気にも留めないだろう。
だが、その想像力は――どこか鋭い。
「武田信玄の場合はね、死因もあいまいだけど、死んだ“あと”の話にも、いろんな説があるんだよ」
そう言うと、彼はゆっくり立ち上がり、窓際の小型冷蔵庫へ向かった。
窓の向こうでは、夜の闇に紛れて、小さな羽音が跳ねるように聞こえる。
七月の湿った夜気に誘われて、蛾や羽虫が外灯に群がり、ガラスにコツリとぶつかっては、反射した光に吸い寄せられるように何度も舞い戻っていた。
時貞は、冷蔵庫から冷えたアイスティーのペットボトルを取り出すと、紙コップに注いだ。
「それって、葬儀のことよね」
一織が視線で時貞を追いながら、人差し指を立てて言う。
時貞は無言のまま、もうひとつの紙コップにもアイスティーを注いで歩み寄り、そっと彼女に手渡した。
一織はこぼさないように受け取り、アイスティーの冷たさに目を細める。
「そうだね。信玄の場合、いくつか説があるけど……ひとつは、遺体は駒場の長岳寺で火葬(荼毘)された、というものだ」
「でも、観た映画では違ったわよ」
「もうひとつは、息子の勝頼に“三年間は喪を秘して、機を見て上洛せよ”と遺言したという説だね」
「そうそう、かっちゃん、かっちゃん。それって、有名な影武者の話よね」
「あと一つは……『わが遺骸を諏訪湖に沈めよ!』という遺言説もある。
遺骸っていうのは、火葬後の灰じゃなくて、遺体そのもののことだよ」
「ふーん、何か意味ありだ、……ぞい」
そう言って、一織はアイスティーを一口飲んだ。外の羽音はまだ、窓の向こうで断続的に響いていた。
「信玄の死因は、たとえば信長みたいに“本能寺で明智光秀の謀反により死亡”といった、明確な記録が残っていない。
だからこそ、いろんな説が生まれてくるんだ」
「でもさ、そういうのって……ちょっとミステリーよね。謎ってワクワクする。
記録が“残ってない”って、逆に“何かを隠したかった”ってことかも……」
一織の目がきらきらしてきた。ミステリーの気配を感じ取っている。
「とはいえ、いくつか“だいたい一致してること”もあってさ。
武田信玄は、天正元年――つまり元亀四年の四月十二日。
三河街道を通って軍を甲斐に戻す途中、浪合と駒場(今の静岡県引佐郡細江町)のあたりで、五十三歳で亡くなった……とされている」
「でも、それだって“されてる”だけでしょ? 本当かどうか、分かんないじゃん」
一織が眉をひそめた。
「まあ、そうなんだけど……でも、もし本当にその“辺り”で信玄が死んだとしたら――」
時貞は、ふっと言葉を切り、一織の目を見た。
「……さっき言った、“石箱を沈めた日”は、そのすぐ後になるんだ」
「――あっ!」
一織は、ぱっと目を見開いた。
「そうか、ここで“あれ”が、“これ”と繋がるんだ……!」
「古文書にある、箱を沈めた日付は――天正元年、四月十五日」
「……死んだのが、四月十二日。だったら、三日後。……あの石の箱って、武信玄ちゃんのお墓――なの?」
と、一織が大きな謎を解いたように言うと、時貞は静かにアイスティーを一口、口に運んだ。
確かに、一織の考えにも一理ある。
だが――時貞の胸の奥には、何かが引っかかっていた。
何故、信玄は、死んだ際に大々的な葬式を行い、歴史に自身のピリオドを残さなかったのか。自分の死をそれほどまでに隠す必要がなぜあったのか?
また、古文書に書かれている、鬼(獄禍)と、大きな首無し武者。
そして時を同じくして、信玄の突然の撤退と死。
―――時貞には、この次元を超えた歴史のパズルが、何処かで全てがひとつに繋がるような気がしてならなかった。




