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戦国の封獣・壱 〜信玄と鬼の眠る湖〜  作者: 霧原零時(orすっとぼけん太)
第6章 信長の鬼伝説と信玄死の謎
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【5】 首のない時代と、混迷の戦国

「元亀三年(1572年)に入ると、首のない大きな荒武者が、武田領内を荒らすようになった……」


時貞が、資料の一節を読み上げた。


「首なし!? え、ホラーじゃん……」

一織が眉をひそめて資料を覗き込む。


「それがね、武田家の記録に何度も出てくるんだ。しかも、時期的には信玄の“西上作戦”とぴったり重なってる」


「“西上”……って、つまり『オイラが天下をとったるぜぇ!』作戦?」

一織がふざけるように肘でつついてきたが、その口調とは裏腹に、目は資料の年号をしっかり追っていた。


「うん、まあ、そんな感じ」

時貞が苦笑しつつも、資料をめくった。


「武信玄ちゃん、頑張るぅ~」


「……たけしんげんちゃん、って……」

時貞が目を伏せて首を振る。


「ちゃん付けは、アウト?」


「……うん。イメージが」


「分かったぞい」


「ぞい。……まあいいか」

時貞が少し笑って続けた。


「信玄は、元亀三年の十月、上洛――つまり京都を目指して甲府を出発した」


「JRで?」


「ちがう。……馬と歩き」

時貞は、あきれたように即座にツッコんだ。


一織はくすっと笑って、すぐに真面目な顔に戻る。


「でもさ、なんで十月? これから冬になるのに、馬で移動って絶対寒いじゃん。……わざと?」


「それが戦略なんだよ。冬は農閑期で兵を動員しやすいし、雪で動けなくなる越後の上杉謙信を封じておける」


「おお~……武信玄ちゃん、地味に策士~。で、それから、どうしたんだぞい? ……ぞいっ、ぞい」

十九歳になった今でも、一織にとって時貞は“お兄ちゃん”のような存在だった。

子供の頃と変わらず、ついふざけて絡んでしまう──その無邪気さの裏には、“もっと話して”という静かな意図が隠れている。


「……はあ」


時貞は大きく息を吐くと、少し疲れた顔で説明を続けた。


「信玄は上洛のために、邪魔になる織田・徳川連合軍に対抗するため、信長の妹を嫁にもらっていた浅井長政や、その後ろ盾だった朝倉義景と連携し、さらに、“お飾り将軍”と呼ばれていた足利義昭とも密かに通じていたと言われてる」


「ってことは、武信玄ちゃんの敵は――後ろに上謙ちゃん、前に織田&徳川コンビの三人。

味方は、浅井君と朝倉君、それと京都の将軍、義昭君の三人に自分で。……おお、3VS4だ、ぞい!」

一織は、両手の指で“敵”と“味方”をカウントしながら、得意げに言う。


「一織……くんも」


「ええー。でもクラスに浅井君っているし。鼻の穴が大きくて……」

一織は、妙に真顔で言い放った。


「はいはい」

時貞は、ツッコむ気力もなくなったように手を振った。

一織に説明している自分が――だんだん信玄よりも無謀な戦をしている気がしてきた。


「ジャジャーン! それで、どっちが勝ったの」

一織はそんな時貞の気持ちなどお構いなしに、効果音付きで身を乗り出す。


「……信玄は初戦を制し、敵の二俣城を攻略し、三方ヶ原でぶつかった織田・徳川連合軍を完膚なきまでに打ち破った」


「え、マジ? 戦国最強の織田君がやられちゃったの? うそぉー、武信玄ちゃん、地味に策士で、強過ぎだぞい」


「いや、信長本人はその時、北近江の小谷城で、浅井・朝倉連合軍と戦っていて、三方ヶ原にはいなかったんだ」


「そっか、……いなかったぞい」


一織はすっかり「ぞい」がお気に入りで、言いたくてしょうがない様子である。

時貞は、もう突っ込む気力すら湧かず、淡々と続きを口にした。


「その後、信玄は東三河の要衝・刑部(おさかべ)に陣を張って年を越し、翌・元亀四年(1573年)の正月に、野田城を包囲した。ちなみに、元亀という年号が気に入らなかった信長が、この年の途中から──『元亀(げんき)』を『天正(てんしょう)』に改元したんだ」


「……天正元年って、たしか……あの石箱が沈められた年の?」

一織が、少し真面目な口調になる。


「そう。その年の四月十五日、武田家によって諏訪湖に石箱が沈められた」


「でもなんで、『元亀』が気に入らなかったの?」


「信長って、たぶん“のろま”とか“鈍い”ってイメージが嫌いだったんじゃないかな。元亀の“亀”が、どうにも気に入らなかったんだろうね」

時貞は、自分でも根拠の薄い仮説を苦笑まじりに語った。


「わかる。私も、年号“ナマケモノ”とかだったら速攻で変えるわ」


「そんなの無いから」


「いや、でも元亀もとかめって、文字だけ見たら“やる気ゼロ年号”って感じあるもん」


「もとかめ……」


「で、それで正月になったってことは……武信玄ちゃん、家を出てから三か月経ってるってことね」


「そうだね」


一織は、時系列を自然に頭の中で組み立てながら問いを重ねていた。

彼女の中では、すでに歴史という名のパズルが少しずつ組み上がりつつあった。


「ふむふむ。で、そのお正月に包囲した野田城ってのは、誰んち?」


「家康」

時貞も、大分面倒臭くなってきた。


「出た、康くん。NHKでよく見るやつ! ぽってり体型で、絶対“カメ年号”とか好きそうなタイプ」


「……やめなさい」


「え、でも織田君が元亀イヤだったなら、康くんは逆に“あえて推す”ってキャラっぽくない?」


「キャラじゃないから」


「……で、それから、どうしたんぞい、ぞいっ」

一織は“ぞい”のリズムに乗りながら、何度も首を縦に振ってノリノリである。


「野田城には、援軍を含めてもわずか五百の兵しかいなかった。

そこを、信玄は三万の軍勢で一気に攻め落とした――それが、元亀四年(天正元年)の二月のこと。

そして翌三月には、長篠城を攻略。

信玄はその城に入ると、すぐさま改修を始めて、三河侵攻の拠点を築いたんだ。

まるで、“ここを足場にして、さらに奥まで攻め込むぞ”って言わんばかりにね」


「三河ってたしか……カメキャラの康くんのホームじゃん!もっと、康くん頑張んないと」


「たしかに三河には、家康の本拠地・浜松城がある」

と、時貞は小さく頷いた。


「けど、アウェイの武信玄ちゃん。もう手が付けられない程、完全圧勝じゃん!」


「いや」


時貞はここで、言葉を止めると、意味深な顔で言った。


「突然信玄は、……ここで不思議な行動に出るんだ」


「不思議な行動……?」


一織が、今度は真面目な顔になって身を乗り出す。――そして続ける。


「もう少しで康くんをやっつけられるってときに? 武信玄ちゃんのその“謎ムーブ”って、いったい何だ――ぞい?」

やっぱり、最後には、どうしても“ぞい”をつけたかったらしい。



天正元年二月――

信玄は、野田城を落とした。

翌三月には、勢いそのままに長篠城を陥落させる。


長篠に足場を築き、次に狙うは家康の本拠・浜松城。

誰もが、武田の快進撃は止まらないと信じていた。


しかし、そこで――決断を迷う時代が、その武田信玄の足を止めた。

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