【3】 失われた、白い道
時貞はゆっくりと、窓の外に広がる諏訪湖を指差した。
「諏訪湖は、高い場所にある湖です。最も低い地点でも標高二七〇メートル、富士見町の落合下木。そして高い所は、八ヶ岳の主峰・赤岳――標高二八九九メートルにまで達します」
その説明に、岩城部長が呆れた顔で、煙草に火を点けた。
「……それが、どうしたんですか?」
もう時貞の方を向いてもいなかった。
時貞は、笑みを浮かべたまま、言葉を継いだ。
「昔の人は、石箱を“沈めた”のではありません。――“置いた”のです。諏訪湖の、真ん中に」
「置いた……湖の真ん中に?」
「ええ」と、時貞はゆっくりと頷いた。
その眼差しには、何か確信めいたものが宿っていた。
岩城部長は顔を上げたが、時貞が何を言っているのか、全く理解ができなかった。
岩城部長は、ようやく顔を上げた。だが、時貞の言っていることが――何を意味しているのか、まったく掴めなかった。
「……あなたは、諏訪のご出身ですか?」
唐突な問いかけに、岩城部長は小さく眉をひそめたが、すぐに首を横に振った。
「いえ、違います」
「そうですか。それは少し残念です」
時貞は頷くと、ふっと表情をやわらげた。
「実は、私も諏訪の生まれではありません。ですが――」
そこで言葉を切ると、会議室をぐるりと見渡しながら、やや声を張って言った。
「この中に、代々この諏訪の地に暮らしてこられた方はいらっしゃいますか?」
三十人ほどが静まりかえる会議室に、わずかなざわめきが走った。
「……わたしは、ずっと諏訪にいますけど」
静けさを破ったのは、四十代前半ほどの、頭頂部がやや薄くなった吉野太一課長だった。手をゆっくりと上げながら名乗り出る。
時貞は、彼のほうに柔らかく微笑みかけた。
「ありがとうございます。では、お聞きしますね。ほんの数年前のことなんですが――」
そこまで言って、時貞は一拍おく。
「年に一度、諏訪湖で“ある現象”が起こっていたのを、覚えていらっしゃいますか?」
「年に一度……?」
吉野課長は、記憶をたぐるように天井を見上げた。
「ええ、春先だったと思います。諏訪湖から、何か音が――聞こえたはずなんですが」
そう言って、時貞は首を少し傾げながら、吉野課長の目を静かに見つめた。
吉野課長は腕を組み、唇を「ム」の字に結んで、ふっと大きく息を吸い込んだ。
「……あっ!」
突然、思い出したように目を見開く。
「ええ、ええ、確かに聴こえてましたよ」
と、大きく頷いた。
時貞は、傾けていた首を戻しながら静かに続ける。
「それは――何の鳴き声だと、言われていましたか?」
吉野課長は、少し口ごもってから言った。
「……竜ですけど」
「竜?」と、岩城部長が思わず訝しげに声を漏らし、吉野課長の顔をじっと見る。
「ええ、わたしも子どもの頃はね、本物の竜の鳴き声だって、信じてました」
そう言って、吉野課長は気恥ずかしそうに、頭を掻いた。
「あはははっ……神童教授も、よく突飛なことをお考えになる」
岩城部長が半ばあきれ顔で言いながら、ゆっくりと時貞の方を振り返る。
その視線と目が合い、時貞も口元をわずかに緩めて微笑んだ。
「そうか、それで――湖に浮かび上がった竜の背中を、昔の人は歩いたんだ」
沈黙していた鈴木がぽつりと顔を上げ、冗談とも本気ともつかぬ調子で言う。
時貞は、鈴木の方に視線を向け、ふっと微笑んだ。
「ええ、それで岩城部長のような、たいへん聡明な方が納得してくだされば、万々歳なのですが……」
と、わざとらしく肩をすくめる。
「きっと反論されるでしょうから、その前に、もうひとつだけ聞かせてください」
時貞の視線が、再び吉野課長へ向いた。
「昔――冬の諏訪湖で、何か遊びをされた記憶はありませんか?」
「ええ、もちろんありますよ」
吉野課長は懐かしそうにうなずいた。
岩城部長が小さく鼻を鳴らし、興味なさげに足を組み替える。
「湖の上で? ボートかジェットスキーかね」
と、半ば皮肉気味に口を挟む。
吉野課長は首を振りながら答えた。
「いえ、スケートですよ」
「スケート?」
岩城部長の手元がわずかにぶれ、くわえていた煙草がテーブルに落ちた。
吉野課長は構わず話を続けた。
「ええ、昔は諏訪湖全体が、厚さ一メートル以上の氷に覆われたんです。
子どものころは、冬になると毎年のように、湖の上でスケートや雪遊びをしていました。
春が近づくと、北から南へ――まるで大地を裂くような轟音と共に、氷が真っ二つに割れる。
それが、諏訪湖の“御神渡り”です」
「分厚い氷……?」
岩城部長の眉間に、深く皺が刻まれた。
「その氷が割れるときの音が、またすごいんです。まるで大地が裂けるような轟音で、昔は諏訪市のどこにいても、その地響きのような音が聴こえたと言われています」
「その音が?」
「ええ――“竜の鳴き声”だと、昔の人たちは信じていたんです」
「……それは、いつ頃?」
「だいたい春の少し前――三月か四月だったと思います」
吉野課長の答えに、時貞はゆっくりと頷き、一拍置いてから、会議室全体へ目を向けた。
そして、左手をふわりと広げ、前へと静かに差し出す。
――さあ、どうぞ。
それは、舞台でクライマックスの台詞を促す役者のようでもあった。
出席者たちは一斉に、配られた資料に目を落とす。
「天正元年、四月十五日です!」
最初に見つけた若い鈴木が、少し誇らしげに声を上げた。
時貞は静かに頷いた。
「そうか。石の箱は――諏訪湖に張った氷の上を滑らせて、湖の中央まで運んだんだ」
鈴木は、自らのひらめきに満足したように、そっと微笑んだ。
「イッツ、コンプリート(It’s complete.)!」
時貞は開いていた左手を、ゆっくりと拳に変えて、勢いよく肘を引いた。
そして、微かに陶酔を帯びた瞳で、天井を見上げる。
――完全に、自分の世界に浸り込んでいた。
一方、岩城部長は沈黙したまま、手元の煙草の火をじっと見つめていた。
まるで、自らの理論が静かに燃え尽き、灰になる瞬間を見届けるかのように――。
少しして、我に返った時貞は、吉野課長に丁寧に頭を下げると、視線を会長席へ移し、軽く一礼した。
水篠会長は満足げに頷き、目を細めてその様子を見守っていた。
そして、一織も拳を握り、テーブルの下で小さなガッツポーズを作った。
――岩城部長の、完全なる敗北であった。




