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戦国の封獣・壱 〜信玄と鬼の眠る湖〜  作者: 霧原零時(orすっとぼけん太)
第5章 湖の真ん中に、どうやって石箱を?
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【3】 失われた、白い道

時貞はゆっくりと、窓の外に広がる諏訪湖を指差した。


「諏訪湖は、高い場所にある湖です。最も低い地点でも標高二七〇メートル、富士見町の落合下木。そして高い所は、八ヶ岳の主峰・赤岳――標高二八九九メートルにまで達します」


その説明に、岩城部長が呆れた顔で、煙草に火を点けた。


「……それが、どうしたんですか?」

もう時貞の方を向いてもいなかった。


時貞は、笑みを浮かべたまま、言葉を継いだ。


「昔の人は、石箱を“沈めた”のではありません。――“置いた”のです。諏訪湖の、真ん中に」


「置いた……湖の真ん中に?」


「ええ」と、時貞はゆっくりと頷いた。


その眼差しには、何か確信めいたものが宿っていた。


岩城部長は顔を上げたが、時貞が何を言っているのか、全く理解ができなかった。


岩城部長は、ようやく顔を上げた。だが、時貞の言っていることが――何を意味しているのか、まったく掴めなかった。


「……あなたは、諏訪のご出身ですか?」


唐突な問いかけに、岩城部長は小さく眉をひそめたが、すぐに首を横に振った。

「いえ、違います」


「そうですか。それは少し残念です」


時貞は頷くと、ふっと表情をやわらげた。

「実は、私も諏訪の生まれではありません。ですが――」


そこで言葉を切ると、会議室をぐるりと見渡しながら、やや声を張って言った。

「この中に、代々この諏訪の地に暮らしてこられた方はいらっしゃいますか?」


三十人ほどが静まりかえる会議室に、わずかなざわめきが走った。


「……わたしは、ずっと諏訪にいますけど」


静けさを破ったのは、四十代前半ほどの、頭頂部がやや薄くなった吉野太一課長だった。手をゆっくりと上げながら名乗り出る。


時貞は、彼のほうに柔らかく微笑みかけた。


「ありがとうございます。では、お聞きしますね。ほんの数年前のことなんですが――」


そこまで言って、時貞は一拍おく。


「年に一度、諏訪湖で“ある現象”が起こっていたのを、覚えていらっしゃいますか?」


「年に一度……?」


吉野課長は、記憶をたぐるように天井を見上げた。


「ええ、春先だったと思います。諏訪湖から、何か音が――聞こえたはずなんですが」


そう言って、時貞は首を少し傾げながら、吉野課長の目を静かに見つめた。


吉野課長は腕を組み、唇を「ム」の字に結んで、ふっと大きく息を吸い込んだ。


「……あっ!」


突然、思い出したように目を見開く。


「ええ、ええ、確かに聴こえてましたよ」

と、大きく頷いた。


時貞は、傾けていた首を戻しながら静かに続ける。


「それは――何の鳴き声だと、言われていましたか?」


吉野課長は、少し口ごもってから言った。


「……竜ですけど」


「竜?」と、岩城部長が思わず訝しげに声を漏らし、吉野課長の顔をじっと見る。


「ええ、わたしも子どもの頃はね、本物の竜の鳴き声だって、信じてました」


そう言って、吉野課長は気恥ずかしそうに、頭を掻いた。


「あはははっ……神童教授も、よく突飛なことをお考えになる」

岩城部長が半ばあきれ顔で言いながら、ゆっくりと時貞の方を振り返る。

その視線と目が合い、時貞も口元をわずかに緩めて微笑んだ。


「そうか、それで――湖に浮かび上がった竜の背中を、昔の人は歩いたんだ」

沈黙していた鈴木がぽつりと顔を上げ、冗談とも本気ともつかぬ調子で言う。


時貞は、鈴木の方に視線を向け、ふっと微笑んだ。

「ええ、それで岩城部長のような、たいへん聡明な方が納得してくだされば、万々歳なのですが……」

と、わざとらしく肩をすくめる。

「きっと反論されるでしょうから、その前に、もうひとつだけ聞かせてください」


時貞の視線が、再び吉野課長へ向いた。

「昔――冬の諏訪湖で、何か遊びをされた記憶はありませんか?」


「ええ、もちろんありますよ」

吉野課長は懐かしそうにうなずいた。


岩城部長が小さく鼻を鳴らし、興味なさげに足を組み替える。

「湖の上で? ボートかジェットスキーかね」

と、半ば皮肉気味に口を挟む。


吉野課長は首を振りながら答えた。

「いえ、スケートですよ」


「スケート?」

岩城部長の手元がわずかにぶれ、くわえていた煙草がテーブルに落ちた。


吉野課長は構わず話を続けた。

「ええ、昔は諏訪湖全体が、厚さ一メートル以上の氷に覆われたんです。

子どものころは、冬になると毎年のように、湖の上でスケートや雪遊びをしていました。

春が近づくと、北から南へ――まるで大地を裂くような轟音と共に、氷が真っ二つに割れる。

それが、諏訪湖の“御神渡り”です」


「分厚い氷……?」

岩城部長の眉間に、深く皺が刻まれた。


「その氷が割れるときの音が、またすごいんです。まるで大地が裂けるような轟音で、昔は諏訪市のどこにいても、その地響きのような音が聴こえたと言われています」


「その音が?」

「ええ――“竜の鳴き声”だと、昔の人たちは信じていたんです」


「……それは、いつ頃?」


「だいたい春の少し前――三月か四月だったと思います」


吉野課長の答えに、時貞はゆっくりと頷き、一拍置いてから、会議室全体へ目を向けた。

そして、左手をふわりと広げ、前へと静かに差し出す。


――さあ、どうぞ。


それは、舞台でクライマックスの台詞を促す役者のようでもあった。

出席者たちは一斉に、配られた資料に目を落とす。


「天正元年、四月十五日です!」

最初に見つけた若い鈴木が、少し誇らしげに声を上げた。


時貞は静かに頷いた。


「そうか。石の箱は――諏訪湖に張った氷の上を滑らせて、湖の中央まで運んだんだ」

鈴木は、自らのひらめきに満足したように、そっと微笑んだ。


「イッツ、コンプリート(It’s complete.)!」


時貞は開いていた左手を、ゆっくりと拳に変えて、勢いよく肘を引いた。


そして、微かに陶酔を帯びた瞳で、天井を見上げる。

――完全に、自分の世界に浸り込んでいた。


一方、岩城部長は沈黙したまま、手元の煙草の火をじっと見つめていた。

まるで、自らの理論が静かに燃え尽き、灰になる瞬間を見届けるかのように――。


少しして、我に返った時貞は、吉野課長に丁寧に頭を下げると、視線を会長席へ移し、軽く一礼した。


水篠会長は満足げに頷き、目を細めてその様子を見守っていた。


そして、一織も拳を握り、テーブルの下で小さなガッツポーズを作った。


――岩城部長の、完全なる敗北であった。

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