【2】 浮上するもの、それぞれの過去
碧がふと顔を上げると、地上の大型クレーンの一台に乗った龍信の姿が目に入った。
彼は作業員たちに大声で指示を飛ばしており、その迫力ある怒鳴り声が遠くまで響いている。
現場全体が張り詰めた空気に包まれ、引き上げ作業がいよいよ佳境に入ったことが、ひしひしと伝わってきた。
(偉そうに……)
碧は、ほんの少し前に見せた龍信のオドオドした顔を思い出し、思わず口元を緩めた。
「ああ、龍信さんのこと?」
と、一織が声をかけた。
碧が湖とは逆の方向を見つめていることに気づき、視線の先をたどって納得したようだった。
碧は小さく頷きながら、再び一織の方へ顔を向けた。
「龍信さん、男らしくて格好いいわよね。四郎とは大違い」
一織は、遠くにいる龍信を見やりながら、ふと呟くように言った。
時貞は、どちらかと言えば痩せ型で色白。運動が得意というわけでもなく、“熱血”や“根性”といった言葉とは縁遠いタイプだった。
一方で龍信は、日焼けした肌に、無駄のない筋肉をまとった体格。
その顔立ちは、まるでタフなハリウッド俳優のようで――時貞とはまさに対照的な存在だった。
「龍信さんね、バイクのレースをやってるの。ついこの間まで仙台の方まで走りに行ってて、今朝、やっと帰ってきたばかりなのよ」
一織はそう続けると、少し声を落として言葉を継いだ。
「本当は、もっと前に帰ってくる予定だったの。でも、帰り道で一緒に走ってた仲間が事故を起こして……。その人、昨日まで意識が戻らなかったんだって」
碧は黙ったまま耳を傾けていた。
話の内容があまりにも意外で、思わず相槌を打つことさえ忘れていた――。
一織は、ふと碧の方へ視線を戻すと、話を続けた。
「周りのみんなは、先に帰るようにって言ったんだけど……。龍信さん、自分と一緒に走ってた奴が事故ったのは、自分の責任だって言って。寝ずに病院に付き添ってたらしいの。昨日になってようやく意識が戻って、脳に異常がないって分かったので、バイクを飛ばして、そのままここに来たんだって」
「へぇ……」
碧は、複雑な表情を浮かべたまま、小さく頷いた。
「ね? あんまり喋らない人だけど……」
一織はそう言いながら、クレーンの上で指示を飛ばしている龍信に視線を移した。
「何日も寝てないのに、戻ってくるなり現場に出て。ああいうところ、本当に責任感のある人だと思う」
(ちょ、ちょっと待って……)
碧は思わず心の中でブレーキをかけた。
最低の暴走族だと決めつけて懲らしめた男が――
仲間を思い、責任感を持って働く、実直な男だったなんて。
それは、まさに自分が“理想”とする男像に近すぎた。
(いやいや、そんなはずない。あんな男が……)
碧は首を横に振り、なんとか自分を納得させようとした。
一織は、碧の顔をのぞき込むと、少し声を落として話を続けた。
「四郎もね、本当は違うの。ああ見えて、あれ、わざとやってるのよ。わざと“軽く”見せてるの」
碧が目を細めると、一織は続けた。
「高校くらいまで、四郎には友達がひとりもいなかったの。本人は気づいてなかったみたいだけど……。
周りの人は、お父様のこととか、裕福な家のこととかで、なんとなく距離を置いちゃってたのよ。
それに頭がすごく良くて、教室で、平気な顔でドイツ語の本なんか読んでるもんだから、もう“次元が違う”って思われちゃって」
碧はじっと一織の顔を見つめていた。
「それに、あの顔でしょう? 日本人離れした美形っていうか……。
あんな顔で難しい本読んで、不思議なオーラ出してたら、誰だって話しかけづらくなるわよね」
「ふぅーん……」
碧は小さく頷きながら、少しだけ考え込んだように目を伏せた。
一織は、湖の方へ目をやり、少し間を置いてから続けた。
「それでね、ある時、四郎は気づいたの。……自分が、ひどく孤独だったってことに。
それからよ。おどけたり、馬鹿なことをしたりするようになったのは。わざと、そういう“軽い人”を演じるようになって、壁を壊そうとしてたのね」
少し寂しげに笑って、一織は続ける。
「いまではみんなの人気者だけど……。そんな四郎を、お父様は“家の恥”だって何度も叱ったわ。神童家の人間なら、もっと威厳を持てって。
でも四郎は、聞かなかった。大学に入ると同時に、家を出て行ったの」
碧は静かに、大きなため息をついた。
「…………だって、そうでしょう? 本当なら、わたしみたいなただの学生が、歴史考古学の教授に向かって怒鳴るなんて、できるわけないでしょう」
一織は優しく微笑みながら、碧の方を見た。
「それを四郎は、わざとやらせてくれてる。――威張ることも、権威を振りかざすことも、あの人はいちばん嫌いだから」
言い終えると、一織は少し悲し気な顔で微笑んだ。
碧は、その笑みに――どこかで心を動かされていた。
(それで、……さっきも、神童教授が最初から偉い博士だと名乗っていれば、わたしみたいな一介のレポーターはどんな事でも聞いたと思う。それを、あの人は……あえて“最低の男”を演じていた)
(地位や肩書きなんて使えば、もっと楽にことを運べただろうに)
(――なのに、しなかった)
碧は、時貞の“本当の性格”が少しだけ見えた気がした。
それは碧にとって――嫌な性格ではなかった。
「……優しいのね」
碧がぽつりと呟くと、一織は微笑んでうなずいた。
「ええ、悲しいくらいに優しいの。四郎はね、誰といても、いつだって自分を下に置いてしまうの。……本当は、誰よりも雲の上の存在なのに」
その言葉に、碧もそっと頷いた。
「でもね、今でもたまにあるの」
と、一織は小さく笑って言葉を継いだ。
「四郎が、難しい本を読んで真剣な顔をしてるとき――あのときばかりは、わたしでもちょっと声をかけられないのよ」
碧は、そんな一織の言葉を胸に受け止めながら、ゆっくりと視線を湖面へと向けた。
◇
湖面が、ゆっくりと――だが確実に、山のように盛り上がった。
近くにいた船が大きく揺れ、波が何重にも広がっていく。
やがて、水面から現れたのは――
真っ白な、巨大なドーナツのような物体だった。
気球の“頭”が湖面に浮かび上がり、その中央部分は、内部から張られたワイヤーに引かれて大きく窪んでいる。
外周の円形部分だけが盛り上がり、まるで、空気をはらんだ巨大な浮き輪のように見えた。
そのときだった。
クレーンの上にいた龍信が、大声で合図を送る。
すぐさま、数人の潜水作業員がワイヤーを手に取り、船から次々と湖へ飛び込んだ。
彼らは、浮上した気球の下にある石箱の底部へと潜り、ワイヤーをまわして固定していく。
やがて、そのワイヤーは、両脇に控えていた二隻のタグボートへと繋がれた――。
湖の中は、これまで以上に濁っていた。
潜水作業員たちは一人、また一人と“水の闇”へ消えていき、やがて、石箱の底部にワイヤーを固定していった。
全ての取り付けが終わると、二隻の船が動き出す。
ワイヤーをぐいと引っ張り、湖上を岸へ向かって滑るように進んでいく。
岸の近くまで来ると、船上の作業員が手際よくワイヤーを外し、それを地上に建てられた四基のクレーンへと繋ぎ直した。
役目を終えた船は、ゆっくりと湖上を後ろへと退いていく――。
現場責任者の源次が、クレーンの前に立ち、二本の紅白の旗をもって、スタートの合図を送る。
直後、四基のクレーンが一斉に唸りを上げ、重低音のエンジン音が地面を震わせた。
数秒後――
湖面に沈んでいたワイヤーが、岸辺からゆっくりと水面に現れ始める。
水を切りながら手繰り寄せられ、たるんでいた張力が、次第にぴんと張っていく。
「三号機、早すぎるぞ! 慌てるな!」
一号機の上から、龍信の怒声が飛んだ。
源次はすぐさま赤い小旗を掲げ、三号機に“抑えろ”のジェスチャーを送る。
四本のワイヤーは、全機が完璧に呼吸を合わせて引かなければならなかった。
一台でもタイミングを誤れば、全ての荷重がそこに集中し、逆にクレーンごと湖へ引き込まれてしまう。
それほどの命がけの作業だった。
やがて、四本のワイヤーがぴんと張り詰める。まるで、巨大な凧の糸が空に向かって引き絞られるように。
「ヴガガガガガガッ!」
巨大な石箱の重みに、四基のクレーンが同時に悲鳴を上げる。鉄骨がぐいとしなり、まるで巨大魚を釣り上げようとするトローリングの竿のようにしなる。
ワイヤーがゆっくりと巻き上げられていく。
まるで、信じられないほどのサイズのブラックサーモンが四本の竿に一斉にヒットしたようだった。
白い巨大な“ドーナツ”――気球の円形シートが、水をかき分けながら岸へと近づいていく。
そしてついに、石箱の底が湖畔の浅瀬に触れ、そのまま静かに止まった。
石の一部が、水面からわずかに姿を覗かせている。
再び船が近づき、潜水作業員が湖に飛び込んだ。
まずは、石箱がこれ以上沈まないことを水中で確認する。
問題がないと分かると、箱の後部――湖面で萎んでいた気球に繋がっていたワイヤーを取り外した。
ここからは、地上に待機していた“第二工程”へ移行する。
前後二機ずつ、計四基のクレーンが待ち構えていた。
石箱の四隅には、あらかじめリング状のワイヤーが取り付けられている。
クレーンから伸ばした太いワイヤーの先端――巨大な釣り針のようなウインチを、そのリングにひとつずつ丁寧に引っかけていく。
四基のクレーンで、箱の四隅を同時に持ち上げる――それが次の作業の核心だった。
いよいよ、ウインチ取り付けの工程に入る。
この作業には時間がかかるため、現場の作業員を除いた関係者たちは一時的に昼食休憩となった。




