第1話:甕星
『徐福来航記』
――これは徐福が始めた物語である。
その男は、秦国の政治を委任され、秦王の右腕として商人から宰相にまで上り詰めた者である。そして秦王――後の始皇帝に罪を問われ、蜀の国へ行くように命じられると、国へ行く道中で自害したと言い伝えられているが、生き残っていたとも言われている。
爪痕だけを残し幕引きは有耶無耶に。まさに商人の鏡である男。
もしもその男――呂不韋が、名を変えて『徐福』として生きていたとしたら。
徐福という者は、秦の始皇帝を口車に乗せ、三千人の童男童女を連れて不老不死の薬を求めて出港したとされている。日本では徐福伝説として伝わっているが真実は定かではない。
この物語は、その徐福と名を改めた呂不韋が、仙人仙女が住まう仙界へ漂着した事により始まるのである。
この話を聞いて、目の前のあなたは少し口角が上がるだろう。夢物語にもほどがある、と。
しかし、これは数ある世界線の内の一つの話なのだ。
この本に、全てを記す。
――『徐福来航記』
***
「――無罪放免になったのは良いものの……」
霓裳に身を包んだ呂不韋こと徐福は、二千年以上前の在りし日に肩をすくめる。
前髪が陽の光を浴びた朝露の如く容貌を、御簾のように遮る。その煩わしさよりも、自分が置かれている状況を理解する為に、徐福は食客の弾む会話のような口調で追憶していく。
「新天地を目指し出港するも船が難破し、仙人仙女が住まう仙界へ辿り着き、諸々平定し、最終的に自分が王になるとは……」
踊り子顔負けの小躍りをして、仙界の王――聖炎帝徐福は、汗と涙の仁王立ちでその嘆きを表現した。白皙の顔が朱に染まり、不規則な呼吸でその場に寝転ぶ。
「しかも若返り、不老不死になってしまった!」
王と呼ぶにはあまりに自由奔放な姿。それは彼が約二千年間、肉体が若返ったままの状態で過ごしていた為、年を取るという概念が不要になり、そして王となり、誰憚ることなく暮らし、精神的な成長を必要としなくなった結果である。
徐福は今もあの運命の日から進めずに、時が止まったままなのだ。
「それにしても暇だ。王という役割にも飽きてしまったし。二千年も同じ事をしていれば、商売でも始めたくなってしまう」
眉を寄せて、普段から持て余している足を揺らす。かつて共に愛を誓い合った仲でありながら、自らの手で破滅へと追い込んでしまった女の面影を想起し、身悶えしながら体制を変えると、浮き出た骨盤の骨が床に当たる。その感触を眠気覚ましとして、徐福は起き上がった。
「よし。暇潰しに現世でも見るとするか」
浮き立ちながら現世を空間に映し出す。霧がかった物体に火花のように線が張り巡らされている。それは結界を示す線であり、とある山を起点に四方八方に結界が張られている。
「どれどれ……これは、ニッポンのフジ……富士山だったか?随分古い結界だな」
徐福が訝しげに注視する。線も多く絡み合うように練られている術式に、指がそれを辿る。太古の息吹が保存され、悠久の時を超え今を創る歴史書に目を細めるが、本来ならば解けないであろう繋ぎ目が連鎖して解けていく。
「うん?何故、結界が解けていく?」
徐福が状況を認識すると同時に、山の底からナニカが這い出る。それらは瞬く間に日出ずる國である日本を覆いつくし、彼らはかつて自分達が生きた土地で、生を謳歌する事を祝福し荒魂としてケガレを振りまく。
「これは、放っておくと現世が不味い事になるな。干渉すべきか、否か……」
観測している徐福は、その惨状を前にして己の利益と現世の平和を天秤にかける。
すると、仙術を施された一羽の紺碧の霊鳥が執務室へ入り、棒立ちする徐福に告げる。
「仙帝!ケガレが現世にて発生!そして事を起こした者は――」
その続きを聞く前に、徐福は台の上の食べかけの蟹を霊鳥の嘴が閉じなくなるほど詰め込む。
「お前は逃げるのだ。その青い羽根に赤は似合わぬ」
仙界の王――聖炎帝徐福として告げ、深紅の衣から霊鳥を解き放つ。その姿を見送ろうとする前に、何者かが徐福を取り囲んだ。彼らは馬脚を露わした犯人を追い詰める目をしており、徐福は青い鳥の言おうとしていた事を悟る。そして、一人の男が徐福の前へ足を運ぶ。
「聖炎帝、貴方を現世干渉法の違反により捕縛します」
「まさか、共にこの仙界へ降りた友が、私を裏切るとはな」
「裏切ったのは貴方です。富士の結界を破り、仙界と現世の調和を乱したのですから。皆の者、連れて行きなさい」
時間にして僅か三分にも満たないやり取り。それは計画されたというよりかは、芝居の練習風景のようだった。三分以内で、徐福は二千年分の時間を失ったのである。
徐福ともう一人の男は手下が徐福を連れて行くまで目線すら合わせなかった。それは二人が共に過ごしてきた時間が、さして重要ではない、ただこの世界で生き残りたかっただけの刹那的な協力関係の証であった。
「この部屋は趣味が悪い。後で創り変えるとしましょう」
一人残った男は椅子に腰を掛け、暗器の一つである短刀の匕首を机に突き刺した。
一方徐福は、現世神門領域にて、男の配下に現世へ通じる門へと連行されていた。
「あの男の元へ戻れ」
徐福は歩みながら男の配下達に暗示をかけ拘束具を外す。
「ふう。素人を寄越すとは。やはりこれは別の者の計画と見て良さそうだな」
徐福は現世神門の前で仙人仙女が着る衣である霓裳を軽くはたき、肩を回す。
「さて、晴れて王の身から脱却だ。まつろわぬ者を平定した件は現世で償うとするか」
商売人と異なり失敗は許されない王という役割。その重圧に耐えながら、先王から玉座を略奪した王として、二千年以上君臨し続けた徐福。一挙一動が命取りであり、即位したての頃は、刃物の冷たさに身震いしながら政務を行っていた。
故に、その死人同然の生活から抜け出せるこの機会を、逃すはずがなかったのである。
「二千年ぶりの現世――いざ参る!」
こうして徐福は現世への門を叩き、第二の人生を謳歌する旅へ赴くのであった。
徐福が即位する為に殺害された、仙人仙女の魂、略奪した玉座、文明を残して。
――十五年後。現世。寒川神社領にて。
「さあ、早く着替えて下さい!桐矢様!」
「嫌だ、死にたくない!」
朝から雀も彼方へ飛ぶ声が境内に反響する。
神職が身に纏う狩衣を押し付ける男と、それを拒む少年――阿曇桐矢のやり取りに、周囲の者達は互いに目配せをする。
「何度も言うようですが、五年前に富士の結界が崩壊した結果、この国にケガレが蔓延し、我々神官が駆り出されるようになったのです。たたでさえ人手が足りないというのに、神官を束ねる阿曇家の人間が神官にならないのでは、他の者に示しがつきません」
「なに、俺が死んでもいいって事?」
桐矢の問いに、男の狩衣の模様が歪む。背後の者達も表情もそれに同調する。
「死んで欲しい訳ではありませんが、名誉ある死であれば致し方ありません」
売り言葉に買い言葉。男の言葉で桐矢は踵を返す。
「そういうとこ、前から気に食わなかったんだ。もう学校行く。付いてくるなよ」
鳥居を駆け抜けてしまった桐矢を引き留める術はなく、その場に居た者は頭を抱えた。
意図せず訪れた静寂に、残された者達――神官達は砂利の擦れる音や咳払いで間を取り持とうとする。 そこへ勇敢で命知らずな神官の一人が前へ出る。今夜の飲み会の主役はこの男である。
「あの……少し言いすぎなのでは?」
「はい?」
上司の圧に背中を丸める神官。勢いだけは良かったと、背後で神官同士が彼を評価する。
「あっ、いえ。その、桐矢君はまだ十五歳ですし、私の息子も反抗期でして。あのような感じなので……」
「貴方が甘やかすから、お子さんの反抗期が終わらないのでは?」
「ご、ごもっともです……」
脇腹を突く言葉の一撃。理想の親の像に正解はないが、上司に言われれば話は別である。
目上の者には逆らうべからず。それが古来の伝統を重視してきた社会に身を置いていれば、もはや体に染み付くというもの。
「彼は独身なので、反抗期云々の話は分からないと思いますよ」
そこへ火のない所に煙は立たぬ、という言葉を焚きつける少年が足音を立てずに現れる。
「橿原。見ていたのなら、貴方からも説得しなさい」
「ええ?説得ですかぁ。それが出来る間柄だったら良いんですけどね」
叱責する男に臆する事なく、橿原という少年は間延びした様子で腕を後ろで組む。
平和慣れした一般市民のような雰囲気を纏っているが、どこか気が緩まないのは橿原が十五歳にして、国家を保全する為に設けられた局を統制する、統制局の局長候補と噂されているからである。加えて、橿原は渦中にやってきては乱し、後始末は当人に任せ分裂した所に美味い話を持ってくるという傍迷惑な性分があった。
「さ。皆さん業務に戻って下さい」
話が広がる前に、彼らは八方に散った。八方除けの神社に相応しい神官達の振舞いである。
「ううん……。美味しい話、持ってきたんですけどね」
橿原はケガレの結晶を懐から取り出し、太陽に掲げる。夜空を閉じ込めたような結晶と同等の輝きを、橿原は瞳に宿していた。
――秦野学園、中等部生徒会室にて。
窓の隙間から風と共に運ばれてくる運動部の掛け声。若葉の囁き。踵を踏んだ上履き。腕を捲った制服。少し整えた髪。この学生の特権ともいえる時間を、阿曇桐矢は存分に堪能する。
十五年前の災害によって、桐矢の生活は一変した。富士の結界により封じ込めていたケガレが日本に蔓延し、この国は外界から隔絶された異界として列島ごと封印される形となった。
その為、政府は各神社に所属する神職の中から、古来より朝廷に仕えてきた豪族の血筋の者達を『神官』として、封印されてきた神力を開放し、国家を保全するという対策を取った。
その日から桐矢は世の為、人の為に命を捧げるように生きる事を定められ、術や力の使い方を教わるようになってから、人間らしい生活を送る事はなかったのである。その反動か、桐矢は『生きる事』に執着を抱き、神官になる事を拒むようになった。
紙を捲る音がやけに大げさに聞こえて、阿曇桐矢は顔を上げる。
すると扉が勢いよく開き、新緑の露が跳ねたような声が夕陽が差し込む生徒会室を塗り替えた。
「センパイ!俺の原稿、もう読んでくれました?」
振り返ると、後輩の三河剣が純真な笑顔で桐矢の顔を覗き込む。間髪入れない距離の詰め方は年相応の対応であり、桐矢はその眩しさに瞬きを何度もする。
「うん。読んだ。これなら、来月の生徒会新聞には載せられるな」
「やった!マジで頑張って良かった……センパイ、枚数多いのに全部読んでくれてありがとうございます」
「いやいや、全然。情熱を全身に浴びて気分が良いから大丈夫」
後方で腕組をしているような面構えで、先輩風を吹かせる桐矢は答えた。剣はその様子に頬に赤を散らして鼻を擦る。
すると、桐矢の鞄から、松田聖子の「夏の扉」が流れる。軽快な音に桐矢は口ずさみながら、液晶に表示された名前に顔を顰める。
「朝の事なら謝んないんだけど――おい、何でお前が出るんだよ、橿原」
「いやあ、僕の電話には出てくれないと思って、スマホ借りちゃいました!それで要件なんですけど、ケガレが出現したので任務に行ってください。あと、これ以上神官になるのを渋ったら、お姉さんの仕事が増えるだけですよ」
「う、ぐ……。卑怯だぞ、姉さんの事を言うなんて!」
桐矢は姉、という単語に声を荒げる。その様子を剣は紙に描いていく。まさに漫画家の手本である。
「ではどうしますか?」
「行けばいいんだろ!この……馬鹿!」
幼稚な罵倒を浴びせると橿原のおざなりな愛想笑いが聞こえ、桐矢は通話を遮断し地団駄を踏む。
「任務、頑張って下さいね、先輩」
「ん……頑張る」
後輩のお膳立てに頭が上がらない桐矢。
そして、桐矢は任務へと向かう。五年間の攻防の末の決断であった。
***
「おい……予想よりでかくないか?」
黄昏時の世界は眩いというのに、桐矢の目の前に居るケガレは大地に影を伸ばす。
「九つの頭……箱根の九頭龍か!」
箱根の九頭龍伝承――それは、箱根の村に若い娘を差し出させていた龍を万巻上人が改心させ、守り神となると約束をした龍を九頭龍大明神として奉ったというものである。
九頭龍はケガレとして富士山から解き放たれ、自由を手に入れた巨体は、暴風を巻き起こしながら市街地で空を飛び回る。時折尾が建物に当たり、人智を破壊していく。
神に近付きすぎた人間を咎めるかのようにも捉えられる現象に、上空に居る監察局の局員は、桐矢に早急に指令を伝える。
「阿曇!対象を討て!首を狙うんだ!」
「了解!」
投擲に近い瓦礫の破片を避けながら、桐矢は建物を利用し、空中に居る九頭龍に接近する。
五年間の訓練で習得した身のこなしは、地上から五分もかけずに九頭龍の体へ、桐矢を飛び乗らせた。
「――捉えた!」
桐矢は人差し指と中指を首に向ける。命乞いは聞かないと言わんばかりの形相で。
そして首に術を打ち込もうとした矢先――。
『私の妻は何処にいる』
とある声がした。それは懺悔でも後悔でもなく、純粋な問いであった。
桐矢は、その妻が伝承による攫ってきた村娘であると悟り、手を下ろす。
この龍は、町を破壊したいわけでも復讐したいわけでもなかったのだ。
ただ、愛した妻に会いたかっただけ。
それに誰も気付かなかっただけなのだ。
「阿曇!早く殺せ!」
「何をしている!市民がどうなっても良いのか!」
どこかで、人間の鳴く声がした。
誰もが自分の事だけを考えて、桐矢に戦わせて安全圏から、命令する。守るべき市民は避難所へ向かい、桐矢の事など見向きもしない。
「悪いのは、ケガレじゃない……」
桐矢はこの時、本物のケガレ、即ち悪とは何であるか、その答えに行き着いてしまった。
「埒が明かない、撃ち込め!」
人間の狼煙が上がる。九頭龍は攻撃された事で、目が覚める。長い、愛しい者の眠りから。
そして、九頭龍は尾を振りかざし、ヘリコプターを建物の屋上へと墜落させる。
尾を掴んでいた桐矢も同様に、背中に衝撃を感じながら宙を舞う。
後頭部から音がして瞼を開けた時には、空は月の時間になろうとしていた。
「……死にたくない、生きたい」
この期に及んで、そんな願望を口にする。
桐矢は人間の根底にある欲求を思い出した。それが、人間の信念であり生存理由なのだと。
だが、それを思い出したとしても、この状況が打破される訳でもない。救助の音沙汰もなく、戦況は全て桐矢の責任となっている。
桐矢は、心臓が位置するあたりに手をかざし、瞼を閉じようとしたのだが――。
突如として、九頭龍の血が桐矢に降りかかる。
それは天の慈悲の雨か、死の雨か。
どちらにせよ、冬が訪れる身体に温もりが欲しかった桐矢は、その恵みを享受する。
すると、神官装束を纏った少年が桐矢の所へと顕現した。
「――初めまして。人間らしい少年」
他の局員は逃げ出したというのに、自分の所へと様子を見に来る物好きに、桐矢はその少年の姿を食い入るように見つめた。
「姓は姜、氏は呂、名は明かせず、字は衛斉。僕の事は衛斉と呼ぶといい」
その姿は、月の役目を奪う太陽であった。
星の瞬き、月の灯りは彼を照らすスポットライト。桐矢自身も彼を救世主たらしめる役目でしかないのである。
太陽を飼う瞳に射抜かれて、桐矢は少年に縋る。
「助けて」
白紋の袴が血に染まり、夜は更ける。
青春映画も匙を投げる、春の話だった。