プロローグ2
「あれ、香澄姉、どうしたの?」
北斗の姉、神無月家の次女が弟の家を訪れたのは、あの事件があった翌週の土曜日の夜であった。
「ちょっとね。いいから入れてよ」
「週末の夜に急に来られても、なんだかと思うよ。先客がいたらどうするの。たとえば雰囲気が良くなった女友達とか」
香澄は、鼻で笑った。
「2次元の存在をそういうなら、いつでもいるかもね。あっ、飼い猫もメスだっけ。もうバカなこと言ってないで、さっさといれなさいよ。あんたの好きなロールケーキと三色団子、あとお酒が重いのよ」
と、手に持った紙袋を掲げた。
「先週とちがって、散らかってるぜ」
北斗としても、用はともかく遠路はるばる好物を持参した姉貴を、無下に追い返すつもりはない。
姉の指摘通り、いつも通り一人で趣味にいそしんでいたのは、間違いなかったので。
で、唐突ではあったが、和洋の甘未を肴にした姉弟の酒宴がはじまった。
飼い猫の「みやび」が、少し興味深そうに寄ってきたが、自分の食べるものでないとわかると、さっさとベットの上に移動してくつろいでしまった。
「めずらしいね、ゲーム機が立ち上がっていないなんて。ひょっとしてまだ仕事していた」
香澄はPCが開いているのをみて、問うた。
「いやいや、家まで仕事を持ち込むのは、今の時代禁じられてるし、やんないよ。なんというか、まあ趣味のゲームのための戦略を煉っていた、てとこかな」
「ふーん」
香澄としてはその行動に違和感を感じたが、流して本題にはいる。
「ところでさ、あんた、『神の水』だけど、本当はどうやって手に入れたの」
北斗は、姉の言葉に、飲みかけたブランデーを吹き出しかけた。
「はっ、何言ってんの? 先週も言ったけど、あれは仕事の関係で、たまたま..」
「あのね、あんな与太話、綾姉はともかく私が信じると思ってたの?」
弟の言を遮り、香澄はつづけた。
「なにかある一族の呪いよ、とっさに思いついたんだろうけど、内容が稚拙すぎて聞いててあきれたわ。先週は綾姉がいたし、何か必死に隠そうとしてたのがわかっていたんで黙ってたけど、私には本当のことをいいなさいよ」
「えーと」
北斗は、自然視線をそらして口ごもる。
今夜の突然の訪問は、どうやらそれが目的らしかった。
「その態度自体が、もうばらしているに等しいんだから、あきらめなさい。何年あんたと付き合ってると思っているのよ」
香澄と北斗は上の綾子と違って、2歳違いの近い歳の姉弟であった。
そのせいか昔から非常に仲が良かった。
どちらかというと感性で生きている綾子とは違って、ふたりはよく言えば冷静に物事をとらえて生活しているタイプだ。
ふたりとも理系傾向の人間でITにも精通しており、ゲームや漫画などの趣味もあったので、余計に身近な存在であった。
二人の中を羨んで、綾子が北斗を相手取って、香澄の争奪戦なども過去におこったこともあった。
弟の北斗は、そのまま組込み系・IT系プログラマーの仕事に進んだが、姉はプログラマーとしてだけではなく、より大きなシステム構築を手がけるエンジニアとして働いており、いつくもプロジェクトをまわすマネージャーの要職についていた。
二重の意味で、北斗の考えを見抜ける人物であった。
北斗は、ふうとひとつ大きなため息をつくと、
「やっぱり香澄姉だな、バレバレだったんだな」
あっさり白状した。
「あたりまえよ」
もうしゃべるしかなさそうだと、北斗はあきらめた。
ただ、話す以上は北斗の状況に香澄もすくなからず巻き込んでしまうことは確実だ。
「わかった、『神の水』について本当のことをいうよ。でもその前に確認、聞いたら最後、香澄姉の人生にも多大な影響が起きることは断言しておく。聞いて聞かなかったことにはできないんだ。その覚悟はあるかな? それでも聞きたい?」
覚悟があるかの確認は、必要であった。
「それは命にでもかかわる事?」
「最悪、そうなる可能性も、ゼロではないと思う」
その言葉に、香澄は少し考え込んだ。
が結論は、すぐに出た。
「わかったわ、ここまできて知らないでいることの方が、この先モヤモヤするだろうし」
「了解。ところで、今夜は泊っていくつもりだよね」
「いまから帰れる電車があると思ってる?」
「そうだよね。えーとね確認したのは、『神の水』のことを話すの、結構時間がかかるとおもうからなんだ。長くなるからまずは風呂に入って寝る準備してから話たいけど、いいかな」
香澄は弟の提案に素直に従った。
寝巻代わりのスウェットを着て風呂から上がると、机の上に甘未に加えて、焼いたばかりのステーキ肉がカットされておいてあった。
ガーリックと胡椒の香りが部屋に広がり、遅い時間とはいえ食欲をそそる一品だった。
「これ焼いたの?」
「まあ、食ってみてよ」
こんな時間に高カロリーなものとはと文句を言いつつ、皿に添えられたホークを使って、香澄はほいと口に運んだ。
ひと噛みして、唖然とした。
「ずいぶんといい肉ね。ブランド牛かな?」
「うまいだろ、ただの肉じゃないからね」
香澄はもうひと切れ追加で口に入れると、
「で?」
北斗を促した。
「ああ話すけど、一つ約束。これから話す話は、すごくばかげて聞こえるだろうけど、途中でチャチャを入れずに最後まで聞くこと。聞いてから質問すること。いいかな」
「わかったわ、わかったからもったいぶらずに話しなさいよ」
覚悟を決めたのか、北斗はよどみなく話し始めた。
「了解。まず、『神の水』だけど、これはこの世界に存在するけど、この世界で作られたものではない。材料もこの世界では手に入らない。呪いなんて言葉を使ったけど、ある意味嘘はいっていない。正確には呪いではなくて錬金術なんだけど」
なにか言いかけた香澄を、北斗は制して続ける。
「異世界の材料とか、錬金とかのキーワードをきいて、異世界転生とかそういうラノベを思い浮かんだと思うけど、『神の水』はまさしくそれを体現した物なんだ。眉唾でもなんでもなく、その効能を十分にもっている物だと香澄姉も先週わかったとおもう。というか『神の水』なんて言葉を使ったけど正確には『エリクサー』、まさしく異世界物語に出てくる最高峰の万能薬、万病に効くだけでなく喪失した部位の復元や寿命延長、老化した部位の再生なんかもできる夢のポーションだよ。じゃあどうやってそんなものを俺が手に入れられたか? 異世界の材料で異世界の錬金なんて技術を使って作られたものは、この世界では体現できない。異世界に行って手に入れるしかないんだ。そしておれはその異世界に行く手段をもっている。そしてすくなからずあちらのものをこちらに持ってこれる手段をもっている。話変わるけど、この肉おいしかっただろ、何の肉かわかる?」
「えっ、肉? えーと、たぶん牛だと思うけど、においや味が近いて思うだけで、別の肉と言われればそうかも。ジビエぽいんで、鹿?イノシシ?馬? うーん、どれも食べたことあるけど、全然風味が違うし。しいて言えばそれらを合わせて最上級にしたような、そんなかんじかしら」
「ドラゴンだよ」
「へっ?」
「おれが『エリクサー』とおなじように、異世界からもちかえった肉だよ。こんな風にね」
北斗が差し出した両手に、それは突如として現れた。
右手には小ペットボトルぐらいのライトグリーンに輝く液体がはいった小瓶、左手には何かの葉に乗った肉の塊が。
「こちらでも使える異世界の技で、ストレージ、亜空間の倉庫から出した。機能もサイズもこちらでは限定はされてるけどね」
あっけにとられる香澄であった。
にわかに信じがたい話であったが、目の前に起きた現象を説明するには、どうしてもその荒唐無稽な話をうけいれるしかなかった。
「つまり、簡単に言うと、あんたはファンタジーを体現した異世界に行ったり来たりできるということね。そしてその結果として、『エリクサー』や『ドラゴンの肉』を持ち帰っていると」
北斗は理解の早い姉に感心した。
「やっぱり香澄姉はのみこみがはやいや。そう、そのとおり。肉に関して言えばドラゴンだけじゃないけどね。なんならレッドボアかオーク、ミノタウルスやシーサーペント、クラーケンの肉もあるよ。食ってみる?」
香澄は弟の軽口を無視して、問うた。
「いつからなの?そもそもどうやって異世界にいくの?」
「こっちの時間でいうと、まだ半年も経ってないかな。今年の2月くらいから。もっともあちらの世界のでの経験した時間はもう8年くらいは経ってるけどね。時間の進み方が違うし、なにより異世界にいっているというよりは、あちらの世界の住人に憑依しているといったほうが近いから」
「憑依?」
「イメージでいうとオープンワールドMMOに近いかも。ラノベであるVRMMOのあれかな。自分で作ったアバターに入り込んで、あちらの世界で暮らしている感じ。あちらへの行き方はね、特に凝ったことをするわけではなく寝るだけ。寝ると強制的に異世界に移動してしまうの、俺の意思に関係なく」
北斗はとくに、自分の意思に関係なく、というところを強調した。
「で、このことを知っているひとはほかにいるの?」
「まさか、こんなやばい話、誰にもできないよ。『エリクサー』の件がばれたりしたら、もう普通の生活はできないだろうし。なくなった部位が復活するとか寿命が延びるとかの魔法の薬だぜ。俺を殺してでも手に入れたい輩はごまんと出てくるだろう。最悪国家とかまでも。かといって必要なひと全員に配るほど、用意ができるわけでも持ってこれるわけでもないし。あ、でも人間でなければ1匹は知っていることになるか」
「1匹?」
「みやびだよ」
と、後ろのベットでなごんでいる猫を顎で記した。
「猫が知っているとか、そんな知能のある生物じゃないでしょ」
「こちらの世界ではそうかもね。実際猫の気持ちや思考までわかるわけではないんで、そう思うしかないけど。といっても最近は、少し言い切れる自信がなくなってきたけど」
香澄が首をかしげる。
「いっていることが、よくわからないわ」
「ちょっと説明が足りないか。あちらの世界には、寝ると強制的に移動させられて、かつアバターに入り込んで行動している、ってとこまではいいよね。そのアバターなんだけど、用意されているのは一つじゃないんだ。複数ある。これもゲームみたいなんだけど、定期的にガチャみたいなシステムで、そのアバターが手に入るんだ」
「ガチャってあんた、まんまモバゲーじゃない」
「笑えるだろ。で、昨日の時点で俺が持っているアバターはだいたい70体ぐらい。種族や能力ステータスも様々で、その気になればNPCみたいに動かすことができるんだけど、NPCはNPCなりで決まった命令しか実行できないんで、自分が使うだけであんまし流用はしていないんだけど、ある時いつも通りおれが寝たときに、あちらの世界の入り口みたいな、まあ簡単に言うとログイン画面があるんだけど、そこでさ、メニュー『同行者』て項目が増えてたんで、あけてみるとみやびがリストにあったんだよ。どうもみやびも俺のベットで寝ていることが多いから、それで選択に入ったのかなとかおもった」
北斗は、ここでいったんのどを潤すため、ロックをぐびりとあおった。
程よい強アルコールと氷の冷気が喉をやいた。
「で、試しに持っているアバターのなかで、猫系の獣人キャラがあったんで、あててみたんだ。そしたら従者みたいな感じで、あちらの世界で最低限だけど意思疎通ができる、キャラになったっていうわけさ。しかもNPCとは違ってステータスはフルに活用するし、自分の判断で行動もできる。もともと猫なんで本能に近い欲求は強いけどね。以来一緒に入れるときはなるべく割りつけるようにして、あちらで一緒に活動して、いまでは古参の相棒みたくなっている。経験でレベルがだいぶ上がっていて、知力もアップしてきているんで、語彙もだいぶふえて、こちらの意思も伝わるようになってきた。そんなみやびを知っているんで、こちらの世界に戻っても、みやびがこちらの言葉を理解してるんじゃないかなんて、錯覚までしてきてるよ。なあみやび」
ベットに座している飼い猫は、にゃーと呼応した。
「なるほど、それで1匹か。それにしてもそのストレージの能力すごいね。あちらの世界のもの、どれくらい持ってこれるの。今持ってきているのは『エリクサー』と『肉類』だけ?」
「持ってきているのは、それに加えて体力回復剤、状態異常回復剤、あとあちらで取れる穀物類や野菜類、魚類かな。香澄姉も先週食べてるんだぜ、お米とかサラダとかで。おかけで食費がほとんどかからなくなって大助かり。ストレージのサイズなんだけど、重量だけで換算されるらしくて、いまは5トンぐらい。最初は10キロだったんだけど、あちらの世界と行き来が増えるたびに、どんどん解放されているって感じ」
「5トン...食費がかからないのは、うらやましいかも」
「だろ。そのうえストレージに入れておいたものは、時間経過がないから、食材とかも腐らなくて消費期間とかもないから、めっちゃ便利でお得なんだ。あと実は魔道コンロなんてものもあちらの世界にはあるから、ガス代もそれで浮かそうかなとも思ったんだけど、さすがにそれはコンロの形とか炎の形態で、ばれそうなんであきらめた」
香澄は、弟の言にひたすら感心した。
「でも、ストレージも欠点がひとつあって、こちらの世界のものは一切入れられない。ストレージに入っていた食材なんかも、いっかいこちらで調理してしまったら、もう戻せない。おそらくだけど、こちらの世界のものをあちらに持っていけないようにする、安全弁だと思うんだけど。それが使えれば、買い物とか荷物を持つ移動が、すんごく楽になるんだけど、こればっかりはそういう仕組みらしいから、しょうがない。ただ現時点でということなんで、今後はどうなるかはわからないんだけど」
ふーんと、香澄は相槌をうつと、あらためて聞いた。
「でも、なんであんたにだけ、そんな現象が起きてるんだろ?何か心当たりはないの?」
「それに関しては、おれにも謎。しいていえば、おれがゲーマーで、かつ自分がそれらのクラフト系のゲームに入ったら、こんな風に応用するんだけど、みたいな妄想は常々していたくらいかな。でもそれでこんな現象が起きるんなら、もっと日常的にそれらを考え続けているゲームシナリオライターやラノベ作者、漫画家や編集者のほうが、こんな現象に遭遇しやすいと思うんだけど」
「確かにそうよね...あれ、ちょっとまって。あんた、さっきこの現象は半年前からっていったよね」
「そうだよ、忙しい時期だったから覚えているよ。それがなにか....あっ、引っ越しか!」
北斗は、今年の1月に、同じ賃貸マンション内で引っ越しをしていた。
給与が上がってきたのと、荷物が増えて手狭になってきたので、部屋を1Kからもう少しグレードアップしようとしてたところ、住んでいた賃貸マンションのより大きな2DK部屋がたまたま空いたので、転居したのだった。
同じマンション内での移動ではあるが、年度末で仕事の納期が差し迫っている時期だったので、大変だったのを覚えている。
香澄が指摘した通り、異次元現象はそのころにはじまっていた。
「でも部屋の問題かな~」
確かに時期はあう。
ただその場合もうひとつ疑問がおきる。
以前住んでいた人間も、おんなじ経験をしているのだろうか?
確か以前は、子供一人の三人家族がすんでおり、北斗も付き合いはないにしても挨拶くらいはする仲であった。
加えて転居の理由も、戸建てを買ったためときいたことがある。
いまのところ、楽しみと得しかないこの現象を、北斗なら捨ててしまうような選択をしないと思った。
「引っ越しで思い出したけど、もうひとつ可能性はあるかも」
「なによ」
「あたらしく買った家財だよ」
北斗は、引っ越しに際して、冷蔵庫、テレビ、食器棚を買いなおしていた。そして以前の部屋では置けなかったソファー、ベッド、リビング机を買い足していた。
そのうち、前者は新品を買ったが、後者みっつはリサイクルショップで買っていた。
「家じゃないとしたら、あのベットかも」
じつはベットだけ曰くがあった。
当初、ふとんを床に敷いてねていた北斗は、あたらしく移った部屋でも同じようにするつもりだったが、訪れたリサイクルショップで妙に惹かれるセミダブルベットがあった。
すべて木でつくられたそれは年代物らしく、使い古された感たっぷりであった。
その割には値段もそこそこした。
北斗は、いまでもなぜそのベットに惹かれて買ってしまったか、自分の中で説明がついていなかった。
ただその日買うことだけは、決定事項としてシナリオされていたような、不思議な体験であった。
北斗は、そのことを香澄に説明した。
「なるほど、ない話じゃないかもね。買う時に前の持ち主とか、いつごろのものとか聞いたの?」
「聞かないよ、相手もバイトだったし。なにより中古品の前の持ち主なんて、ふつう言わないだろ、マイナス要素にしかならないし。ただずいぶん前から売れ残っていることは確かみたいだった。見た目のわりに値段が周りの中古品の倍はしてたからね」
「ふーん」
香澄はそのベットに移動して、「みやび」が陣取るサイドに座ると、ひととおりこじんまりしたベットを眺めた。
「たしか、アバターはまだ70体ぐらいあるのよね」
香澄が唐突に聞いた。
虚を疲れた北斗は、しだいにその意味が理解できて、あわてた。
「いや、なにいってんの? だめだよ姉貴は」
「なんで? 飼い猫はよくて、なんで私はだめなの?」
「あちらの世界は、死ぬ可能性だって十分にあるんだよ。そしてあちらで死んだらどうなるかわかっていないし、試すこともできない。だいいちみやびではたまたまうまくいってるけど、本当の人間が追加で入れるかどうかもわからないし、入れたとしてもなにかペナルティがあるかもしれない」
「あんたは平気じゃない?」
「平気もなにも、おれは強制的にいってるんであって自分からわざわざ行っているわけじゃない。みやびだってたまたまかもしれない。はっきりと意思をもって移動した人間はいないんだよ。リスキィすぎるよ」
香澄は弟に歩み寄り、ねめつけた。
「あんた、あっちの世界楽しいんでしょ。確かあちらの世界では8年経過してるんだっけ?でも全然いやと思っていないでしょ。さっき来た時にゲームもしないでノートにまとめていた内容だって、あちらの世界での今後の攻略、やりたいリストとか書いてたんでしょ、どうせ。そんな楽しいことを、自分だけで独り占めして、もっともあんたの面倒をみてきた、最愛の姉にお預けするつもり? あんた同様ラノベとかゲーム好きの私に、指をくわえて見ていろというつもり?」
香澄の声に、冗談や揶揄の色は全くない。本気だった。
「いやでも、大人二人と猫1匹が眠るには、少しせまいしベットだし」
「詰めて眠れば、平気よ」
「みやびは、たまたまで、一緒に寝ても姉貴も行けるとも限んないし」
「なら、なおさら試してみないと。できるできないが、ただ寝るだけでわかるんだから、簡単じゃない。どうせもう寝るしかやることないんだし。それともなに、私と寝るのがいやなの?」
そこは、一応気にしてほしいと、北斗は思うのだった。
姉弟であっても、成人した男女である。
口が裂けてもいわないが、姉とひっついて寝るのには、だいぶん抵抗がある北斗であった。
「できれば香澄姉にも体験させてあげたいけど、さっきも言ったように、未知数なところがあるから怖いんだよ。たとえば、仮にあちらの世界に香澄姉が移動できたとして、帰ってこれる保証がまったくない、あちらに取り残されてしまうかもしれない。みやびが移動できているのは、俺の勘違いも知んないし、ほら本人はこちらでしゃべれるわけではないし」
「でもあんたは、帰ってきてるでしょ」
「だから帰ってこれてるとかじゃないんだよ。眠ると強制移動だし。姉貴だけ帰ってこれなかったら、やだよ。こちらで死んだことになるかもしれないし、よくても植物人間?昏睡状態?とかになるかもしれない」
さすがにこのセリフには、香澄も黙り込んだ。
「そん時は、そうか、今のプロジェクトで、お客様に迷惑かけちゃうか....」
北斗からしたら、心配するのそこ、とつっこみたかったが、挑戦すること前提で話す香澄に、もう反論の余地のないことは理解した。
最終的に、北斗は二人の姉に逆らうことはできないのだった。
「わかった、でも、行けなくても帰ってこれなくても、うらむなよ」
「わかってるわよ、でもなんとなくだけど、何事もなくうまくいく気はしてるわ。こういう感は、なんでか昔からあたること多いし。いけると思って失敗したことないの私」
北斗はあきらめて、寝るための準備を姉に促し、自分は卓上の残った異世界飲食物をストレージにしまい込んだ。
調理は異世界で行ったもので、皿や調味もふくめて異世界のものだから、ストレージにしまうことは可能であった。
「帰ってこれないパターンを想定するんなら、なるべく長寿で強力なアバター選んでよ。ある?そういうの?」
狭い寝床で二人と1匹並んでから、香澄は弟にいった。
「ああっ、たしか初期値で魔力が尋常じゃない、賢者クラスのハイエルフがあった気がする。寿命もたしか3000年くらいあって、現在は150歳くらいだったと思うよ」
「ハイエルフか~、いいね。美人?」
「たぶんね」
「楽しみ」
「いいから寝るよ」
部屋を暗くすると、しばらくしてエアコンの音と香澄の寝息だけが、しんとした部屋を支配した。
北斗は、今から起こることへの不安と、どこかしら接触する姉にどぎまぎして、なかなか寝付けないでいたが、やがて眠りに落ちた。
★★★
先に寝た香澄は、すでに夢の中にいた。
何やらとりとめもない、それにありがちな矛盾だらけの夢の中にいることを自覚していたが、急に目覚めるように現実に引き戻された。
結局異世界移行はうまくいかず、目が覚めたと思ったのだが、寝ていたはずの自分が立っていること、目線がいつもより若干高いこと、はだが外気を感じて、何事かが自分の身に起きたことを理解した。
寝巻代わりに着ていたはずのそれは、薄衣でできたワンピースに変わっていたし、手にはファンタジーでありがちな、赤い宝石がはめ込まれた、装飾の施された杖を握っていた。
視界はクリアであったが、状況を頭が受け入れられず、混乱した。
香澄は、大木の生い茂る森林の中に、ひとり佇んでいた。