愚か者たちの恋 ③(バーバラ、シェリル)
「では、わたくしはこれにて」
いつものようにバーバラ様が王太子殿下にご挨拶をし、いつものように王太子殿下がそれに応えてバーバラ様の手の甲に口づけを落として美しさを褒めると、二人は優雅に微笑み合って席に着き、お互いにお茶をひと口召し上がります。
そうして人払いがされて、少し開けた扉の向こうで従者は皆廊下で部屋に背を向けて控えます。
それを確認すると、いつものようにバーバラ様は微かに呟いて執務室へと戻られ、部屋の中にはいつものように王太子殿下と私だけが残されます。
王太子殿下とバーバラ様の婚約が発表され、バーバラ様と私が王宮に居を移して間もなく2年、
来月には王太子殿下とバーバラ様と共に私も学園を卒業し、3か月後の王太子殿下の18歳のお誕生日の後すぐにお二人の盛大な結婚式が執り行われる予定です。
王太子殿下のバーバラ様に対する眩しい程の寵愛は学園はおろか、社交界でも噂され、王宮の皆に傅かれて磨かれたバーバラ様は以前にもまして輝いていて、いつものように私は気品と優雅さに満ちたバーバラ様の後姿をうっとりと見送ります。
「気高く優雅で、学業と並行して既に数々の功績も挙げている。未来の王太子妃として非の打ちどころがないな。皆に慕われ大切にされている。
・・・シェリルも満足か?」
呆けた私の顔を覗き込むようにして、王太子殿下に問いかけられました。
「まだまだ足りませんわ。私のバーバラ様は、王太子妃になられた暁には、さらに多くの賞賛を浴びて光り輝かなければなりません」
何を贈っても、どんなに言葉を尽くして褒めても、どんなに微笑みかけても、ただ困った顔で俯いてしまう私が唯一嬉しそうな顔をするのが、バーバラ様への賞賛と下にも置かぬ扱いだと分かってから、王太子殿下のバーバラ様への態度が一転しました。
学園に入学して初めてのお二人のお茶会で、王太子殿下のバーバラ様へのあり得ない対応を目にしたことで、私はバーバラ様のお側を辞して領地に戻る事を決めたのです。
しかしそれは叶わず私は側妃になることが決められ、その頃の私は王太子殿下に対する感情とバーバラ様への思慕、更に自身の立場と主家に対しての忠誠心が綯い交ぜになり、息をすることさえできぬほどに追い詰められました。
それを救って下さったのはバーバラ様でした。
「シェリーを見初めるなんて、王太子殿下はお目が高いわ」
幼い頃から私を慰める時に必ずしていたように、私の頬を両手で挟んで優しく微笑みそう告げられました。
「シェリーに謝らなければならないことがあるの。
アメリア様の結婚式の時、わたくしは王太子殿下の婚約者になりたくなくて、わざとピンズを外して会場に出たの。私の軽率な行動でシェリーを困らせてごめんなさい。そして、あの時シェリーを助けてくれた方が王太子殿下だってことも知っていたの」
あぁ、やはり。
お二人の初めてのお茶会で、私を映す水色の瞳があの方と同じだとずっと気付かないふりをしていたのです。髪の色が違う、家臣のマントを羽織っていたと違う所ばかりを探して、だから違うと自分に言い聞かせていたのです。
そして、なによりあの時の親切な方が私の大切なバーバラ様へ非道な仕打ちをするはずがないと。
「ねぇシェリー、わたくしがあなたの恋が実る事が私の唯一の希望だと言ったことは覚えている?
あの時は、王太子殿下がここまでわたくしに非常識な対応をするとは思っていなかったけれどね」
そう自嘲気味に笑った後に告げられたことは私には受け止めきれない衝撃でした。
「もしもシェリーを側妃とせずに、わたくし一人で婚約者として王宮に入ったとしたら、わたくしは王太子妃になることなく短い生涯を終えることになっていたわ。
そして、傷心の王太子殿下の想い人たるシェリーを、ガレリア侯爵家の養女として王太子妃に迎えることになっていたの」
バーバラ様は、何も言えず目を瞠るばかりの私の手を力強く握って真剣な目で続けました。
「王家にとってはガレリア侯爵家の後ろ盾と財力さえ取り込めば、王太子妃はわたくしである必要はないわ。シェリーの存在は王太子殿下を通じてわたくし亡き後の代わりとして申し分のない令嬢だと知られているの。王太子殿下の想い人であるなら猶の事、王家にとってはどちらでも良い。
けれど、ガレリア家にとってそれは許せないことよ。
これでもわたくしは家族には掛け替えのない大切な娘だと思って頂いているし、シェリーはガレリア家門きっての忠臣の娘よ。私が儚くなってしまったらシェリーはきっと修道院に自ら入ってしまうでしょう。だからガレリア侯爵家一門は、わたくしが王家の子を産むことを条件にシェリーを側妃と決める事で全力を以てどちらも守ると決めたの」
震えが止まらない私を抱きしめ、私の肩に顔を埋めて呟いたバーバラ様の声は涙で震えていました。
「ごめんなさいシェリー。あなたの恋を実らせてと言いながら、わたくしはあなたの愛する方と子を生さねばならないわ」
いいえ
恋を知り実らせることが出来る私に引き換え、愛する方を心に秘めその人の側に居ながら手を取ることも想いを伝えあう事も叶わなず、その目の前で他の方の子を生さなければならない。そんなバーバラ様を責めることなど、私には出来ませんでした。
王太子殿下の婚約者になったバーバラ様は半年を経ずに王太子妃教育を終えてしまい、周囲を驚かせました。程なくして王太子妃としての執務を任されることになったのですが、学園での活動に加え、将来の王太子妃としての社交と公務と執務に精力的に取り組み始めました。
国内の政務ではガレリア侯爵家選りすぐりの文官たちをまとめ上げて功績を挙げ、外交では王太子殿下の最側近で従弟でもあるホーエン公爵家次男のトビアス様の補佐の元、数ヶ国語を駆使して見事に渡り合っていらっしゃいます。
バーバラ様はたった1年で、未来の王太子妃として押しも押されもせぬ地位を確立してしまいました。
周囲からは体を心配する声が出るほどの激務にも関わらず、バーバラ様の瞳は生き生きと輝いていました。
社交界では王太子殿下のバーバラ様への態度から、王太子殿下の深い寵愛がなせる業だと囁かれ、バーバラ様の王宮での地位はいや増しに高まっていきました。
一時期、寵愛の深い王太子妃を得るのであれば側妃は不要ではとの声が上がりかけた事があったのですが、王宮での夜会で、王太子殿下とバーバラ様が揃って、私をお二人にとって掛け替えのない癒しの存在として全貴族たちに紹介したのです。
色恋に溺れず義務を果たせる王太子殿下と有能で側妃に寛大な王太子妃殿下、立場を弁えた理想的な側妃として、貴族たちには次代の王家は安泰だと強く印象付ける事も叶いました。
ちょうどその頃、私はバーバラ様にお願いをされました。
「シェリー、殿下におねだりをしてくれないかしら。
王太子殿下の執務をいくつか引き受ければ、殿下の執務室で仕事が出来るようになるの。
たった一言で良いのよ」
バーバラ様のご提案で、王太子殿下とバーバラ様は毎日お茶をご一緒することを決めていました。
公には一緒に過ごす事が出来ない、王太子殿下と私との時間を作る為です。
お茶の準備が整い、少し開けた扉の向こうで従者が部屋に背を向けて控えると、バーバラ様は本を持って窓辺の椅子に移動し、私と殿下の時間を提供してくださるのです。
殿下との時間は嬉しいのですが、バーバラ様のお気持ちを考えると私は居た堪れず、だんだん笑顔を作れなくなっていきました。
「わたくしが生き生きと仕事ができる理由をシェリーはわかっているでしょう?
シェリーには気兼ねなく逢瀬を楽しんでほしいのよ。
ほら、そんな困った顔をしないで!わたくしはシェリーの笑顔が見たいのよ。
もちろん殿下もそうだと思うわ」
そう言って両手で私の頬をぎゅうぎゅう挟みながらコロコロと笑っています。
でもその一言が私にはとても難しかったのです。
その一言のために、私は高熱を出してしまいました。
お見舞いに訪れた王太子殿下は私の手を取り心配そうに顔を覗き込んでいます。側に坐っていたバーバラ様ににっこりと微笑まれ、熱に浮かされた勢いに任せて潤んだ瞳で王太子殿下を見つめ、その一言を口にしました。
「こうして殿下と過ごす時間がもっとあればいいのに」
王太子殿下の瞳に一瞬で熱が籠り、その熱を孕んだ眼差しのまま額に頬を寄せられました。
「私もそうしたい」
ポツリと呟いた王太子殿下の言葉に、バーバラ様はふと口元を緩めて仰いました。
「殿下、わたくしは近隣4か国語の翻訳がとても得意ですのよ」
王太子殿下が怪訝な顔をバーバラ様に向けられました。
「加えてわたくしの文官たちはとても優秀ですの。
ホーエン卿に手ほどきを受ければ、わたくしも殿下の執務のお手伝いが出来ると思いますわ。
そうすれば、毎日のお茶の時間はお二人でごゆっくり過ごせますでしょう?」
バーバラ様は完璧な淑女の微笑みで王太子殿下のお返事を促しました。
「だが、今の君はただでさえ周囲が心配するほどの激務ではないのか。気遣いはありがたいのだが・・・」
私をちらりと見やって言葉尻を濁した王太子殿下へ畳みかけたその内容に周囲は度肝を抜かれました。
「実は、先日の王都の下水道整備の計画書と疫病対策の論文を認めて頂いて、学園の卒業資格を得ましたの。
これからは登校する必要がなくなりましたので時間は十分ありますわ。ただ、急に抜けてしまうことになって申し訳ないのですけれど、生徒会のお仕事は殿下とシェリーお二人にお願いすることになりますがよろしくて?」
あの激務のなか、計画書や更に論文まで仕上げ、卒業資格まで得ていると。
「あぁそれから、執務のお手伝いのために殿下の執務室を使わせて頂く許可が必要ですの」
しかし、王太子殿下の関心は私との時間が取れる事だけだったらしく、ぱっと顔を明るくして仰いました。
「そうか、それでは執務の事はお願い出来れば助かるし、執務室は私たち兼用としてくれて構わない。トビアスにもそう伝えておくよ。生徒会の方は任せてくれ」
王太子殿下は私に向き直り、顔を寄せて私にだけ聞こえるように仰いました。
「これで学園の間もシェリルと二人だけで過ごせる。あぁ、やっとだ」
私たち二人の様子をほほえましく眩しい様な顔で眺めるバーバラ様の、更に輝きを増した瞳に映るのは王太子殿下ではない事に、ご本人は最期まで気付く事がありませんでした。
それから1年、王太子殿下と私は学園生活を謳歌し、その間にバーバラ様は更に精力的に活動し着実に実績を積み上げ、国内はもとより近隣諸国に対してもルクセル王国の王太子妃としての地位と名声を不動のものとして行きました。
バーバラ様の私たちに対する気遣いに対しての感謝だと、王太子殿下のバーバラ様への態度は更に丁寧になり、それが奇しくも王太子殿下への高評価へと繋がって行きました。
王太子殿下のバーバラ様への感謝に後ろめたさや気まずさが少しも含まれていないことに、
愚かな私は気付かないふりを通してしまいました。
卒業式を終えたある日、王太子殿下と遠乗りに出かけたホーエン卿が怪我をしました。
突然飛び出した動物に驚いた王太子殿下の馬を宥めて落馬を防いだのだそうです。
結婚式前の大切な時期に王太子殿下を身を挺して救った英雄として称えられ、褒章金を賜ることになったそうです。周囲は叙爵が無いことに首をかしげましたが、事故の際にホーエン卿は落馬して蹴られ、子を生す機能を失ったため辞退されたと聞かされました。
代わりに、王太子夫妻の筆頭補佐官として、王弟のホーエン公爵のかつての住まいだった王宮内の居住区を与えられる事になりました。それは実質的な準王族と見做されたことを意味します。
誰もが認める実力者でありながらも爵位を継げない公爵家次男であり補佐官の一人だった今までとは比較にならない地位と権限を得たホーエン卿に、人々は尊敬を込めてトビアス閣下と呼称を改めるようになりました。
素晴らしい王太子と共に国を背負って立つにふさわしい王太子妃と優秀な補佐官を迎えた次代の王室の栄光を、誰もが信じて疑いませんでした。
国を挙げて待ち望んだお二人の結婚式を間近に控え祝福の声に包まれる中、バーバラ様の日を追うごとに濃くなっていく瞳の奥の影を取り除く事は誰にも出来ませんでした。
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いつものように王太子殿下とシェリーを残して執務室に戻ると、いつものようにトビアス様がお茶の準備をして待っていた。
「明日はご自身の結婚式ですよ。今日くらい執務は休まれては?」
明日から私は夫を持つ身になる。
きっと今までと何も変わらない態度で接してくれるだろう。
それが何よりも辛い。
「ありがとう、でもわたくしはここで仕事をしていないと落ち着かないの」
温度も濃さも完璧にわたくしの好みに合わせたお茶をゆっくりと味わって続けた。
「閣下にお願いがあるの。
…明後日からの休暇を少しずらしてもらえないかしら」
トビアス様は一瞬息を止めたが、すぐに向き直って私の言葉を待った。
「明後日から私は変わらずにここで仕事をするわ。
でも安心して、他の文官たちの休暇は変えないから。
わたくしは蜜月の休暇は取らない。それはこれから殿下に了承を取るつもりよ。
その代わり14日後に2日間お休みを貰うから、閣下の休暇はその前後に合わせて欲しいの。
…我が儘を言ってごめんなさい」
両手で持ったカップに目を落としながら言った言葉に、トビアス様はいつもの声で答えてくれた。
「分かりました。仕事中毒の妃殿下のお目付け役として残りましょう」
「ありがとう」
それからいつものように仕事に戻り、殿下とシェリーのお茶の時間が終わるのを待って、王太子殿下の自室を訪れた。
「殿下、折り入ってご相談がございます」
いつにないわたくしの固い表情に少し緊張した様子で対応した殿下は人払いをして聞いてくれた。
「明日の結婚式のあとの初夜と蜜月の休暇についてです」
普通、淑女からこのような事は口にしない。周囲の誘導によって粛々と進められ、寝室に入ってからは夫となった方に任せるのが常識だ。流石にぎょっとした表情になった殿下が言葉を発する前に畳みかける事にした。
「シェリーを側妃として迎えるためには、殿下はわたくしと子を生さなければなりません。ですが、シェリーを心から愛している殿下は私に触れる事は苦痛でしょう?
実は昨日医師の診察を受けたのです。今日から数えて14日後が最も子を授かりやすい日だそうです。
その日に向けて体調を万全に整え、出来る限りその日のみの接触で子を授かれるようにと考えているのです。
それから、蜜月の休暇は離宮でシェリルと過ごせるように手配済です」
一気にまくしたてるように伝えると、思いもよらないといった風に問われた。
「私は君にもきちんと情けをかけて遇するつもりだったのだが…」
それもシェリーを娶るまでの事、捌け口にされた挙句に捨て置かれるなどご免だと顔に出ないよう必死で続けた。
「そのお情けは全てシェリーにお与えください。シェリーの幸せに輝く笑顔がわたくしの癒しなのです。
わたくしへの殿下のお渡りがシェリーの顔を曇らせる事になるなど、考えただけで心が砕けそうです」
わたくしは心からの微笑みを向けて伝えた。
「どうかシェリーとお幸せになって」
必死の祈りが通じたのか、わたくしはその一夜で懐妊し、結婚1周年の祝賀に合わせて第一王子のジョージをお披露目することが出来た。
これでわたくしの役目は終わった。そう肩の荷を下ろした所で王妃陛下がとんでもないことを言い出した。
「王子一人では心許ないわ。まだ結婚1年だもの、側妃を迎える前にもう一人子が欲しいわね」
シェリーとの結婚式を来月に控え、嬉々として準備を進めていた殿下は王妃陛下の言葉を聞いて凍り付いた。
「シェリルとの結婚式を伸ばすと仰るのでしょうか」
顔を見れば蒼白に近くなっている。
「そうね、結婚式といってもごく内輪のお式でしょう?招待客はお互いの家族位だし、半年くらい伸びても支障はないわ」
「分かりました、その代わり懐妊が分かり次第シェリルとの結婚式を執り行います。
御前失礼いたします」
そういうと殿下はわたくしの手を取って部屋を辞し、廊下に出るといきなり手首を掴まれ引きずるように殿下の自室へ連れていかれた。
「いつだ!次に子が出来る日はいつだ!」
ソファーに投げるように放り出され、そう問う表情は初めてのお茶会で態度を窘めた時と同じ、あの懐かしい憎しみの籠った表情だ。せっかく築きあげた関係は一瞬で崩れ去り、シェリーとの仲を引き裂く邪魔な存在に逆戻りした瞬間だった。
「産後間もないですから、まだ月のものが戻っていないのです。お医者さまでも予測は難しいでしょう」
「なら今から試してやる!これで子が出来れば来月の結婚式には間に合う!」
そう叫んで、逃げようとした私を床に引き倒して掴みかかった殿下を後ろから羽交い絞めにするように止めたのはシェリーだった。
この事態を聞き、急いで駆けつけてくれたのだ。
シェリーが来てくれなければ私はここで無体を働かれ、きっと壊れてしまっていただろう。
シェリーは声を限りに泣き叫びながら殿下を止めてくれた。
小さな頃に喉を患い失いかけ、以来ガレリア侯爵家一門が大切に守ってきたシェリーの声はこの日にほとんど失われてしまった。
誤字報告ありがとうございます。
修正いたしました。