追憶 2
お読みいただきありがとうございます。
後一話続きます。
人物紹介は最終話後に予定しています。
誤字報告ありがとうございます!
次代の明るい未来を見届けて肩の荷を下ろしたように、アレクシス前国王との別れは突然だった。
朝食の席で、頭が痛いから少し休むと言って自室に入り、お見舞いに行くともう大丈夫との事だったので昼食は私とフリーデリケ王妃と共に部屋で取ったのだ。
食後のお茶を頂いている時に倒れ、寝台に横になった時にはもう言葉が出なくなっており、
最期の瞬間までフリーデリケ王妃の手を握り、私の頭をずっと撫でていてくれた。
突然の訃報に、国も王家も戸惑いながらも太陽の様だったアレクシス前国王の冥福を心から祈った。
あまりに突然の事でしばらくは何も手に付かなかった。
誰よりも優しく力強かったアレクお祖父さま。
アレクお祖父さまが大丈夫と言えば、私はどんな事だって怖くはなかったわ。
皆に甘やかしすぎだと叱られると、いつも私にだけ見えるようにウィンクしてくれたの。
その仕草がとても素敵で、私は一生懸命真似したのだけどやっぱりあんなに素敵には出来なかった。
国王を引退したから、これからは一緒に遠乗りに行ったりピクニックに行こうとお約束していたのに。
もっとたくさんお話ししたい事があったのよ。
最期の瞬間まで、私とフリーデリケお祖母様に声にならなくてもずっと愛している、ありがとうと言って下さっていたわ。
私たちが何度も言った愛している、ありがとうの言葉はお耳に届いていたかしら。
毎日部屋を訪れては、あれは夢で、扉を開ければいつもの笑顔で両手を広げて迎え入れてくれるのではと、また会えるのではないかと期待をしては絶望する事を繰り返す私を、お母様とトビアス閣下とフリーデリケお祖母様は根気強く支えて下さった。
皆の支えで、少しずつ現実を受け入れられるようになり、徐々に落ち着いて生活できるようになっていったのだった。
そうしてアレクシス前国王の喪が明けるころ、私はフリーデリケ王太后の私室に呼ばれて、生まれ故郷のダリス公爵領へ移り住むと聞かされた。
ダリス公爵家へ婿入りしたドミニク卿から、レイチェル女公爵が宰相として多忙を極めているため、隣国のエヴェール王家へ嫁ぐことが決まった孫娘のダリス公爵令嬢の教育をお願いしたいと連絡があったそうだ。
「どうしてですか、教育ならホーエン王国に留学してもらえば良いではありませんか。王都が無理ならブレナン領でもできるわ。アラン伯父様にお願いすれば、オルレシアン国に近いガレリア領だって頷いてくれるわ。なのにどうして? どうして二人とも私を置いて行ってしまわれるの?」
突然の事で冷静になれず、そう言って子供のように縋り付いて泣き崩れる私の背中を摩りながら、フリーデリケお祖母様は子供の頃によく聞かせてくれた隣国の歌を歌ってくれた。しばらくそうして私が落ち着くと、手を取って優しく話し始めた。
「別れは辛いわね。でももう会う事が出来ないわけじゃないわ。
お手紙だって出せるし、会おうと思えば船に乗ってたった三日の距離よ?
それにね、離れている事に慣れれば、亡くなったと聞かされてもなおこの空の続く先でまだ元気に暮らしているように思えて、辛さは懐かしさに替わるの。
ビアンカには笑っているわたくしのこの笑顔だけを覚えていてほしいの」
そう言って涙をぬぐってくれた。
厳しくて優しい大切な私のフリーデリケお祖母様。
泣くたびに、眠れないときにも、いつも優しく隣国の歌を歌ってくれた。
隣国風の素敵な発音で[ビアンカ]と呼ばれることが嬉しくて、何度もおねだりをしたわ。
生まれた時からほとんど片時も離れずに側に居てくれた掛け替えのないこの方の前では、どんなに窘められても幼子に戻ったように泣いたり笑ったりしてしまう。
ずっとそばにいてくれると思っていた。
この方が私の側からいなくなる日が来るなど、わかってはいても考えようとはしなかった。
しかし、ホーエン王国が建国して私が女大公になってからは、王都とブレナン領を行き来しているため数か月会わない事だって多くなっている。
にも拘わらず、王宮に来れば必ず会えると思っていたアレクお祖父様の喪失感は甚大だった。
フリーデリケお祖母様の言う通り、今のままずっとそこに居て、ここに来れば必ず会えるという心の距離感のままでフリーデリケお祖母様が亡くなってしまうと、きっと私はアレクお祖父様の時以上に立ち直るのに時間が掛かる。
もしかすると、もう立ち直れないかもしれない。
「・・・お手紙をたくさん書いて下さる?」
拗ねるような涙声で聞いてしまう。
「もちろんよ。でも、チャールズみたいに毎日のように手紙を出すのは難しいと思うわ」
眉尻を下げて困ったように言う言葉に、思わず笑ってしまった。
「あの子は特別だわ。私だって毎日お返事は書けないと思うの」
そう言って笑い合って、少し他愛ないおしゃべりをして部屋を後にした。
フリーデリケお祖母様の出立は明後日だ。
それまでに泣き腫らした目を何とかしなくては。
フリーデリケお祖母様の出立の朝。
最高の笑顔でお見送りをした私をふわりと抱きしめ、あの素敵な隣国風の発音で名前を呼んでくれた。
「私の可愛い子、私のビアンカ、また会いに来るわ」
私はフリーデリケお祖母様を乗せた馬車が見えなくなってもその先を見つめ続けた。
この道と空が続くその先で、フリーデリケお祖母様はあの素敵な笑顔でずっとずっと元気で暮らしていくのだ。
弾けるような笑顔のアレクおじい様と、優しさを湛えた笑顔を向けるフリーデリケお祖母様が寄り添って私を見つめている。
二人との別れを思い出すと、何十年経とうとも懐かしさと共に少し胸が苦しくなってしまう。
今日は雨。
お散歩はお預けね。
暖炉の側のロッキングチェアに坐らせてもらい、心地よく木の弾ける音を聞きながら窓の外の雨景色を眺める。
あの日もこんな雨の日だった。
◆◆◆
エルサ嬢のデビュタントボールを数日後に控えた夜、カッセル侯爵は元国王リチャードにオフィーリア公女を守る術として王太子妃の証であるエメラルドの首飾りを身に着けさせるのはどうかと、ひっそりと呟いた。
仕来りでは、王太子の結婚式で儀式として王太子から王太子妃に贈られるものだ。
流石に息子に請われるまま無理を通してオフィーリアに王妃教育を施した自責に駆られていた元国王リチャードは、これでオフィーリアを助けられるとその呟きに乗った。
その後すぐに、国王自ら宝物庫に入り首飾りを持ち出したことを確認したカッセル侯爵は、王太子ジョージの部屋を訪れ、優し気に目を細めて耳元で囁いた。
「王太子妃の証であるエメラルドの首飾りをご存知でしょう?
先ほど、国王陛下自らデビュタントボールの舞踏会に間に合うようにお手元にご用意なさったようですよ。殿下自らがお着けして差し上げればさぞお心強い事でしょう。楽しみでございますね」
国王とその息子たちは自身の意のままに操れると妄信していたカッセル侯爵にとって、誰が王太子であろうと構わなかったのだが、思惑通りに動かず悉く計画の邪魔をしてくるホーエン公爵家と親密なビアンカ王女を親友と明言しているオフィーリア嬢にここで退場してもらえば、ホーエン公爵の影響力を削げる上、ジョージ殿下とエルサ嬢が王太子夫妻になる方がはるかに御しやすいと考えたのだ。欲を言えば、ジョージ殿下にも退場してもらい、姉のビアンカ王女に対して敵対心を隠さない第三王子のチャールズ殿下に自身の孫娘を娶わせればなお良し、とほくそ笑んで高みの見物を決め込んでいたのだ。
国王リチャードが首飾りを持ち出して一夜明けた朝食の後。
「渡す相手は分かっているな」
その言葉と共に父王から渡された首飾りを嬉々として受け取った王太子ジョージは、悲壮なまでの父王の表情に気付く事はなかった。
国王リチャードの行動を知った私は、オフィーリア姉さまの部屋で、ブレナン公爵とレナート兄様、母の王妃、そしてトビアス閣下とホーエン公爵夫妻と共に固唾を呑んで王太子ジョージの訪れを待っていた。
しかし、扉のノックと共に現れたのは、オフィーリア姉さまへの手紙を携えた従者だった。
[親愛なるブレナン公爵令嬢
三日後の舞踏会は、エルサ嬢の記念すべきデビュタントであるため、エルサ嬢をエスコートする事に決まった。
今後のエスコートについても、私の相手はエルサ嬢となる事を伝え置く。
ブレナン公爵令嬢は、どうかブレナン小公爵と共に末永く幸せになってほしい。
ジョージ・フォン・ルクセル]
主語を明確にしない言葉は、聞く者によって全く意味が異なる。
『多くの人は物事を見たいように見て信じたいように信じるのよ』
子どもの頃からよく耳にした、フリーデリケお祖母様の言葉が絶望と共に腑に落ちた瞬間だった。
何という傲慢で誠実さの欠片もなく自分本位な男だろう。
王太子妃の首飾りをエルサ嬢が着けて舞踏会に現れれば、オフィーリア姉さまは毒杯を賜る事を誰よりも知っているはずだ。
それを、末永く幸せになどと。
怒りで目の前が真っ赤に染まった。
すぐに動こうとするホーエン公爵夫妻と王妃とトビアス閣下を押しとどめたのはオフィーリア姉さまだった。
「わたくしは、ジョージ殿下有責にて婚約破棄を宣言致します。
ホーエン公爵閣下、お使い立てすることをお許しくださいませ。
国王陛下へ、国を担う立場でありながら私情を優先して人の命を踏みにじる方へ嫁ぐなど、わたくしの方から死を以てお断りいたしますとお伝え願います」
凛と立ち、ホーエン公爵をまっすぐに見つめて宣言する姿は神々しくさえあった。
「私、ホーエン公爵は、ブレナン公爵令嬢オフィーリア殿の宣言、しかと承った」
ホーエン公爵は、胸に手を当ててオフィーリア姉さまに応じた。
その言葉を聞いたレナート兄さまがオフィーリア姉さまの前に跪いた。
「オフィーリア・フォン・ブレナン公爵令嬢。
どうか私の妻となり、その生涯を共にして下さい」
オフィーリア姉さまは涙を堪え、震える声でレナート兄さまを制した。
「いけません、ブレナン小公爵様。
わたくしは毒杯を賜る身、わたくしを娶った方も同じ運命を課せられます。
貴方はブレナン公爵家を率いる身、道連れにするわけにはまいりません」
立ち上がらせようとするオフィーリア姉さまの手を取り、レナート兄さまはなおも姿勢を崩さず言葉を続けた。
「私の隣はあなたしかいない。あなたの居ない人生は私にとっては死んだも同然。
貴方を失い抜け殻になった私に、ブレナン公爵家を率いていくことは難しいのです。
それに、あの丘で並んで眠るという幼い頃の約束をお忘れですか?
どうか私にイエスの返事を頂けないでしょうか」
戸惑うオフィーリア姉さまに、レナート兄さまはなおも続けた。
「それに、ブレナン領の事なら心配はいりません。私たちの思いを最も良く理解して、意思を違わず導いてくれる方が既にいらっしゃるではありませんか」
レナート兄さまの言葉に、皆の視線が私に集まった。
ブレナン公爵と目が合うと、大きく頷いてくれた。
私は万感の思いを込めて、二人を見つめ頷いた。
「あなたの妻として旅立たせて下さい」
オフィーリア姉さまのその言葉にレナート兄さまは周りの目も気にせずオフィーリア姉さまを抱きしめた。
もう誰にも遠慮なんていらない。
その様子を見て私は決心した。
二人は死なせない。
「レナート兄さまとオフィーリア姉さまが旅立つのはずっと先だわ。
どうして何の罪もない二人が死ななければならないの?
三人でブレナン領で暮らすの。昔みたいに三人で色々な所に行って、またレイヴンを相手に盤上の模擬戦で戦うの。今ではきっと負けないわ。
表向きは亡くなった事になっていても、ブレナンの皆は分かってくれる。
私は二人を死なせないわ」
先ずは婚約破棄を王家に突き付けるべく、ホーエン公爵とブレナン公爵が王へ謁見を要求しに行った。
舞踏会当日、毒杯を賜る前に結婚式を行いたいという二人の希望で、ホーエン公爵夫人が衣裳部へ手配に行き、トビアス閣下にはジョージとエルサにオフィーリア姉さまが毒杯を煽る場に立ち会う様に手配を頼んだ。
そして残ったお母様に毒薬をすり替えるようお願いした。
王家の秘毒は王と王妃にのみ場所と種類、用途を伝えられる。
王族に下賜される毒杯は苦しまず、眠ったように旅立てると伝え聞く。
大人たちが皆退出した後、本来成人を迎える王太子とオフィーリア姉さまの肖像画を依頼していた隣国エヴェール王国のナイトレイ伯爵に事情を伝え、王太子ではなくレナート兄さまとオフィーリア姉さまの結婚式の肖像画を依頼した。
早めに到着して王都に滞在していたナイトレイ伯爵はその日のうちにやってきて、結婚式までの数日間、その印象的な透き通るような瞳で私たちの話をにこやかに聞きながらその様子をスケッチしていた。
私たちはこの三日間、ブレナン領に戻ったらやりたい事のリストを作ったり、騎士団の最新情報を更新して盤上の模擬戦用の駒を作りなおしたり、ブレナンの教会でもう一度結婚式を挙げる為、子供の頃に考えていたドレスのデザインを調整したりと、明るい未来だけを語り合い子供の頃のように屈託なく笑い合って過ごした。
本当に幸せな三日間だった。
舞踏会当日、ジョージとエルサは何の臆面もなく連れ立ってやって来た。
あの重そうな、舞踏会程度のドレスに対しては華やかすぎるエメラルドの首飾りを身に着け、恥ずかしげもなく国王の前にやってくると、いつもの少しあごを上げた得意げな笑顔で挨拶をした。
私には彼女の美しさが全く分からない。
ウエディングドレス姿のオフィーリア姉さまは本当に美しかった。
ベールダウンの大役を拝命した私は間近で微笑まれ、思わず涙ぐんでしまうほどだった。
ブレナン領で、レナート兄さまと二人で誰よりも幸せになってねと声を掛けて、ブレナン公爵と共にバージンロードへ送り出した。
計画通り、母のバーバラ王妃は王から下賜される秘毒を二日間仮死状態になる薬にすり替えていた。眠るように息絶えた後、棺に納められたオフィーリア姉さまはブレナンの領地に着く頃に目覚めるはずだった。
なのに。
コポリと血を吐いた瞬間、まるで最初からこうなる事が分かっていた様に、レナート兄さまはオフィーリア姉さまを力いっぱい抱きしめた。
あぁ、やはり。
王妃教育で王家の秘毒を知るオフィーリア姉さまのささやかな復讐。
一番苦しみ、凄惨な最期を迎える薬を選び、その最後をあの二人に見届けさせたのだ。
苦しみに空を切るオフィーリア姉さまの手をお母様と共に咄嗟に掴んだ。
握りしめて額に当てたオフィーリア姉さまの手から伝わる早鐘のような脈が途絶え、もう握り返してくれなくなった手からぬくもりが消えていくと共に体の奥底から激情が沸き上がる。
赦さない。
◇◇◇
はっと気が付き、速くなった呼吸と鼓動を胸に手を当てて落ち着けようとすると、筆頭侍女として仕えてくれている姪のダフネが慌てて駆け寄り、ショールを掛けて背中を撫でてくれた。
ダフネはフォルン伯爵となった弟チャールズの三女で、相思相愛で結ばれたブレナンの騎士と結婚以来、夫婦で私を支えてくれている。
もう大丈夫ありがとうと声を掛けて、お茶の準備をお願いした。
お茶の支度の為に部屋を出て行くダフネの後姿に、あの後の事を思い起こす。
オフィーリア姉さまを宝物のように抱き抱えるレナート兄さまに付き従い、礼拝堂を後にした。
なぜ涙が出ないの?
私はそんなに薄情な人間だったの?
どうして泣けないの?
髪も化粧も美しく整えられ、眠るように棺の中に横たわるオフィーリア姉さまの側に付き添い、棺が出発するまでずっとそればかりを考えていた。
その頃の事はあまり覚えていない。
ただ、弟のチャールズが側に居て声を掛けてくれていた事は微かに覚えている。
『姉様、お水を飲みましょう』
『少しで良いから何か食べてください。ぶどうはお好きでしょう?一粒で良いので口に入れて下さい』
『オフィーリア様は僕が必ずお守りしますから、少しだけでも眠ってください』
お茶の準備を整えて戻って来たダフネを向かいに座らせていつものように一緒にお茶を頂く。ダフネの淹れてくれるお茶は私が知る中で一番おいしい。
ダフネはチャールズによく似ているわ。顔かたちも過保護なほどに世話焼きな所も。
私、チャールズにお礼を言ったかしら。
あちらに行ったらあの時はありがとうと言わなくちゃ。
『今更ですか? 遅すぎますけど、姉様なら仕方がないので許してあげますよ』
そう言うチャールズの呆れ顔が目に浮かぶようだ。
髪留めさえ重く感じるようになり、最近は装飾品をほとんど身に着けなくなっている。
唯一付けている左手の小指に嵌った指飾りは、祖父のヘンリー元王の形見の品だ。
その指飾りにそっと手を触れると、祖父のヘンリー元国王との最期の時間が目の前に広がった。
◆◆◆
国王ヘンリーの臨終に際し、王族が隣室に控えていた。
最初に寝室に呼ばれたのは王太子である父リチャードと兄のジョージだった。
王妃の首飾りを握りしめて退出してきた父と兄は、扉の側に控えていた母バーバラを突き飛ばす様に押しのけ、バランスを崩した母には見向きもせずにシェリル様と弟チャールズの元へ駆け寄り、興奮した面持ちで母の王妃が孤島に幽閉されていた事と幽閉先から護衛と共に姿を消して行方が分からない事を蒼白な顔で訴えている。
この部屋の中でそれを知らぬものは父リチャードと兄ジョージだけ。
誰も驚かぬことに疑問を抱かず慰め合う二人を尻目に、血縁者が次々と寝室に呼ばれていく。
第一王女のアメリア・フォン・グレイ公爵夫人は式典用の指飾りを贈られ、涙を堪えて退出し、夫のグレイ公爵に肩を支えられている。
弟のチャールズは、留学中のもう一人の弟ルイスに宛てた手紙と、それぞれに贈られた指輪を握りしめてシェリル妃に寄り添われて俯いている。
父のリチャードは、いつものように母のバーバラに見向きもせず三人を抱えるように手を取り背を撫でていた。
最後に招き入れられたのは、ホーエン公爵と私だった。
国王ヘンリーとホーエン公爵アレクシスは、言葉を交わすことなく固く両手を取り合い頷き合っている。
こうして並ぶと、二人は普段間近で接している私でさえ見分けがつかないほどによく似ている。
ヘンリー国王は私を枕元に呼び、いたずらっ子のように微笑んで内緒話をするように囁いた。
「私とアレクはね、双子なんだ」
目を瞠った私に、まだ内緒だよと言って話を続けた。
「この国の後の事は、アレクと既に長い間話し合って決めている。
アレクがオルレシアン王国のヴォルク大公の下で育ったことはこの国の僥倖だった。
そのおかげで、遅過ぎはしたが、私の命のあるうちに国を正す道筋をつける事が出来た。
乳母の弟だったカッセル侯爵の影響力が強く、母である先王妃の実家のヴォルク大公家も手出しが出来なかったために、私はカッセル侯爵の傀儡のように育てられてしまったのだ。
重臣たちがカッセル侯爵家の増長を危ぶんで、その力を抑える為に議会で決められたサフォーク侯爵家のマリアンナ嬢との婚約だったにもかかわらず、私は虐げた挙句にあのような形でサフォーク侯爵家ごと国を捨てさせてしまった。
私は、私に都合の良い甘い言葉だけを掛ける貴族たちにしか目を向けていなかった。
その外で高位貴族たちから向けられる寛大な冷笑に気付いてさえいなかった。
アレクに決断を迫られて王妃を幽閉しカッセル侯爵から離れ、漸く周りが見えるようになり人々の声が聞こえるようになったのだ。それ以来、過去を振り返っては羞恥に身を焼かれるような日々だった。私は何という愚か者だったか。
ヴォルク大公とアレクの支えがなければ、私は愚物のまま利用されこの国はカッセル侯爵に簒奪されていただろう」
苦し気に胸を押さえ、肩で息をする王の背中をホーエン公爵がさすり、少し落ち着くと話を続けた。
「王妃は、カッセル侯爵が孕ませた侍女を派閥の子爵家に下賜して生まれた、カッセル侯爵の庶子だ。カッセル侯爵家が躍起になって広めていた[輝く金髪に翡翠色の瞳]は、我が王家ではなくカッセル侯爵家に伝わる色だ。
対して、我が王家の男から遺伝する左手の小指の遺伝は、母親の血筋に左右されると広められているが、そうではなく、父親から必ず子に出現する。
私は捻じ曲げて伝えられたこれらの言葉を鵜呑みにし、真実に目を向けるのが遅すぎた」
国王はふと目を細め、緊張で強張る私の頬をそっと撫でて続けた。
「聡いそなたにはみなまで言うまい。
バーバラを責めてはいけないよ。
婚約時にホーエン公爵を立会人として王家とガレリア侯爵家が結んだ契約書には、王太子妃の責務として「王家の子」を産むことと記載されている。
その為にバーバラには惨い事を強いてしまったし、そなたにも辛い思いをさせてしまった。
本当にすまない事をした。
愚かな私を許してくれとは言えない。
だが、これだけは言わせて欲しい。
そなたは私の自慢の孫娘、我が王家の誇りだ」
掠れた声を絞り出すように話し終わると、最後の力を振り絞るように自分の指に嵌った指飾りを外して私の指に嵌めると、肩の荷を下ろしたように静かに息を引き取った。
その手を取って最期を看取った後、ホーエン公爵の威厳を纏ったアレクおじい様に促されて、王女の威勢を正した私は国王崩御の号令を発した。
それは国王の最期を看取った者の義務であり、また、その号令を発した者は亡き国王の最も信頼する人物であるという宣言でもあった。
◇◇◇
撫でていた指飾りからふと顔を上げると、額縁の中からバーバラお母様とトビアス閣下が寄り添って覗き込むように私に笑顔を向けている。
祖父ヘンリー国王の葬儀の後、バーバラお母様とトビアス閣下は私の様子から恐らく真実であろう事実に確信を得たことに気付いていたようだが、二人ともそれまでと変わらない態度で私に接してくれた。
物心ついた頃からずっと、頭を撫でてくれる度、泣いていると寄り添って涙を拭いて慰めてくれる度、一人で不安な時にふわりと抱き上げてくれる度、あぁこの方がお父様だったらどんなに良いだろうと心の底から憧れていた。
もちろん、真実は神のみぞ知る事だが、それが現実だと思えることが何より嬉しかった。
それ以来、あれ程顔色を窺いその表情に一喜一憂していた側妃宮の住人から、どんなに無視されようが冷遇されようが全く気にならなくなった。
だって私には心から愛して慈しんでくれる家族がたくさんいるのだもの。
その家族みんなを愛する事で私はとても忙しいの。
赤の他人にどう思われようが、そんな事どうでもかまわないわ。
それからもずっと、私たちは変わらずトビアス閣下、ビアンカ殿下と呼び合った。
心が通じ合っていれば、呼び名など些細な事だった。
二人は、補佐として支えていた王太子フィリップの成人を見届けた後、王宮を辞してガレリア侯爵家の別邸に移り住み、二人で穏やかな晩年を過ごしていた。
お母様は、領地の隣り合うフォルン伯爵家の別邸で暮らす、女男爵となったシェリル様と、少女の頃のようにフォルン領とガレリア領の境に跨る湖のほとりの一番大きな椎の木の下でよくのんびり過ごしていたそうだ。
体の弱かったシェリル様が早くに旅立たれた後は、お母様とトビアス閣下が椎の木の下で寄り添って過ごしていると、フォルン伯爵を継いだ弟のチャールズから届く手紙で伝え聞いていた。大変な筆まめだったチャールズから届くまるで日記のような手紙を私は心待ちにしていて、おかげでガレリア侯爵領の出来事はまるで見ているかのように知ることが出来たのだった。
数年前からもう届く事の無くなった手紙の束を手に取ると、会えば必ず開口一番に言われていた言葉が耳元に響いた。
『姉様、手紙の返事が少なすぎます』
思わず、額縁の向こうで腕を組んで満足げな笑顔を向けるチャールズに返事をした。
「ごめんなさいねチャーリー、そちらに行ったら頑張るわ。貴方の手紙はいつもとても楽しみにしていたのよ。ありがとう」
そうしてお母様とトビアス閣下のポートレートを手に取った。
トビアス閣下と二人でお母様を見送ってからほんの一月足らず、トビアス閣下も後を追うように最期を迎えた。
天に召される直前、トビアス閣下は窓の外を見やって小さく呟いた。
「あぁ、私の大切な小鳥が迎えに来てくれた」
そう言って私の頬に手を伸ばし、子供の頃にこの方が父であればと憧れ続けていたあの柔らかに輝く瞳に私を映すと、最期の言葉を残して小鳥と共に飛び立ってしまった。
「私たちの可愛い雛鳥」
額縁の向こうの二人に笑顔を返して、そちらに行けばお父様と呼ばせてもらえるかしらと独り言ちた。
誤字報告本当にありがとうございます。
ご指摘を拝見するたび、至らなさと共に尊敬の念が強くなります。