追憶 1
ビアンカとホーエン王国のその後を追加しました。
もう数話続きます。
時系列が前後しますが、ビアンカの思い出が中心なのでご容赦下さい。
人物紹介は準備中です。
ふわりと掛けられた肩掛けのぬくもりに優しく意識を引き戻され、ブレナンの美しい風景が目の前に広がった。ふと目を上げて、アラン伯父様と声を掛けそうになるのを押しとどめる。
そう、伯父のガレリア前々侯爵はとうに亡くなっている。
目の前に居るのは伯父様の末息子で、ガレリア家の持つ子爵位を引き継いだ後、今は子息に代替わりしたロバート卿だ。
父のように私を慈しんでくれた大好きなアラン伯父様夫妻の間に、代替わり直前に思いがけず誕生した末っ子で、私は年の離れた弟のように可愛がっていた。
歩き始めた頃から、ねえさま、ねえさまと付いて回るのがとても可愛らしかったのだ。
掛けた肩掛けを整えてくれているのはロバートの妻であり、弟ルイスの一人娘のヴィクトリアだ。
ルイスはブレナン家がいくつか持つ爵位を勧めても固辞し続け、生涯私の最も信頼できる補佐として、またブレナン大公国の出版事業の要である絵師として支え続けてくれた。
そのルイスの伴侶となったのは、ブレナン小公爵夫妻であったレナート兄様とオフィーリア姉さまの肖像画を依頼して以来ずっと懇意にしている隣国エヴェール王国のナイトレイ女侯爵から託された、近隣国コルアイユ王国の伯爵令嬢だった。
マルグリットと呼び名を変えた彼女は、生家から顧みられず、姑となるはずだった婚約者の実母に虐げられても素直さを失わず気丈に生きて来たのだが、婚約者に手酷く裏切られ深く傷つき、失意の中命を絶とうとした所を間一髪で攫ってきたのだと聞かされた。
伯爵令嬢とは言え彼女ほど教養深く所作の美しい令嬢はそう多く無い。近隣国の数ヶ国語をも習得しており、ひとえに彼女の努力の賜物だと言えよう。しかも不遇な状況下で育っていても卑屈な所は見られず心映えも好感が持て、そして何よりも彼女の息を飲むほどに美しい手跡に惚れ込んでしまった私は庇護下に置く事を承諾したのだった。
彼女を連れてブレナン大公領へやって来たナイトレイ女侯爵の伯母の女傑は、周囲の歓迎の様子に大変満足した様子で、彼女を連れてきたことを盛大に自慢しながら帰っていった。いつ来ても春を告げる嵐のような人だった。
マルグリットと初対面の日、隣に座って共に話を聞いていたルイスにふと目をやると、その瞳の奥に初めて見る光が宿っていた。その光の意味に気づいて心が躍った事や、その後の数年に渡るルイスの奮闘と、心を通じ合わせてからはお互いが何者でも良いと無位のまま睦まじく添い遂げた生前の二人の姿を思い出してふと頬が緩む。
ロバートとヴィクトリア夫妻は引退後ブレナン大公領に移り住み、こうして何かと私の世話をしてくれている。
肩掛けを直すヴィクトリアの手を優しく包みながら、ありがとうと声を掛けて二人に微笑みかけた。
「本当にロバートは伯父様にそっくりだわ」
そう言うとロバートは、またその話ですかと、伯父様にそっくりな苦笑いを浮かべている。伯父様は私が背中に飛びつく度にそうして笑っていらしたわ。
顔かたちだけでなく仕草までもが本当にそっくり。
「風が出てきましたわ
伯母様、そろそろ邸に戻りましょうか
お天気が良ければ、明日もまたお散歩に参りましょうね」
優しく心からの気遣いが出来るヴィクトリアは姿形も心根もマルグリットによく似ている。
ほんのりとルイスを思わせるヴィクトリアの横顔に、優しく優雅でいつも微笑みを絶やさなかったシェリル様の面影が重なる。辛い事がある度に頬を包んでくれたあの温かく優しい手に、私は何度救われた事だろう。
ロバートが私の座る車椅子を押しヴィクトリアが寄り添って、海を見下ろす丘を後にした。
丘の上には親友夫妻の二つの墓標と、その傍に建設した教会にはブレナンの誇る勇敢な騎士や兵士たちの名を刻んだ慰霊碑がある。
体調とお天気が良ければ、ロバートとヴィクトリアは毎日のようにここへ散歩に連れ出してくれるのだ。
斜面を覆う花の蕾はまだ固く結ばれているが、もう少し温かくなれば辺り一面が水色に染まる。
邸までの道のりを三人で他愛の無い話をして到着すると、出迎えた使用人に交じって先日職業学校から採用したお針子見習いの少女たちが手に美しい箱を持って私の前に進んで可愛らしいカーテシーを取った。
私が手紙やカードを仕舞う箱を探していると聞いた彼女たちが、同じ職業学校で家具職人の見習いをしている男の子たちと相談し合って作ってくれたのだそうだ。
職業学校の設立は、ブレナン大公領の領主として一番初めに手掛けた事業だった。
ブレナン女大公となる事が決まり義父となったブレナン公爵から引継ぎの為に領地を視察していた頃、国の軍部を担う家門としての宿命とも言うべきか、王都に比べて寡婦や孤児の割合の多さを感じた事で決めたのだ。
先ずは教会と孤児院に協力を仰ぎ、父を失った子供たちや孤児を集めて読み書き等の基礎を教え、次にそれぞれの適性に合わせた色々な分野の手間仕事を請け負って仕事を覚えられるようにした。これは王都で母のバーバラが王太子妃だった頃の政策を手本とした。
最初は話を持ち掛けても大事な働き手の子どもたちを通わせる事を渋る親が多く、手間仕事には少額ながら手間賃を払う事と、読み書きが出来て手に職が付けば賃金を多くもらえるようになると粘り強く説得して何とか走り出した事業だったが、やがてそこで才能や頑張りが認められ、ブレナン大公邸をはじめ、領都の有名な工房や商会に見習いとして巣立って行く子供たちを目の当たりにすると希望者は徐々に増え始め、今では職業別に多くの学校を展開するまでに成長した。
また、職業学校の講師は一線を退いた熟練の職人たちの第二の就職先としても重宝されている。
怪我をして騎士団を去る事を余儀なくされた騎士たちには、騎士を目指す小さな子供たちを対象にしたプチ騎士団を設立して、そこで基礎体力作りや騎士の基礎訓練などを任せる事にした。
それらは、かつてレナート兄さまとオフィーリア姉さまと一緒に、国の為、ブレナン領の為に語り合っていた事だった。
領民たちと共に小さなことから一歩づつ、皆の力を借りてブレナン領を発展させていくのが、二人からこの地と意思を託された私の使命だ。
数年前からは職業学校ごとに協力し合って新しい産業のためのアイデアを発表するコンテストを行っている。
この美しい箱は去年彼らのグループが考案したもので、端材や端切れを利用したアイデアと何より見た目の美しさが目を引き、領主賞に選ばれたのだ。
カードと手紙の大きさピッタリに作られた箱には、私のお気に入りのドレスとおそろいの生地が貼られ、蓋の生地には私の紋章とブレナンの花々の刺繍が施されているとても美しい作品だった。
彼らの心遣いが嬉しくて思わず涙ぐんでしまい、箱を手に取って一人一人の顔を見ながらありがとうと言うと子供たちは花の綻ぶような笑顔を見せてくれた。
年を取ると涙もろくなっていけないわ。
大切な人たちからの手紙やカードは目と手の届くところに置いておきたかった。
カードは、ヴィクトリアの母のマルグリット夫人のほれぼれするような手跡が羨ましくて、お手本として短い詩を書いてもらっていたものと、ヴィクトリアがロバートと共に毎日小さな花束と共に届けてくれているものだ。
母親から手ほどきを受けたヴィクトリアの手跡も素晴らしく、ここへ来てから同じように書いてもらうようおねだりしたのだ。
時間のある時で良いと言っていたのだが、日課の練習がてらだと言いながら毎日書いてくれている。ヴィクトリアのカードにはルイス直伝の小さな絵が添えられている。
早速宝物たちを納めて、ポートレートが立ち並ぶベッドサイドのコンソールに置いた。
その様子を眺めては嬉しくて微笑んでしまう。
子どもたちへのお礼の品は何が良いかしら。後でメイドたちに相談しましょう。
母のバーバラ王太后の形見のコンソールには皆の形見とたくさんの思いやりが詰まっている。
生まれてこの方、私は何と周囲の人々に恵まれていた事か。
思い出の品一つ一つを手にしながら、今支えてくれている人々への感謝と共に、かつて支え合い、見送った多くの人々に想いを馳せる。
◆◆◆
ホーエン王国が建国して一年、様々な手続きを終えて国王アレクシスと王妃フリーデリケの戴冠式が華々しく行われた日、亡国となったルクセル国王妃バーバラ殺害未遂の罪で廃位となった元ルクセル国王リチャードの病死がひっそりと発表された。
以降その日は、ホーエン王国の建国と、醜聞にまみれたルクセル王家の滅亡を祝う祝日となっている。
国中で知らぬ者の無い悲恋の物語が実話であり、その犠牲者が国防の要であり国内一の騎士団を擁する名門公爵家の公女と跡取りの公子だと知れ渡ると、加害者と明らかになったルクセル国王リチャードと王太子ジョージと不貞相手のエルサ嬢の為した人を人とも思わぬ非道な所行に民衆の非難は高まっていった。
そして高位貴族家が次々とルクセル王家への不支持を表明し始めた頃、王太子ジョージとエルサ嬢の病死の発表と共に、リチャード国王とその母である前王妃によるバーバラ王妃への非道な暴力や殺害未遂の数々が告発された。
前国王ヘンリーと身分を超えた真実の愛と持て囃されていた前王妃の隠されていた悪行は詳らかにされ、更に数年前に幽閉先の孤島から結婚以来お気に入りだった [輝く金髪に翡翠色の瞳を持った] 護衛騎士と共に姿を消したことを知らされた国民は、国を挙げてあれほど持て囃したにも拘らず、手のひらを返したように嫌悪するようになっていった。
そして、お飾りの王と囁かれていたリチャード王に対し、国内外からの絶大な信頼と人気を誇るバーバラ王妃の殺害未遂の動機が、側妃を王妃に取り立て、その上王妃の実家ガレリア家の財産と後ろ盾をも手放さない為の浅ましく愚かなものだと知った人々は怒り、国民の心は瞬く間にルクセル王家から離れていった。
そんな過酷な王家の中にあっても、善政を敷き身を粉にして国民に尽くしたバーバラ王妃と、その身を挺してリチャード国王の非道な暴力からバーバラ王妃を救い、それが原因で聾唖となってなお数多の殺害の計画からバーバラ王妃を懸命に守り抜いたシェリル側妃の固い絆が裁判により明らかになると、人々はその美談に心酔した。
リチャード国王の廃位を受け、ブレナン女大公となった私、ビアンカ第一王女とルイス第二王子、チャールズ第三王子と共に王位継承権を放棄し、王籍から離れることを発表した。
それに伴い国名もホーエン王国と改められる事が議会で決まり、新たな国王には前国王ヘンリーと一卵性の双子の弟と明かされたアレクシス・フォン・ホーエン公爵が、カッセル侯爵家を除く全ての高位貴族家の支持と推薦を受けてホーエン国王として即位したのだった。
カリスマ性を備えた新国王アレクシスと、隣国オルレシアン王家の血を引き、バーバラ王太后を育て上げた賢夫人と名高い新王妃フリーデリケ率いるホーエン王国を、人々は熱狂的に受け入れた。
こうして無血のクーデターは成り、醜聞に塗れたルクセル王家は終焉した。
あれから半世紀。
先月崩御したフィリップ国王を最後に、あの激動の時代を共に潜り抜けた人々は皆、私を置いて旅立ってしまった。
◆◆◆
隣国オルレシアン王国のダリス公爵家から王太子として迎えたフィリップ殿下は、オルレシアン国チャールズ国王とマリアンナ王妃の第一王女であるダリス女公爵と、アレクシス国王とフリーデリケ王妃の長男であるドミニク閣下の元に誕生した次男である。
たった十歳で一人故郷を離れてホーエン王国の王太子としてやって来たフィリップ殿下は、初めこそ心細い様子だったが、実の祖父母に愛情深く慈しまれ、実の叔父と国民からの信頼厚い王太后に支えられてめきめきとその頭角を現し、あっという間に周辺諸国にさえ一目置かれる存在になっていったのだ。
また、フィリップ王太子殿下はダリス公爵夫妻譲りのボードゲームの達人であり、バーバラ王太后とは王宮きっての好敵手と評判で、二人の対戦が始まると王宮内のボードゲーム好き達はこぞって見学にやって来るようになった。
王妃時代はもとより、王太子の婚約者として王宮に上がって以来一分の隙も無く常に張り詰めた様子だったバーバラ王太后が見せるようになった柔らかな雰囲気に、子どもの頃から見守っているアレクシス国王、フリーデリケ王妃を始め周囲は安堵した様子だった。
私は今まで見たことのなかったお母様の心からの笑顔を、トビアス閣下と互いに顔を見合わせながら微笑ましく見守っていた。
アレクシス国王は朗らかながら冒し難い厳格さも併せ持っており、臣下たちの言葉にも耳を傾けながら国の為に尽くし、曲者ぞろいの高位貴族たちをその笑顔と話術で篭絡し纏め上げた。
フリーデリケ王妃は嫋やかに微笑みながら巧みな交渉術を発揮して家門を担う貴婦人たちのほとんどを手中に収め、社交界を華やかに牽引していく様は見事の一言に尽きた。
竹馬の友であるホーエン国王アレクシスとオルレシアン国王チャールズとの関係は、そのまま国同士の友好の絆となり、その両国王を祖父に持つフィリップ王太子殿下は両国の希望であり、ホーエン王国の明るい未来を照らす象徴だった。
ホーエン王国建国のお祭りムードも一段落し国政も落ち着いて来た頃、私はアレクシス国王からとある相談を持ち掛けられた。
「サフォーク侯爵家を復興させようと思うのだが、ブレナン女大公には一から出直すカッセル侯爵子息の後ろ盾になってもらえないだろうか」
カッセル侯爵家の名に一瞬眉根が寄りそうになったのを、可愛らしく小首を傾ける事でやり過ごして、話を聞く事にした。
「サフォーク侯爵家はオルレシアン王国マリアンナ王妃陛下の元ご実家ですわね。マリアンナ王妃陛下の兄君は現在オルレシアン王国でエスティア伯爵位をお持ちとか。陛下のお考えあっての事ですからカッセル小侯爵であろうと後ろ盾になるのは吝かではありませんが、先ずはどういったご計画かお聞かせ頂けますか?」
眉根を寄せた顔もとても可愛らしいのに、と残念そうに言いながら立ち上がったアレクシス国王は、私を窓際に誘い部屋にいる皆に背を向けた。密談の構えだ。
中庭を散策するフリーデリケ王妃一行とフィリップ王太子殿下と側近候補たちを見下ろしながら語られた計画に、私は思わず笑顔になり大きく頷いた。
その頃のホーエン王国ではフィリップ王太子殿下の婚約者候補の選定が行われていた。
今代は未婚の令嬢の居ないグレイ公爵家とブレナン大公家を除く、国内に四家ある侯爵家の令嬢たちが有力候補と噂されている。
ガレリア侯爵家は前王妃の実家であることから貴族家間の均衡の為に辞退を申し出ており、残るはノルマン侯爵家とヘルマン侯爵家、そしてカッセル侯爵家である。
ノルマン侯爵家は北の外海に面した領であることから防人として重要な地位を持つ。
ガレリア侯爵夫人の生家であり、廃妃となった元王妃の幽閉先として孤島の提供と監視、そして出奔後の後始末を一任された王家からの信頼も厚い家門だ。
ブレナン大公家とヘルマン侯爵家の領地とは内海が繋がっているため、海上の保安で同盟を結んでいる。
ヘルマン侯爵家は、廃太子ジョージの不貞相手である養女エルサの不祥事に巻き込まれたものの、その迅速な対応と関係各所への事後処理が実に高位貴族家らしく鮮やかだった。
あの運命の舞踏会の数日前、ヘルマン侯爵はジョージが王太子妃の証であるエメラルドの首飾りを持ってヘルマン侯爵家へ向かうと報告を受けたと同時に直ちにカイン小侯爵への爵位継承書類とエルサの侯爵籍除籍を提出して、自身は領地謹慎を届け出たのだ。
また、当主を退いた後に後妻となった夫人との子とはいえ、ブルク子爵家の血を引く令嬢の不祥事は低位貴族家であれば家の存続も危ぶまれるとして、ブルク子爵宛には事の次第を早馬で知らせた。
舞踏会の当日には既に提出書類の受理と議会の承認はなされており、意気揚々と入場した二人ではあったが、その時にはエルサは侯爵令嬢でも子爵令嬢でさえもなかったのだった。
新侯爵となったカインは、傘下に入ったブルク子爵と共に自らブレナン家とグレイ家に足を運んで最大限の誠意を見せた。
程なく私がブレナン女大公となる事が決まった時には、ヘルマン侯爵家一門の長として私の足元に膝を折り忠誠を誓ったのだ。
一連の手続きを終えるとヘルマン元侯爵は領内の別邸へと発ち、修道女となったエルサの母のブルク元子爵夫人は現在、ヘルマン元侯爵の推薦と支援を受けてエルサの眠る辺境の修道院に身を寄せていると聞く。
ガレリア侯爵家はもちろん、ノルマン侯爵家とヘルマン侯爵家は共に国王支持を表明しており、直系と家門の令嬢達をフリーデリケ王妃の下に行儀見習いや侍女として出仕させている。その令嬢達がフィリップ王太子殿下の婚約者候補と噂が上る度、その中から相応しい者を候補者とする可能性があると発表するに止め、正式な名乗りは挙げていない。
中庭の華やかな一行の中心には、フリーデリケ王妃の右手をエスコートするフィリップ王太子殿下と、左手を預けられているひときわ清楚な令嬢が品よく微笑んでいるのが見える。
賢妃と名高いフリーデリケ王妃の下には国内外の高位貴族令嬢が教えを乞うために集っている。その中の一人、オルレシアン王国エスティア伯爵家の令嬢であり、マリアンナ王妃の孫姪に当たるオデット嬢はフィリップ王太子殿下とは幼馴染だという。
適切以上と思える程の距離を保ちながらも見つめ合う二人の様子に、近い未来に並び立つ姿が見えるようだった。
対するカッセル侯爵家は、早々に直系の令嬢二人を王太子妃候補として名乗りを挙げ、家門の優秀な伯爵令嬢数名を側妃候補として強く推しているという。
国王派閥に対抗する貴族派閥として、カッセル侯爵夫人と子息夫人たちは、直系と家門の貴族を中心としたサロンを大々的に展開しており、中立派閥の家門や下位貴族家を取り込もうと精力的に活動している。
現在王太子殿下が通う貴族学園では側近候補の令息たちの守りが固く、学園内では彼らの姉妹であろうと女生徒は全く近づけないと聞いている。
それでもなお、カッセル侯爵家の令嬢達は何度注意されても王太子殿下に近づこうと躍起になり、更には外堀を埋めるべく中・下位貴族たちを中心に噂を流しているが相手にされていない様だ。
カッセル侯爵家は、現当主の奸佞と邪智により王家簒奪とも取れる行いにも関わらず、自ら手を下した事や指示した事を裏付ける一切の物的な証拠を残していなかった。
裁判でも、そうするように言われていると思ったという当事者の憶測の証言のみでは国内有数の高位貴族家を断罪することが出来なかったのだ。
バーバラ王太后が王太子妃候補であった頃から続いた数々の殺害計画や毒物の入手に付いても、カッセル侯爵は耳元で囁き示唆したと言われているが、囁かれた当人でさえも「毒」や「暗殺」などと言う言葉を明確に聞いておらず、それらをカッセル侯爵が直接指示したという証拠も証言も得られなかったのだ。そうして囁かれて忖度した周囲が手を廻し、それに乗せられ愚かにも自ら動き実際に手を下したのは当時王太子であったリチャードであり元先王妃だった。
カッセル侯爵は疑わしきは罰せずという国内法の隙を掻い潜り、カッセル家はまだ侯爵位のまま存続している。
だが、それを許すアレクシス国王ではなかった。
○○○
カッセル家はルクセル王国時代に海運業への投資で成功し、投資家として大成して伯爵位から侯爵位に陞爵した。
現当主は投資や金融の才はないものの社交界での策謀術に長けており、自身の姉を王家の乳母として出仕させ、更に家門の令嬢を王妃に押し上げた事で王宮での地位と権力を手に入れたのだ。そして三男のグスタフに創業者以来の投資の才能を見いだすと、[金を稼ぐしか能がない]と社交からも家族からも遠ざけて外にも出さず家業に専念させた。
地位と権力に加え、莫大な資産を得たカッセル侯爵家とその家門の貴族たちは更に増長し、この世の春とばかりに我が物顔で王宮を闊歩していたのだ。
しかし、今回の一件で罪に問われなかったとはいえ王妃殺害未遂の関与の可能性が色濃く、更に罪に問われた者たちはカッセル侯爵から融資や傘下に入れることを匂わされた者たちだった事が知れると、様々な契約先や投資先から断りの手紙が届くようになった。
家業を一任されているグスタフには寝耳に水の事で、理由を知ろうにも家人には、
(何も心配はいらない、お前は今まで通り金を稼ぐことだけを考えていれば良い)
と繰り返されるばかりで、その金を稼ぐ術がなくなりつつあるのだと言っても耳を貸してくれない。
使用人からも外の情報は遮断されているため、文房具を届けに来る商会を営んでいる子爵家から何とか社交界の情報を聞き出し、その令嬢を通じて弟たちの孫娘の学園内の様子も知ることが出来た。
社交界でも学園でも、王太子妃候補と息巻いているのはカッセル侯爵とその一門だけで、孤立している事を当人たちだけが気づいていない。
漸く父母や兄たちの所行を知る事となったグスタフに見えたのは、目前に迫った侯爵家の没落だった。
最期の投資先から断りの手紙を受け取ると、グスタフは今ある資金を纏めて領地に送り、家人の留守を狙って王宮へ侯爵領の救済の陳情に出かけた。
王宮にあるカッセル侯爵家に割り当てられた控室で長い時間待った後、呼びに来た護衛騎士に先導されて長い廊下をひたすら歩いてやっと辿り着いた部屋に通されると、そこには人好きのする笑顔を湛えた年配の男性がテーブルの向こうにゆったりと座っていた。
護衛の言葉で、目の前の人物が国王陛下だと気づくと全身に緊張が走り、慌てて最敬礼を執ったが、声が震えて口上がうまく言えなかった。
「ここはプライベートな場所だから畏まらなくていい。君の事は各方面から投資の天才だと聞いている。今まで酷い家族の為によく頑張っていたともね。」
初めて聞く褒め言葉と労いの言葉に一瞬ぽかんとしてしまったが、それよりも、とにかく領地の救済をお願いしたいと陳情を述べた。
国王陛下はじっとこちらを見据えた後、ゆっくりと話し始めた。
「領地の事は心配いらない。後を任せられる当てがある。
私はカッセル侯爵家のしたことを許すつもりは無いのだが、何も知らされずただ働かされていた君の才能は惜しいと思っていてね。君は全てを捨てて一から出直す覚悟はあるかい?」
全てを捨ててという言葉を反芻して、ふと気が付いた。
「私は捨てるものを何も持っていません。結婚も許されずにずっと一人で働くだけでしたから。
家族は、一緒に食事をした記憶さえほとんどありませんし、彼らは私の事を家族だとは思っていないでしょう。金を稼ぐだけしか能が無いと言われ続けていましたから、金を稼げなくなったと分かれば私の方が彼らに捨てられると思います」
感情なく淡々と答えた私に、それなら話は早いと計画をもちかけられた。
「では君には、ブレナン大公家の新しい輸入事業のためのテスト運航にカッセル家から先行投資をしてもらいたい。もちろんテスト運航だからそれ自体が利益を生むことは無い。テスト運航が上手くいけば引き続きの投資で利益が出るのだが、継続投資が出来るかどうかはカッセル侯爵家次第だ。
航路は岩礁の多い海域だから万が一の事を考えてテスト運航には廃棄船を使うが、当日はブレナン女大公と前ブレナン公爵が視察として乗船するため、救助が必要になった場合の費用の準備も必要なのだ」
あまりの言葉に息を飲む
「家はどうなろうと構いませんが、姫様と前閣下に降りかかるかもしれない災難を事前に知りながら看過することは私には出来ません。ましてやその災難に乗じるなどとても・・・
その視察は中止出来ないのでしょうか。」
国王陛下は無言でわたしを見つめて首を横に振った。
「・・・・・・それなら、当面運用できるように今ある資金を領地に送っていますが、それも資産として没収されると領地は立ち行きません。どうか領地に送ったお金は領民の物として残して頂けませんでしょうか。
・・・私は姫様の肖像画を、もちろんレプリカですが、一度だけ拝見したことがあるのです。お恥ずかしながら、美しいと思うものを目にしたのがその時が初めてで、その姫様に災難が降りかかるかもしれないと思うと・・・」
消沈する私を見て、国王陛下は破顔した。
「やはりフリーデリケが見出しただだけの事はある。
安心したまえ。大切な女大公に降りかかる災難など私が全て薙ぎ払う。
領地の資金については希望通りにしよう。
良いかね?筋書きはこうだ。
もしも海上で事が起った場合、ブレナン女大公と前公爵の窮地を救うのは、たまたま近くを通りかかったオルレシアン王国のエスティア伯爵家の船だ。
恩義を返すべくブレナン女大公はエスティア伯爵に自身の持つ子爵位を与える。
ホーエン王国での貴族籍を得たことを足掛かりに、エスティア伯爵は破産し領主を失った元カッセル侯爵領を買い取る事を申し出る。
それを受け、ホーエン王国の重要な大公家を救った褒賞として、また、ルクセル王国時代にも侯爵として国を支えてくれていた功績も発表し、元の家名を引継ぎサフォーク侯爵家として復興させる。
そして君はサフォーク侯爵家入領の引継ぎの際に、元カッセル領の為に奔走していた事と投資の才を見いだされ、ブレナン女大公の後ろ盾を得て王家の投資顧問になる」
あまりの情報の多さと破格の待遇に言葉にならなかった。
そんな様子の私に国王陛下からは、君はそれだけ価値のある人材なのだと言われ、ブレナン女大公の庇護下に入る前に知っておかなければいけない事があると、ルクセル王国時代から続くカッセル侯爵家の来し方を聞かされた。
●●●
きっかけは、カッセル侯爵の姉がヘンリー第一王子の乳母に選ばれて王宮に上がった事だった。
忙しい王妃はなかなかヘンリー王子が起きている時間に会う事がままならず、自然と乳母を母よりも慕うようになった。本来ならそこできちんと臣下として線引きをしなければならないのだが、それを指摘されても耳を貸さずにひたすら甘やかし、将来国王になる殿下は特別な存在であり殿下の言う事は絶対なのだと言い聞かせて育ててしまった。
乳母のいう事はなんでも鵜呑みにし、思い通りに動く事に気付いたカッセル侯爵は、姉に傘下の貴族たちを取り立てるように進言させ、あっという間に王太子宮はカッセル侯爵家に牛耳られてしまった。
両親の国王も王妃にさえ距離を置き、カッセル侯爵一門に持て囃され甘言のみを受け入れる様子を危ぶんだ重臣たちは会議の末、ヘンリー王子の婚約者をサフォーク侯爵家のマリアンナ嬢と決定した。
しかしその決定を議会の横暴と断じた乳母とカッセル侯爵の言葉を信じ、勧められるまま目に留まった傘下の子爵令嬢を常にそばに置き、冤罪とも気付かずに断罪し終にはサフォーク侯爵家を国から去らせることになった。
また、サフォーク侯爵家の後ろ盾と資金を失って困窮した為、ガレリア侯爵家のバーバラ嬢を王太子妃に選んだにも拘らず、ガレリア家の財産と息子のリチャード王子の想い人を妃に迎えるために、バーバラ嬢の命を王太子妃候補時代から王妃になってなお脅かし続けた事は裁判で明らかになった通りだ。
そして、あの悲恋の話の事を聞かれたので詳細は知らないと答えると、帰ってから読むと良いと一冊の本を渡された。
その本には書かれていないが、そこにもカッセル侯爵の影があるのだと告げられた。
遅くなったからと馬車を手配してもらって家に帰って書類を作成していると、父のカッセル侯爵が離れの執務室にやって来た。
「支払いが滞っていると言われて買い物が出来なかったのだがどういうことだね。
家族に恥をかかせるなど許されることではない。
来週の期日までには今日の分も合わせてきちんと支払いを済ませるように。
お前は金を稼ぐしか能がないのだから、我々に養ってもらっているという自覚をもっとしっかり持たなければいけないよ」
言うだけ言って出て行った父を見送り、私は作っていた財産を売り払う書類を破棄した。
そして侯爵家所有の王都の全ての不動産に家具や家財、目録のあるドレスや宝石類と領地を丸ごと抵当に入れ、評価額より三割ほど多く借り入れる書類を作り直すと、その全額をブレナン大公領のテスト運航へ先行投資する手続きの書類を作った。
無一文で放り出すつもりだったが気が変わった。
少し借金を背負ってもらう。
彼らは金を稼ぐという事がどういうことか知った方が良い。
この投資金額はサフォーク侯爵家がカッセル領を買い取る際の資金に充てられるはずだから、余剰分があればブレナン大公家とサフォーク侯爵家に慰謝料として受け取ってもらおう。
破産を知り怒り狂ったカッセル侯爵家の人間が離れの執務室に雪崩れ込んだ頃、私は生まれて初めて踏み入れたカッセル領を見渡せる小高い丘の上で、ブレナン女大公の昔話を聞いていた。
王都に戻ると王宮の文官の宿舎の部屋が用意されていた。
そう言えばもう帰る家は無いのだ。
資産全てを失い、平民となった彼らにとっては途方もない金額の借金を背負った元カッセル侯爵家の面々は、それぞれが一番稼げる場所へと散っていったと聞かされた。
それから半年程過ぎた頃、ホーエン王国は学園の卒業を祝う夜会で発表されたフィリップ王太子殿下とサフォーク侯爵家オデット嬢との婚約に沸いていた。
先の海難事故でブレナン大公家の窮地を救い、ホーエン王国に復興を果たしたサフォーク侯爵家の令嬢は、隣国オルレシアン王国エスティア伯爵家の令嬢でもあり、マリアンナ王妃の孫姪でもある。さらにフィリップ王太子殿下とは幼馴染でお互いが初恋の相手だと広まると、王国中の女性たちから絶大な支持が集まった。
国を挙げての結婚式と戴冠式が同時に行われ、若き新国王フィリップと新王妃オデットに国民は期待し、懸命にそれに応える若い二人と忠誠心の篤い側近たちを周囲は温かく支えた。
長い在位中、災害なども幾度かあったが、国民に寄り添い国を発展させ続けた賢君として語り継がれている。
額の中のフィリップ国王とオデット王妃は、在位三十年の記念式典の時の二人だ。
肖像画を見て、わたくしもう少し痩せなければいけないわね、と真剣に相談してきたオデット王妃を、今のままが美しいよと、目の前からするりと攫って皆に向かってウィンクする姿がかつてのアレクお祖父さまと重なった。
お読みいただき、本当にありがとうございます。