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愚か者の犠牲者たち(ルイス、チャールズ)

久し振りの投稿です。

ずいぶん間が空いてしまいましたが、もう少しだけ続きます。

よろしくお願いします。

海を一望できる丘の上の斜面に座りスケッチブックに筆を走らせる。

斜面を覆う水色の花畑の中で、かつて無邪気に駆け回っていたであろうあの二人に想いを馳せながら。


◇◇◇

僕たちの母上である側妃のシェリルはバーバラ王太子妃殿下の乳姉妹であり親友でもあり、そして最も忠実な家臣でもある。

その為、側妃となった母上の子である僕と弟のチャールズはバーバラ王太子妃殿下のお子であるジョージ兄上とビアンカ姉上とは幼い頃から兄姉弟の間では蟠りなく過ごしていた。


母上は病によってお耳がほとんど聞こえず、言葉も囁くようにしか話せない。

しかし、人の話す言葉はその唇を読んで驚くほど正確に理解する。


僕が第二王子ルイスとして誕生したのは、第一王女ビアンカ姉上が生まれて半年程経った頃だった。

父上は生まれた僕と母上を片時も離さず、大切に慈しんでくれたそうだ。

それは年子として生まれたチャールズも同じで、僕たち二人は静かな離宮で両親の愛を一身に受けて育っていった。

父上はご自身に生き写しの兄上を早くから次期王太子と公言していた。

幼少のころから打てば響くという表現は兄上のためにあるのではと思うほどの優秀さに父上は大変満足している様子で、母上と僕たち兄弟の住む離宮に留め置いて手ずから選んだ教師たちと共に王太子教育を施していた。

愛する妃とその子供たちに自身の分身のような優秀な後継者を加え、父上にとっても僕たちにとっても離宮での生活は幸せに満ち溢れた幸福な場所だった。


あれは父上の誕生祭での出来事だった。

父上が一生懸命に話しかけるビアンカ姉上に背を向け続けていた。

お優しい父上が姉上を故意に無視しているなど微塵も疑っていなかった僕と兄上が父上に声を掛けると、振り向いた父上は兄上と僕だけに優しい笑顔を向けて両手に僕たち二人を抱き上げ、姉上を残して立ち去ったのだった。その時の悲し気に揺れる姉上の宝石のような瑠璃色の瞳が今でも目に焼き付いている。


『王家の色を持たない王女』


家族の中で唯一姉上を冷遇する父上と、父上の周辺に侍るカッセル侯爵とその一門の貴族たちからそんな心ない言葉が漏れる度、母上はビアンカ姉上にそっと寄り添いその耳を両手で柔らかく塞ぎ、たまたま今代に多いだけの事、王家の色など存在しないのですよと囁いて姉上の指飾りの輝く左手の小指にキスを落とし、それは愛し気に抱きしめていた。

その光景がいつの頃からか弟チャールズの嫉妬の対象となっている事に気づいた母上は、チャールズに特に心を砕いていたが、チャールズの姉上への嫉妬心は和らぐ事がなかった。家族の茶会ではチャールズが母上から離れず、母上に見えないように姉上を睨んでいる様子を見る度、父上はチャールズを窘める事すらせずに、僕と母上とチャールズと兄上を一緒にその腕に囲う様に抱きしめ、姉上に背を向けてその存在を無視し続けていたのだった。

そんな中にあってもビアンカ姉上の明るさは失われることなく、父上をも含めて家族皆に朗らかに接していたため、表向きは仲の良い兄姉弟として交流は続いて行った。


しかし、姉上の朗らかな表情はそのままに、瑠璃色の瞳から父上に向ける親愛の光が消えたことに気付いたのはいつ頃のことだっただろうか。


その頃の僕たちは優雅な時間の流れる離宮の家族団欒で増長した井の中のちっぽけな蛙でしかなかった。

国政を担い分刻みのスケジュールで執務と外交をこなし一筋縄ではいかぬ貴族たちを統べる王太子妃バーバラ様率いる大海たる本宮を知らぬ事が国を担うものとしていかに致命的であるか、その頃の僕は知る由もなかった。



◇◇◇

母様に頬を打たれたと理解するまでにずいぶん時間が掛かったように思う。

優しく優雅で常に微笑みを絶やさない穏やかな母様が、蒼白な顔で翡翠色の瞳に燃えるような怒りを宿して僕を見据えていた。


「バーバラ妃殿下とビアンカ殿下を侮辱する事は王家と父上を侮辱する事と同等です。

そのような不敬はこの母が許しません」


僕の前に立ち上がった母様の声が静まり返った部屋に響き渡り、その場にいた父様とカッセル侯爵と兄上、僕と一緒にビアンカ姉様とバーバラ王太子妃殿下を揶揄した侍女二人が驚きと共に一斉に母様を見上げた。


「このような不心得者に育ててしまった責任を取り、私は領地に下がります。

ルイス、チャールズ、すぐに発つので準備なさい。ガレリア侯爵家からの支援で成り立っているこの離宮の物は一切持ち出す事を許しません。あなたたちはフォルン領にて分を弁えるよう教育しなおします」


そして侍女二人を見下ろして告げた。


「追って解雇と処罰について記した文書をあなた方の御父上宛てに送ります。すぐにこの場から立ち去り直ちに王宮を去るように」


そう言い終わると、むせるような咳に口を覆った母様の白く細い指の間から血が滴り落ちた。

弾かれたように駆け寄った父様を目線だけで制して深く礼を執ると、足早に隣室に下がってしまった。扉の前で父様がどんなに呼びかけようと返事はなく、残されたルイス兄様と僕は呆然と座り込んだまま、蒼白になった侍女たちはカッセル侯爵に連れられて退出して行った。

そうこうしているうちにどこから知らされたのか、お祖父様のフォルン伯爵と伯父様のフォルン小伯爵クロード卿が侍女を引き連れて離宮に到着し、あっという間に母様と僕たちの出立の準備を整えてしまった。

治療と療養のための宿下りと説明するフォルン伯爵を制し、王宮での治療を押し通そうとする父様は、シェリルを逝かせるつもりなのかと詰め寄ったクロード伯父様の言葉で動きを止めた。


その日のうちに兄様と僕はフォルン伯爵家の用意した質素な衣装に着替えさせられ、身一つで馬車に乗せられてフォルン領へ向かった。

道中の母様とは別の馬車の中でフォルン領はガレリア侯爵家から拝領した土地であり、フォルン伯爵家はガレリア侯爵家の寄り子である事を改めて説明され、フォルン領へ入るには一度ガレリア侯爵領を通らなければならないため、必ずガレリア侯爵家へ立ち寄り通行のための挨拶を行うと聞かされた。ガレリア侯爵は隣国の商談相手の出迎えで留守のため、小侯爵のアラン卿が僕たちの饗応に当たるとの事だった。


目の前に広がるガレリア侯爵家のカントリーハウスは、僕たちの住まう離宮よりもはるかに広大で、馬車寄せからエントランスまでの両サイドにずらりと控えた使用人一同の一糸乱れぬ礼を受けてホールに足を踏み入れた僕たちはその壮麗さに息を呑み、そこで領主代理として出迎えたガレリア小侯爵アラン卿の次期侯爵としての威厳に満ちた姿に圧倒された。


母様の容態を心配したアラン卿からは侯爵邸での療養を勧められたが、クロード伯父様は丁寧に辞退し、到着したフォルン伯爵邸はガレリア侯爵邸からはずいぶんと見劣りして見えた。

ガレリア小侯爵のアラン卿と対面してからずっと押し黙ったままの兄様を尻目に、僕は傲慢にもお祖父様とクロード伯父様を前に王子をもてなすには質素に過ぎる屋敷だと不満を口にし、誰も咎めないのを良いことに伯爵邸の皆に酷く不遜な態度を取った。

しかし、その態度を後悔するまでにそう時間はかからなかった。

数日後には自分の立場と現実を突きつけられることになったからだ。


興奮が回復を遅らせるとの事で、僕たちは母様の容態が安定するまで面会は禁じられてしまった。ただでさえ母様が心配で塞いでいるというのに、地味な屋敷の質素な部屋での滞在が不満で仕方なく、ガレリア侯爵邸での滞在を断ったクロード伯父様に腹を立てていた。

しかも朝からそのクロード伯父様のお説教が始まってうんざりだった。


曰く、王家から支給される側妃の予算では離宮の維持は難しく、本来なら側妃の実家、つまりフォルン伯爵家が支えるべきところを、寄親であるガレリア侯爵家が肩代わりしてくれているとの事。体が弱く姉妹同然の乳姉妹を支えたいというバーバラ王太子妃殿下の強い意向だそうだ。

そして、僕たちには王家の用意できる爵位がない事も告げられた。王家が唯一準備できるのは一代限りと宣言しているホーエン公爵位だけだったが、長男のドミニク卿が隣国公爵家へ婿入りの際に領地の大半が持参金として割譲されている事、残りの資産はトビアス閣下が相続する事になっていて、収入源となる領地も資産もない名のみの公爵位だという。

その他に残されるホーエン公爵家の資産としては隣国から嫁いだフリーデリケ公爵夫人の持参金としての隣国の領地と個人資産だが、それらは事業の後継ぎとして指名され既にいくつかの関連事業所を任されて運営しているビアンカ姉上が相続する事が決まっているとの事。

僕たちに残された道は、どこかの貴族家へ婿養子に入るか、フォルン伯爵家の所有する男爵位を相続するかどちらかだと聞かされた。

婿養子に入るには相手側の爵位に合わせた相応の持参金が必要になるが、側妃である母様の資産とフォルン伯爵家の用意できる金額には限りがあり、高位貴族家への婿入りを望むなら、よほど勉強をして周囲の目に留まるほどの実績を積んだうえで先様の当主に望まれなければ難しいだろう事。

もう一つの道としてはフォルン伯爵家の持つ男爵位を継ぐ事だが、男爵領は土地が少なくそれだけでは男爵としての体面を維持する収入が見込めないため、ホーエン公爵家とガレリア侯爵家の展開する出版事業の一部を請け負う事で報酬を得、今はそれが主な収入源になっている。

男爵位を継ぐつもりがあるならば、今から経営に携わりしっかり勉強する必要があると告げられた。ビアンカ姉上はずいぶん幼い頃から伯母上のグレイ公爵夫人から淑女教育を叩きこまれる傍ら、バーバラ王太子妃殿下とトビアス閣下監修の厳しい王族教育受けながらホーエン公爵夫人からは経営学と語学を学んでおり、ホーエン公爵夫人の持つ事業の一部を既に任されているという。


お説教にうんざりしていたところに、ビアンカ姉様と比べてまるでルイス兄様と僕が劣っているような言い草にもう我慢ならなかった。


「父様だっていつも言っているんだ!王家の色も持たない姉様にそんなことが出来る能力があるわけがないじゃないか。ホーエン公爵夫人の資産や事業を引き継ぐのは能力のある者が選ばれるべきだ。ルイス兄様と僕の方が絶対能力が上のはずだし相応しいはずだ。ホーエン公爵夫人が間違っているんだ!」


興奮が抑えられず叫ぶように詰め寄る僕を、クロード伯父様はゆったりと足を組んでじっと見つめていた。そして一呼吸おいて僕の目を見据えながら告げた。


「二日後にビアンカ殿下とホーエン公爵夫妻が出版事業の視察と新規事業の打合せのためにガレリア領に入られる予定だ。その目でビアンカ殿下の能力を確かめると良い」


そして、僕が不遜な態度を取っているフォルン伯爵家の使用人たちは、ガレリア侯爵家一門の人間であり、次子以下であっても子爵家以上の人々だと聞かされた。


だから何だよ、たかが使用人じゃないかと憤然と吐き捨てた僕は、それまで黙っていたルイス兄様の言葉に頭を殴られたような衝撃を受けた。


「つまり、もしも将来男爵位を継いだ場合、彼らは自分よりも上の立場になる人々という事だよ」



◇◇◇

壮麗なガレリア侯爵家本邸と威風堂々たるアラン卿を目の前にし、普段臣下として何気なく接していた上位貴族たちの本拠地での姿を垣間見、彼らを従え統べる事がどういう事かを思い知らされた。


ビアンカ姉上と呼んではいるが、僕とは半年しか生まれが変わらない事もあり王族教育のスタートは同じだった。

教師陣から優秀と太鼓判を押される兄上に憧れ、僕も兄上を目指して教えを請いながら一生懸命努力を重ねていた。

その日は教師たちから報告を受けた父上に褒められ、有頂天で母上に知らせに行こうとしていた廊下で、聞き覚えのある教師たちの話し声に足を止めた。


「ビアンカ殿下は姿形だけでなく能力も御母堂の王太子妃殿下に生き写しのようですな」


「初めに王太子妃殿下から学園に入学までの二年以内に王族教育を終わらせるようにと渡された過酷なカリキュラムには驚愕しましたが、涼しいお顔で熟すばかりか、不意にこちらが舌を巻くほどの質問をなさる。初めての議論ではお答えするのに精いっぱいで冷や汗をかきましたよ」


「私はこちらが緊張する生徒に初めて出会いましたが、なんと遣り甲斐のある事か!」


「あれこそまさに天才の器でしょう。どこまで成長されるか将来が楽しみで仕方がありませんよ」


「そうそう、語学の教師が居ないと聞いて不思議に思っていましたが、ホーエン公爵夫人の手ほどきで既に3ヶ国語は商談や議会に同席できる程に堪能だそうですよ」


「近々ホーエン公爵夫人の事業と領地経営の一部を任されて実践に移ると聞きました。軽々しく言える事ではありませんが、ホーエン公爵位はビアンカ殿下が引き継ぐ事になるのでしょうか」


「ビアンカ殿下が女公爵となって御父上や御兄上を支えて下さるのならば国は安泰でしょう。いやしかし、婿選びは熾烈な争いになりそうですな」


和やかに談笑する声と内容に衝撃のあまりしばらく動く事が出来なかった。

兄上も僕も王族教育は五年かけて行うと聞いていた。学園に入る前に二年、在学中三年をかけて完成するそのカリキュラムは学園の授業やマナーその他の教育を合わせると余裕のあるものではなかったと記憶している。

語学を除いたとしてもそれをたった二年で終わらせるなど。

それ以前に既に3ヶ国語を習得済という事にも衝撃を受けた。

それに、よく思い出してみれば普段のマナーや所作、大人たちに交じっての会話術やダンスなども王太子妃殿下や母上と比べて見劣りすると感じたことはなかった。

とすれば、マナーや教養などの淑女教育もほぼ終わっているという事だ。

それまで有頂天だった僕は一気に冷や水を浴びせられたような気がして、その日の事は誰にも話していない。


明後日、ビアンカ姉上とホーエン公爵夫妻は、隣国の商談相手を迎えに行ったガレリア侯爵と合流し共にガレリア領入りするそうだ。

あの日以来、記憶の奥深くしまい込んでいた感情を激しく揺らす思い出。

言葉だけで理解していた格の違いを、今度は事実として目の前に突き付けられる。

その時、僕はビアンカ姉上に冷静に相対する事が出来るだろうか。


クロード伯父上の話の後は何も考えられず、誰にも会いたくなくて、その日は眠ったふりを通して夕飯も取らずに部屋に引きこもった。




◇◇◇

次の日の朝、昨日のクロード伯父様の話の後体調を崩していたルイス兄様が回復し、ピクニックに誘われた。

フォルン領とガレリア領の境にある湖のほとり、そこにある一番大きな椎の木の下は母様とバーバラ妃殿下との思い出の場所だと何度も聞かされていた。


散歩がてら二人でゆっくりと歩き、木の下で昼食を取ったあとずっと黙って湖を眺めていたルイス兄様にぽつりと聞かれた。


「王族教育は何年かかると聞いてる?」


父様がジョージ兄様とルイス兄様に話していたのを何度も聞いているし、半年ほど前に僕自身の教育が始まった時にも説明を受けたのにと不思議に思いながら答えた。


「五年だろう?」


ルイス兄様は湖を見つめたまま答えた。


「ビアンカ姉上は二年かけずに終わらせてる」


そんなわけないだろうと声を上げてルイス兄様を見ると、やっぱり湖を見つめたまま話し始めた。


「本当だよ。僕と一緒に始まった姉上の王族教育は少し前に終わってる。

明日になればわかるけど、姉上は4ヶ国語も習得済だ。習得だけじゃなくてトビアス閣下に付いて商談や議会で議事録を取る補佐もしてる。議会の議事録のサインを確認したから間違いないよ」


そう言うと、呆然と目を瞠る僕に向き直って聞いた。


「姉上の所作やマナー、会話術が母上や伯母上、ホーエン公爵夫人や王太子妃殿下に比べて見劣りすると感じたことはある?」


そう言われて改めてビアンカ姉様の同席する茶会や晩餐会を思い起こし、僕は首を横に振った。


「そもそも比べる対象が間違ってるんだけど、最高位の貴婦人たちに見劣りしないという事は、淑女教育も完璧だって事なんだよ」


言葉にならない僕をまっすぐに見つめてルイス兄様は続けた。


「僕たちは毎日のように『王家の色』と聞かされて思い込まされているけど、そんなものがない事は歴代王と王族の肖像画を見れば一目瞭然だ。王家に連綿と伝わっているのは色じゃなくてビアンカ姉上の持つ左手小指の形だよ。

もちろん、僕たちが王家の血筋ではないと言っている訳じゃない。お祖母様が王族の血を全く引いていない初めての王妃だから、今後は必ず出現するとは限らないと言われているし、実際父上も僕たちもジョージ兄上だってそうなんだから。

だから、色や形でさも王族ではないように蔑んだり貶めたりするのは間違ってる。

父上や父上の周囲がどんなに貶めようと無視しようとビアンカ姉上の立場は揺るがないし僕たちの立場も変わらない。クロード伯父上の言う通り、きちんと自分がこれからどうしていくか考えなきゃいけない」


ルイス兄様は教育が始まって半年ほど経った頃に偶然ビアンカ姉様が天才だと教師陣が話している会話を聞いてしまい、それから今まで一年間ビアンカ姉様をものすごく意識して懸命に追いつこうと努力したそうだ。


「お陰様で努力した事はすごく役に立ってるし、特に2か国語の習得は自信にもなってるよ。でも、やっぱり天才には敵わないや」


こんな事、父上やカッセル侯爵たちの居る離宮では絶対話せないからねとウインクし、


「あーすっきりした!」


思い切り伸びをしながら大きな声でそう言って、ルイス兄様はほっとしたように笑みをこぼした。


その日の夕食時、ずいぶんすっきりした様子のルイス兄様とまだ複雑な気持ちながら周囲へ傲慢な態度を取らなくなった僕を見てもクロード伯父様は何も言わなかったが、母様の夕食後のお茶の時間だからこの後一緒にどうかと誘われた。


案内されて部屋に入ると、母様はゆったりした部屋着で寝台に坐っていた。

母様の顔を見ると涙が溢れてきて、自然にごめんなさいと口にすることが出来た。母様は泣いている僕とルイス兄様のすっきりした顔を交互に見て手招きし、二人一緒に抱きしめてくれた。

母様のいつもの香りがなんだかとても懐かしい気がした。



ガレリア侯爵に先導され、数か国の商談相手とビアンカ姉様、ホーエン公爵夫妻がガレリア侯爵邸に到着した。家臣筆頭のフォルン伯爵と小伯爵クロード卿は先頭に立ち一行を出迎えた。

王子という立場上、僕たちは応接室で出迎える事になり、各国の商談相手はビアンカ姉様から紹介を受けた。

複数の言葉が飛び交う茶会に僕は圧倒されっぱなしだった。

王太子妃殿下と見紛うばかりの優雅さと気品を湛え、商談相手全ての言語を流暢に話して堂々と渡り合うビアンカ姉様と、王子としての品格を備え、全ての言語ではなくとも使える言語ではビアンカ姉様と遜色なく会話しているルイス兄様の姿に、憧れるなという方が無理だった。


歓迎の茶会が終わり、商談相手を滞在用の別邸へ見送った後、突然ビアンカ姉様が、伯父様!と叫んでアラン卿の背中に飛びついた時には目を疑った。

すかさずホーエン公爵が、アレクお祖父様へのハグが先だろう!と割って入ると、フリーデリケ夫人とフローラ夫人がやれやれと言いながらビアンカ姉様をアラン卿とホーエン公爵からから引きはがしてソファに座らせ、夫人二人で両側を固める。


「だって伯父様の背中がこの世で一番落ち着ける場所なんだもの。

アレクお祖父様のハグはこの世で一番安心できるの」


ビアンカ姉様は目の前に坐ったホーエン公爵の手を取って微笑み、苦笑いのアラン卿には上目使いで肩を竦めてそう言った後、ルイス兄様にぱっと笑顔を向けた。


「それよりもルイス!素晴らしかったわ!たった一年で習得するなんて、本当に努力したのね!」


フリーデリケ夫人は笑顔で大きく頷き、フローラ夫人は立ち上がってルイス兄様の手を取って隣に座らせた。

ホーエン公爵は、フリーデリケ夫人の隣を僕に勧めながら目を細めて話しかけた。


「おや、ハリネズミ君はどこに毛皮を置いてきたのかな?」


僕の姉様へのとげとげしい態度を揶揄して『ハリネズミ君』と呼ばれていたことは知っていたが、面と向かって言われたのは初めてだった。

皆の視線が集まり、ビアンカ姉様には幼い頃以来の柔らかい笑顔を向けられて恥ずかしくて思わず俯いてしまった。


「二人ともいい顔になった。シェリル妃は素晴らしい子供たちを王家に授けてくれた。

御母上にそう感謝を伝えてくれ」


俯いた僕の背中を優しく叩きながらホーエン公爵にかけられた言葉に、僕ははにかみながら頷いた。


ビアンカ姉様が離宮で父上や僕たちにあれほど冷遇されても朗らかさを失わず能力を発揮できたのはこの人たちの支えがあったからなんだと納得した。


離宮の優しく隔絶された世界はそこしか知らなければ甘く心地いい。しかしその甘さには気付かないうちに徐々に蝕まれていく毒が含まれていた。

僕たちは苦い薬を無理やり流し込まれて苦しんだが、今では自滅を回避できた事に感謝しかない。



◇◇◇

王国には三つの公爵家があり、そのどれもが良好な関係を保っている。

王族が継ぎ外交を担うホーエン公爵家、国内一の軍を擁し、国の軍事を担うブレナン公爵家、国の穀倉地帯の三分の一を有し、代々優秀な文官を多く輩出するグレイ公爵家、それぞれが互いに敬意を持って協力し合い国を支えている。

バーバラ王太子妃がまだ婚約したばかりの頃の初めての発案で、国民の識字率を上げる取り組みが発表された時には、三公爵家が先陣を切って各家が支援する多くの教会や修道院、孤児院で、子供から大人まで誰でも受けられる無料の授業を開講し周知した。

特に子供たちが参加しやすい様に授業を受けるとパンや豆が貰えるようにし、その費用も各家が負担していた。

根気のいる地道な活動だったが、読み書きできる者が良い仕事につけて賃金も多く貰える事が徐々に浸透していった事で実を結び、人材が見込める事で新しい事業も増え、雇用が増える事で貧困層が減り始め、それに伴って経済も徐々に発展してきた。

その次には文化的な発展を促進するために出版業を新たに立ち上げ、どの家かが独占することなく分業制を敷いて利益を分散させている。


ホーエン公爵家はガレリア侯爵家の共同出資を受け、フリーデリケ公爵夫人が隣国の印刷技術を持ち込んでその部門を担っているが、昨年からビアンカ姉上が経営を一部任されている。

その中の新規部門として今回計画されているのが絵本と既存の本に挿絵を挟んで再出版する試みだった。新事業はビアンカ姉上の発案で、近隣国の新しい絵画の技法を絵本や挿絵として取り入れようというものだ。

サンプルとして持ち込まれた絵画はどれも素晴らしく、僕は一目で心を奪われてしまった。

一心に眺めていると、気に入って頂けましたかと声を掛けられ、思わず、どのように描くのかどうやったらこんな絵が描けるのかと矢継ぎ早に質問攻めにしてしまった。

あまりにも熱心な様子に、同行した絵師の滞在中、絵を教えて貰えることになった。

絵師のケネス氏は近隣国出身、僕の話せる言葉の国の人だった。

この時ほど言葉を習得していてよかったと思ったことはなかった。

一か月ほどの短い期間だったが、描く事に魅せられた僕は、毎日ケネス氏の元に通い夢中になって学んだ。

別れの時は名残惜しく、手紙での師事を約束してもらい固い握手を交わして見送ったのだった。

新規事業の材料や絵の取引が纏まり調印の運びとなった頃、一足先に王宮に帰っていたビアンカ姉上から、ケネス氏の国の美術アカデミーから入学許可証が送られてきた。

国に帰ったケネス氏が、僕の描いた絵を携えてアカデミーへ推薦してくれたらしい。

王家に入学の打診があった事を聞いたガレリア侯爵家から、学費と留学費用の支援の申し出があり、実弟のホーエン公爵から僕の熱心な様子を聞いたお祖父様の国王陛下が留学の許可を出してくれたそうだ。

天にも昇る気持ちとはこのことだ。

それを聞いた父上は大反対で国を出る事をなかなか許してくれなかったが、母上の粘り強い説得でしぶしぶ了承してくれた。


二か月の船旅の末、辿り着いた留学先で最初に受け取った手紙はお祖父様の国王陛下の訃報と、父上の即位の知らせだった。

遠い留学先では手紙も情報も思うように届かず、二年間の留学の末、帰国して目の当たりにしたのは父王と王太子である兄上のあまりにも身勝手な王命による婚約と兄上のあり得ないほど不誠実な不貞の事実、そしてその身勝手さが招いたビアンカ姉上の親友と仲の良かった従兄の葬送の結婚式だった。













悲しみの結婚式からちょうど三年の今日、王妃殺害未遂の罪で裁かれた元国王だった父上が、幽閉先で病死と発表された。


元国王の廃位に伴い、王弟のホーエン公爵アレクシスが国王として即位した。

ルクセル王国はホーエン王国と名を変え、隣国ダリス公爵家からレイチェル女公爵とドミニク閣下の次男のフィリップを王太子として迎えた。

これより王弟アレクシスの血統が王家を担って行くことになる。

バーバラ王妃は廃妃とならず、アレクシス国王に請われて王太后となり、トビアス閣下と共に新国王夫妻とまだ幼い王太子の補佐として相変わらず辣腕を奮っているそうだ。


チャールズは子に恵まれなかった伯父上のフォルン伯爵に後継者として指名された。

男爵位を賜った母上と共にフォルン領の男爵領で母上を支えながら小伯爵として伯父上について領地経営を学んでいる。


僕はブレナン女大公となったビアンカ姉上の補佐の傍ら、出版事業の絵師としてブレナン領に暮らしている。

ビアンカ姉上は、レナート従兄上とオフィーリア様の命日には必ず二人の墓標の前で長い時間話をする。

そして僕は姉上の話が尽きるまで、海を一望できる丘の上の斜面に座り、スケッチブックに筆を走らせる。

斜面を覆う水色の花畑の中で、かつて無邪気に駆け回っていたであろうあの二人に想いを馳せながら。


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