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悼み酒  作者: 七森香歌
8/9

第八話

 それから、どうやって夕飯を摂り、風呂に入ったのか覚えていない。ただ、夕飯のおでんと一緒に普段は飲まない梅酒をソーダで割って飲んだ記憶だけがうっすらと残っている。

 あの日の夜、全員が寝静まった後、わたしはこっそりと台所の勝手口から家を抜け出した。胃が気持ち悪くて仕方がなかった。家の胃薬を使えば、具合が悪いことが家族に露呈する。それを防ぐためにわたしは秘密裏にコンビニで胃薬を買おうとしていた。夜は静寂がもうあの子がいないという事実を一層際立たせていた。

 コンビニから帰ってくると、わたしは胃薬を飲んだ。ハーブの清涼感が胃の中ですっと広がって、少しだけ胃が楽になった。

 睡眠薬を飲んだ後だったが、まだ眠れそうになかった。わたしは冷蔵庫から梅酒を取り出すと、バレないぎりぎりの量をマグカップに注ぐとポットのお湯で割った。

 ダイニングテーブルに座ると、キャビネットの上のあの子の遺影を眺めながら、わたしはちびちびと梅酒のお湯割りを舐めた。

 つくづく可愛い犬だな。そんなことを思っているとまた自然と泣けてきた。そうして改めてあの子がもうこの世にいないことが悲しかった。魂がどこにいるのか、そもそも存在するのかどうかさえわからないけれど、それでもそこかしこにあの子の気配が残っている分、その事実が堪えた。

 わたしはふいにあの子についての記憶が既に曖昧になりつつあることに気がついて愕然とした。夏までのあの子は一体どんな声で鳴いていた? 夏までのあの子の頭の匂いはどんなだった? リビングとキッチンの境界で不器用に地団駄を踏んでいる様子はありありと思い出せるのに、そんなささやかだけど大切なことが思い出せない。こうしてあの子の仕草一つ一つ、表情の一つ一つすら次第に忘れていってしまうのだろう。そう思うと寂しくて悲しかった。忘却は自己を守るために必要な機能なのだと理解はしていても、あまりに残酷だと思った。

 梅酒を飲み終え、睡眠薬を飲み足すと程よく眠くなってきて、わたしはマグカップをシンクで洗って階上の自分の部屋へと戻った。そして、幻覚や幻聴に襲われながら、一夜を過ごした。一つだけわかるのは、あの子の魂なんていうものが仮にあるのなら、あの晩、わたしのところにあの子は来なかったということだ。きっと父のところにでも行ったのだろう。

 翌朝、十時ごろにどうにか目覚め、バイトに行くという父と半ば入れ違いになるようにわたしは朝食を摂った。そして、その後残薬感がひどく、部屋で十四時ごろまで二度寝をした。薬と酒をちゃんぽんしたのだから当たり前と言えば当たり前のことではある。

 十五時前に家を出ようとしたとき、レオが何やら犬語でわたしに訴えかけてきていた。そういえば、出かけしなに父がレオが何やら勘づいてきているらしいことを告げていた覚えがある。

 その日はわたしは精神安定剤二シートと引き換えに感情を鈍麻させた後、彼氏と乗り換え駅で待ち合わせをして、買い物と食事を済ませて帰宅した。しかし、わたしに日常は戻ってこなかった。

 前述の通りの消化器官の不調にはじまり、幻覚・幻聴、別人格が介在したと思われる直近の記憶の断片化。一人で起きていると、いやでもあの子のことを思い出してしまい、ベッドでも、リビングでも、駅のホームでも、ところ構わず涙が出てきてしまう。そして、肉類が受け付けなくなってしまったので、なるべく中身の入ってない菓子パンを無理やり腹に詰め込んで、あとはふらふらになるまで酒を毎日流し込んだ。すると、ただでさえ痛かった腹が、生理一日目のような激しい痛みを訴えるようになった。


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