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悼み酒  作者: 七森香歌
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第六話

 それから何を話したのかは覚えていない。とりあえず午前中のうちには行くと伝えて一度電話を切り、それから必要なものがあれば教えて欲しいと電話をかけ直したくらいだ。ここでわたしの感情は一度凍った。そして、程なくして同じ用件で父親から電話が来た際にも同じように午前中のうちに行くと伝えた。

 とりあえず買ってしまった朝食をどうにかするべく、土手のベンチを見つけるともそもそとマフィンとパイを食べ始めた。パイは新発売のイチゴとカスタードのもので、どんなものなのか楽しみにしていたのに、パイ生地がパサパサとするだけで味がした覚えがない。

 止まってしまった感情の代わりに、思考だけがぐるぐると動き続けていた。ダークフォーマルは? 黒い靴は持っていかないと実家にはなかったような? ペット葬って何日かかるの? 今日の六曜は? 香典は? 額面や書き方は? 今日って泊まりになるの? そんなことばかりやけに冷静に考えていた。

 家に帰るととりあえず数日は泊まれるように用意をして、八時五十五分に家を出た。駅に着くころには思考すらも空っぽになって、淡々とソシャゲのマルチバトルを回し続けていた。現実逃避にはちょうどよかった。上り列車はダメだけど下りならこの時間でも空いてるんだなあとぼんやりと思ったような記憶がある。

 乗り換え駅のコンビニで血迷ったように香典袋を交通系ICカードで買うと、わたしは電車に乗り込んだ。始発駅から三駅目。電車を降りて階段を降り、駅を出るとわたしは実家への道のりを辿り始めた。

 バス通りを越え、あの子が好きだった公園を越えると、辺りにやけに重苦しい静寂が降りているのを感じた。イアホン越しでも伝わってくる悲しい静けさが痛々しかった。わたしはイアホンをバッグにしまい、実家の門扉を開けるとインターホンを押した。

 妹にドアを開けてもらうと、わたしはブーツを脱いで上り框に荷物と上着を置き、洗面所に手を洗いにいった。そして、リビングへ向かうと、動かなくなってしまったあの子と対面した。

 ブランケットの上、あの子は手足を投げ出して事切れていた。目はわずかに開いていたけれど、どこも見てはいなかった。わたしはあの子の名前を呼びながら、頭に触れた。ぽた、ぽた、と止まっていた感情が動き出して、わたしの眼窩から涙が溢れ出した。

 父が葬儀社に電話を掛けている声が聞こえた。名前や年齢、犬種や体重について父が話すのを聞きながら、わたしははっとして顔を上げた。死亡時の体重、二・七キロ。子犬のころよりもほんの少し重いかといったくらいのその軽さに愕然とした。この子は本当に文字通り、骨と皮になって死んでいったのだ。

 前の週まではもう一キロほどあったのだと母が説明してくれた。最近は全然ご飯を食べなくなってきたのだけれど、今朝は全部食べてくれたのだということ。前の日に動物病院に行ったときには風邪をひいていたこと、そして体温が常より低かったということ。

 あの子は朝、出勤する父を見送った後、母に朝食を食べさせてもらったらしい。食後に水を飲み、母があの子にげっぷをさせるために抱っこした後、死前喘鳴が起きたこと。そして、最後に息を吸い、そのままがくりと力が抜けて動かなくなったということ。

 頭蓋骨がやけに冷たかった。焦げ茶色の肉球には死の冷たさが宿っていた。死後硬直が始まる前に一度弛緩したのか、同じ色の爪が手の間からのぞいていた。

 筋と骨が浮き出た背中もまた、すごく冷たかった。あの子の命がもうここにいないことを認めざるを得なかった。

 体を抱えてみるとすごく軽かった。これが二・七キロか、と思うと切なかった。

 父はあの子を寿命だったのだと言った。腕の中で看取った母にそう思い込ませたかったのだろう。そうでないと、次に壊れてしまうのは母だから。

 確かに十五歳という年齢を考えれば寿命だったのかもしれない。けれど、わたしにはそうは思えなかった。きっとあの子は予後不良で弱っているときに風邪をひき、衰弱死したのだろう。

 わたしたち家族は手術後のあの子にがんばれと声をかけ続けた。けれど、今思えば、それはあの子の苦しみを引き延ばすだけの言葉でしかなかったのかもしれない。人間の自己満足を満たすだけの言葉でしかなかったのかもしれない。もしかしたら、もういいよ、って言ってあげるべきだったのかもしれない。


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