失楽園
アダム言いけるに これぞわが骨の骨 肉の肉 男より取りたるものなれば 以後これを女と呼ぶべし――「創世記」
樫の扉のひらく音がした。
暖房の効いた室内に、冷たい外気が流れ込んでくる。
女はペンを動かす手を止め、後ろを振り返ってみた。
濡れた傘をたたみながら、若い男が入ってくる。ふちなし眼鏡のレンズを白く曇らせ、やわらかそうな前髪を雨でべったりと額に張りつかせている。湿気った街のにおいに混じって、植物系のオーデコロンがほのかに香った。
「……なにか御用かしら?」
訝しんで女が首をかしげると、男は濡れた前髪をかきあげ、はにかんだ笑みを浮かべた。
「あの、ちょっと展示品を見せてもらいたくて」
そこで初めて女は「CLOSED」のプレートを扉にさげておかなかったことに気づいた。
「ごめんなさい。ここはもう閉館するの」
「そうなんですか……」
「あなた、この街のひと?」
女の問いに、男はやや背筋を伸ばして応えた。
「はい、見切坂をのぼったさきにある学生寮に住んでいます」
「じゃあ、航空宇宙大学の学生さんね」
「そうです。今年の春に入学したばかりですけど」
母校の後輩だと分かり、女は少し表情を和らげた。
「この街の住人なら、だいぶまえに避難勧告が出されたのをご存知でしょう?」
「知っています。それでぼくも駅へ向かう途中だったのです」
「なら急がないと、二時間後にはメトロポリス行きの最終列車が出るわ。おそらく、それが避難民を運んでくれる最後の手段となるはずよ」
女は書架のわきに掛けてある古時計に目をやった。時刻は、午後五時三分まえ。昨日も日が暮れるのと同時に攻撃があり、隣町のショッピングモールが瓦礫と死人の山に変わった。
「この辺りにもいつミサイルが飛んでくるか分からないわ。こんな古ぼけた展示品など放っておいて、命が惜しかったらさっさとお行きなさい」
女のたしなめるような口調に首をすくめつつ、それでも男は名残惜しそうに館内を見まわしていた。
「……ぼく、この街へ来てからずっと気になっていたんです。旧世界ミユージアムって、いったいなにが展示されてるんだろうって。いつかゆっくり鑑賞したいと思っていたのですが、レポートの提出に追われつい時を費やしてしまって」
男の視線を追って、女も館内の様子をあらためて見まわした。
そこはミュージアムと呼ぶには、あまりに小さな建物だった。博物館というより、むしろ画廊に近いたたずまいだ。地元の蒐集家が町へ寄贈した、旧世界に関する文献や学術資料などを展示している。もとは靴の工房だったものを改造しているため、室内にはなめし革の甘ったるいような匂いが染みついていた。
「ところで、お姉さんのほうこそ避難しなくても大丈夫なのですか? 国道はすべて封鎖され、車を乗り捨てたひとたちが駅に殺到してるってはなしですけど」
お姉さんと呼ばれたことに苦笑を浮かべつつ、女は皮装のノートブックを手にとって見せた。
「もうすぐ軍のトラックが展示品を運び出しに来るわ。だから目録をつくっているの。ここのミュージアムはあまり有名じゃないけれど、けっこう貴重な文化財も所蔵しているのよ。だから街を放棄したあと敵に略奪されないよう、大きな博物館へ移送するの」
「はあ、なるほど……」
「それとお姉さんじゃなくて、サラよ。サラ・イマヌ。このミュージアムただ一人の学芸員。またの名を館長とも呼ぶわ」
「あ、ごめんなさい、ぼくはレヴィといいます。レヴィ・カルラエ。ヨルダン渓谷にある小さな農村から来ました」
「そうなの。よろしくねレヴィ」
「こちらこそ」
古時計が、五時の時報を打った。
「じゃあレヴィ、この目録を書き終えるのにあと十分ほどかかるから、それまでのあいだなら館内を自由に観てまわってもいいわ」
「本当ですか。ありがとうございます」
「ただし質問はダメよ。展示品のそばに解説文が掲示してあるから、それを読んでちょうだい」
「わかりました」
目を輝かせ館内のディスプレイを端から順番に観てまわるレヴィを横目に、サラはふたたび作業へ取り掛かった。
旧世界に関する遺物というのは、じつはあまり多く存在していない。
それと推測できるものは世界じゅうで発掘されているが、ほとんどが高熱で焼かれ原型をとどめていない。たまに状態の良いものが見つかっても、たいていは線量の高い放射能で汚染されている。よほど大きな資料館でも、旧世界に関する遺物はごくわずかしか展示されていなかった。この町の出身者にたまたま元老院の大物議官がいて、彼が特殊なルートを使って集めたコレクションの一部がここへ流れてきたのだ。
「よし、これで完了」
所蔵品の一覧を書きとめたノートを閉じる。あとは梱包から運搬まで、すべて軍のほうでやってくれる。
「――レヴィ?」
振り返るとレヴィの姿が見えない。サラは事務用イスから腰をあげ、館内の展示スペースを順番に探した。そんなに広い建物ではないのでレヴィの居場所はすぐに分かった。一番奥のブース、もとは靴の在庫を保管するために使っていた窓のない部屋だ。そこで彼は、ある展示品を食い入るように見つめていた。
「それは、アダムの肋骨というのよ」
サラが後ろから声をかけると、レヴィは展示品から目を離さずに言った。
「これ骨なんですか? チタンかなにかの合金で出来ているように見えますけど」
「そう呼ばれているだけで骨ではないわ。金属でもない。なんらかの生体分子とリガンドが複雑に結びついた未知の物質で出来ているの。構造の解明には、まだまだ時間が掛かりそうね」
「へえ、けっこうすごいものなんですね」
「レヴィはそれがずいぶんと気に入ったようね」
「いえ、ここだけ説明文がなかったから、どういうものなのか気になって。それでこれは、いったいなんに使うものなんですか?」
レヴィの問いに、サラは少し戸惑ったような表情を見せた。
「教えてあげてもいいけど……その代わり約束してちょうだい。絶対にそれに触れてはダメよ。このブースはもともと一般には公開してなかったの。そのアダムの肋骨は、とても危険なものなのよ」
「……危険?」
「そう。アダムの肋骨とは――すなわち擬似生命体を造り出すもの。そのための高度なプログラミングがなされた生体モジュール。触れたもののゲノムを読み取り、その情報をもとに周囲の元素から細胞を合成し、肉体として再構築するの」
「コピー人間を、造ってしまうんですか?」
「まあそんなところね。完全なコピーとは言えないけれど」
サラは、レヴィの隣にしゃがんで一緒にケースのなかをのぞき込んだ。
「まず、性別が入れ替わってしまうの。男なら女に、女なら男へと。それから年齢も若返るわ。抗酸化酵素の分泌がもっとも盛んになる時期、つまり二十歳くらいかしらね」
「若返る?」
「ああ、ごめんなさい。アダムの肋骨に関しては一時期、世界じゅうで研究がなされたの。そのなかには自分でコピーの複製元になろうとした研究者もいたわ。みな合成生物学の権威みたいなひとたちよ」
「つまりは、研究に生涯を捧げた老人たちってことですね」
「フフ、そういうこと」
サラが長い髪をかきあげ、耳にかけた。あらわになった形の良い耳が水銀灯の明かりに照らされ、白い貝がらのように見える。レヴィはあわてて視線を逸らした。
「それでその、研究者たちから造られた擬似生命体は、その後どうなったんですか?」
「いないわ」
「え?」
「ひとりも残っていない」
メタリックに輝くバナナ状の物体を見つめながら、サラは言った。
「そもそも成功した事例が少ないの。おそらくなんらかのロックが掛けられているのね。たいていは遺伝子情報を読み取る段階で反応しなくなってしまう。公式な記録に残されているかぎりでは、人体の複製に成功したのは世界でわずか三例だけよ。しかもその三例とも、研究者が間もなく失踪しているわ。造り出された擬似生命体もろともね――」
黙り込むレヴィを横目に、サラが立ちあがった。
「さて、行きましょうか。ぐずぐずしてると列車に乗り遅れるわよ」
薄暗いブースを抜け出し、玄関のあるメインフロアへと戻る。雨足は強まっており、館内BGMの電源を切ると雨だれの音がやけに大きく聞こえはじめた。
「ねえ、よかったら駅まで一緒に行かない? 無人の街ってなんだか怖いわ」
「いいですよ」
「じゃあ荷物を取ってくるから、ちょっとここで待っていて」
サラは愛用の赤い傘をひろげると、おもてへ飛び出した。彼女が暮らすコンドミニアムは、ミュージアムから通りをはさんですぐ斜め向いにある。
回転式のドアから無人となったエントランスへ駆け込む。その途端、ドーンという音がして建物が大きく揺れた。
閃光とともに砕け散ったガラス片がバラバラと降りそそぐ。
衝撃で床に投げ出されたサラは、そのまま一回転して通路わきに積まれていた段ボールの山に激突した。
「ぐうっ」
一瞬なにが起こったのかわからなかった。
突然、巨大な手につかまれ、ちから任せに放り投げられた感覚だ。
やがて遠くのほうからサイレンの音が聞こえはじめると、彼女はようやくなにが起きたのかを理解した。
――ミサイルが落ちた。
あわてて身を起こし、ガラスの抜け落ちた窓から外の様子を確認する。ミュージアムは半壊しており、その向こうに建ちならぶ倉庫群から火の手があがっていた。
「……大変だわ」
どうしようか逡巡したが、荷物はあきらめることにした。旅行カバンにはパスポートや預金通帳などの貴重品も入っているが、いつまたミサイルが飛んでくるかわからないこの状況で、四階にある自分の部屋まで取りに行く勇気はない。
通りへ走り出た。
サイレンの音がさっきより近くなっている。
ミュージアムは壁の一部が崩壊し、屋根がそちら側へ大きく傾いていた。ドアを引くと下端が石畳みの床に当たってガリガリと音を立てる。送電線が切断されたようで、室内は真っ暗だった。
「……レヴィ、だいじょうぶ?」
闇のなかへ呼びかけてみたが返事はない。恐るおそる足を踏み入れる。靴底がガラス片を踏むシャリッという感覚が伝わってくる。
「レヴィ無事なの? 聞こえたら返事をしてちょうだい」
やはり応答はなかった。
しかたなくサラは手探りでいつも仕事をしている事務用デスクまで行くと、引き出しから携帯用のライトを取り出した。
ざっと室内を照らしてみる。想像していたよりひどいありさまだ。そこらじゅうでガラスケースが割れ、展示品が床へ投げ出されている。レヴィの姿は見当たらなかった。危険を避けてどこかへ身を隠しているのかもしれない。
とりあえず展示スペースをひとつずつ見てまわることにした。四つあるうちのひとつは天井が崩落してなかへ入ることができない。それでも瓦礫の隙間からなかを照らし、だれもいないことを確認する。他の部屋にもレヴィの姿は見えなかった。残された場所は、例の立ち入り禁止となっている最奥のブースだけだ。
携帯用ライトの弱々しい明かりを頼りに、せまい廊下を進んでゆく。
最初に見えたのは背中だった。
白磁のようになめらかな肌をした背中が、闇のなかにぼんやりと浮かびあがった。
一瞬なにを見たのかわからなかった。しかしそれが人間の後ろ姿であることに気づいて、サラは思わず声をあげた。
「だれっ?」
人影がゆっくりと振り向く。
衣服を身につけていない若い女だった。
「あなた、ここでなにを……」
言いかけて息を飲んだ。女の顔がどことなくレヴィに似ていたからだ。ハッとして、ブースの端にあるガラスケースへライトを向ける。
――ない。
アダムの肋骨がない。
ガラスが破られ、展示品を固定していたアクリル製の台座が倒されている。
「まさか……そんな」
ライトの明かりはケース周辺の床を逡巡したあと、やがてあきらめたように女の顔を照らし出した。
「あなたはレヴィをもとに造られた擬似生命体。そうなのでしょう?」
言いながら、野獣と遭遇してしまった登山者のように身をこわばらせ、ゆっくりと後じさる。
「彼を、レヴィをどうしたの?」
震える問いに、女は虚ろな、それでいて清く澄んだ目でサラを見返して、まるで童謡の一節でも口ずさむように言った。
「レヴィは禁断の果実を食べてしまった、それで彼は知識を得て、また善悪を知るものとなった」
「食べたってなにを……。ねえ教えて、レヴィは今どこにいるの?」
「ここにはもういない、恐くなって身を隠している、きっと胎児のように丸くなって震えているでしょうね、でもしかたのないこと、だって彼は究極の知識を得てしまったんですもの、この世界の本質を知り、神と呼ばれるものの正体を見てしまった、もう後戻りはできない」
「あなたは、いったい――」
空気を切り裂くような音がしたかと思った次の瞬間、耳をつんざく爆発音とともに部屋が激しく揺れた。衝撃で床が大きく傾き、サラはケースの残骸もろとも床をごろごろと転げ落ち、壁に激突した。
「うう……」
口のなかに鉄くさい味がひろがる。ガラスで切ったのか、肩やひざから血が流れているのが分かる。ギシギシ痛むからだを持ちあげ、サラはお守りのようにずっと握りしめていたライトで周囲を照らした。天井ボードが崩れ落ち、腹腔から飛び出した臓器のようにダクトや配管類が垂れ下がっている。
見れば、突き当たりの壁に大穴が空いて、今しも女がそこから出てゆこうとするところだった。
「待って」
サラは壁を支えになんとか立ちあがると、必死に女を呼び止めた。
「どこへ行くの? レヴィをどこへ連れてゆくつもり?」
逆光で影になった女のシルエットが、静かに振り返った。背後でなにか燃えているのか、パチパチと木材の爆ぜる音がして、舞いあがる火の粉が陽炎に揺らめいている。
「この地を去るわ、ここはもう神によって呪われてしまったから」
「ねえ、ひとつだけ教えて。あなたは、どういう目的で造られたの? 旧世界の人間たちは、あなたにどんな使命を託したの――?」
サラの問いに、女のシルエットはそっと左胸へ手を当てがった。
「見て、わたしには魂がない、コアに書き込まれたプログラム、それがわたしの正体、ただそれだけが、今のわたしをこの世界につなぎ止めている」
その手がスルスルと下腹部へ降りる。
「だけど、わたしには子を生むことができる、そして生まれた子にはちゃんと――魂がある。だからネットワークのサーバーたる主は、絶えずクライアントであるわたしたちへ向けてコマンドを発していた」
アリアを歌いあげるオペラ歌手のように、女は両手を大きく広げ、天を振り仰いだ。
「生めよ、増やせよ、地に満ちよ――。海を、空を、大地を支配せよ――と」
サラのからだに震えが走った。出血により体温を失っているからではない。心そのものが戰慄しているのだ。
「なんてことなの。ゲノムを読み取って造り出したおのれの分身と、さらに交配することによって子孫を残そうだなんて……」
「生命の樹の実を食べそこねたアダムの子孫たちは、永遠の命への憧れをわたしたちに託した。でも人間は、永遠の命ということの意味を、たぶん……履き違えている」
女がふたたび背を向ける。
「だからわたしたちは、この地を去らねばならない」
燃え盛る炎の向こうに女のシルエットが消える刹那、三度目の爆発音が大地を轟かせた。一瞬まえまで女が立っていた場所に火柱があがり、爆風によってサラのからだはブースから弾き出される。
出血と火傷で朦朧となるなか、大型車両のディーゼル・エンジン音が近づいてきて、ミュージアムのまえで止まるのを聞いた。どうやら軍のトラックが到着したようだ。
安堵から意識が途切れようとする瞬間、サラはあたまのなかへ語りかける何者かの声を聞いた。
見よ女 ひと われらの一のごとくなりて知識を得 やがてはその手を伸べて生命の果実をも食い 永遠の命を得ん 依りてわれ 汝らに懐妊の苦痛を増すべし 汝らは永劫 大に苦しみ抜いて子を産まん ひとの業 すなわち斯くありぬ――
駅が大破して数百人が死んだのは、その数分後のことであった。