06:長い夜を迎えるまえに
「お誘い、ありがとうございます」
晴れた日の湖面のような鮮やかな色のドレスを着たオレリアが、流れる動作でお辞儀をする。
「こちらこそ。外はとても寒いですよ、あたたかくなさってください」
吐息は白く色づく。もしかしたら雪が降るかもしれないと、ここへ着くまでの空模様を思い浮かべて言うとすかさず侍女が白いコートを差し出した。
ご両親にも挨拶をすませ、快く送り出されたオレリアの手を取るとランフェルドは自身の馬車へといざなった。
二人乗せてゆっくりと馬たちが走り出す。
奉納祭から数日、ランフェルドはオレリアへ手紙をしたためた。
手を取り合って踊ったあの時間が、素直に名残惜しい。デビュタントでも嫌な思いをした彼女にもっと楽しい日を過ごしてほしいと思ったときには、小さなキャンバスに筆を走らせて白い猫と国花を描いていた。手のひら大のそれを添えてご機嫌伺いの手紙を送ると、よろこびに弾んだ声が聞こえてきそうな返事がすぐに届く。
役立つ場面などないと思っていた趣味も捨てたものではないなと思いながら、添えられていた花を部屋にいけさせ、その香りが消えるまでの間にもう二往復。
この日は一年で最も夜が長いと言われる冬至日である。
国が信仰する女神が、太陽からほとばしる希望の灯火と雨となって降り注ぐ祈りの雫からロッチェという花木を生み出した日とされている。
夜はいつもより豪勢な食事を家族で楽しみ、眠りにつく前に蝋燭の明かりへ祈りを捧げる習わしがある。
そんな日の午前に、ランフェルドはオレリアを観劇へ連れ出すことにした。
「劇場に行ったことは?」
「いいえ、初めてです」
二階にある指定の席へと案内され、ベルベットの椅子へ座るのを手助けする。
目を輝かせて周りを見渡すオレリアは、ランフェルドへ視線を戻すと頬を赤くしてはにかんだ。
「私も久しぶりだから、ちょうどよかった。もうじき始まりますよ」
周りは個室と言ってよい程度に仕切りがあり、舞台はやや遠いながらも初めてでも見やすいだろう。
劇場特有のこもったようなざわめきは、会場の明かりが落とされ、幕が上がるのに合わせてすっかり静かになっていく。オレリアの視線が、舞台に釘付けになるのをランフェルドはそっと見て微笑んだ。
とある伯爵、家督を息子へ譲って十年が経った。妻には先立たれ老い先短い自分を持て余していたとき、隣国のお姫様が略奪の民と呼ばれる移民に攫われた話が町に広まる。
若者は、彼らが中心となって世のため人のために日々働いているのだから、死を待つばかりの自分が役に立てたらいいなと思い立ち、自分に仕えている老いた従者を伴って旅立つところから話が始まった。
よく響く声。滑稽なまでに大袈裟で忙しなく変わる表情がはっきりと見て取れる。
役者たちが登場するたびに拍手が沸き、見せ場になれば指笛が囃し立てた。話が進むのに合わせて会場も次第に熱気を帯びていく。
伯爵たちは、略奪の民の足取りを追うために町の噂話を聞いて回った。
けれども、手がかりを掴むどころか酒場夫婦の痴話喧嘩に巻き込まれたり、身分差に苦しんでいた若者たちの駆け落ちに手を貸すことになったり、ただの磨いた水晶を宝石と偽って売り捌く詐欺師を追いかけたり。
一難去ってまた一難。そんな彼らがようやく略奪の民に追いついたとき、目にしたのは幸せそうに暮らす姫と貧しいながらも手を取り合う移民たちの姿だった。
ああなんだ、噂とは当てにならないなと大笑いした伯爵と従者は、それならば帰ろうと引き返すものの手持ちの資金が尽きるのも時間の問題。細々と食いつなぎながら歩みを進めるも冬も深まりいよいよ……というとき、手を述べたのは行きの道のりで彼らが手を貸していた人々。
春を迎えるより早く無事に二人は家に帰り、心が満ちた伯爵は穏やかな気持ちでゆっくりと目を閉じて劇の幕も下ろされた。
「なんて、すてきな……」
オレリアは歓声と熱気が残る劇場をぐるりと見渡している。
まろい頬が赤く染まっていてランフェルドは思わず目元をやわらげた。
甘く切ない恋愛物語が巷では人気の演目だったが。
きっとオレリアが望まないだろうと選ばなかった。まだ彼女の心には婚約を破棄されて悲しむ気持ちが残っているだろう。
純粋に楽しい時間を過ごしてほしくて、まったく関係のない、どちらかというと喜劇といわれる演目にしたわけだ。果たして気に入るだろうかと一抹の不安もあったのだが。
その心配をよそに、ランフェルドの横でオレリアは夢中で役者たちを目で追い、観客たちと一緒に声を上げて笑った。個室にしたのも正解だろう。
「あの朗々と響く声ところころ変わる表情に、快活な笑い声」
まだ余韻を味わっているオレリアは、うっとりしたように幕で覆われた部隊を見つめた。
「……家督を子供へ相続したあとのことなんて、考えたこともありませんでした」
基本的には、当主が息を引き取ると同時にその子供が家督を継ぐ。
この芝居のように年取ったところで譲る場合もあるが、一般的とされるのは前者だろう。
家のことに一生懸命な彼女らしい感想だ。
役者たちの演技を思い出しては褒めたたえている様子は、本当に楽しんでくれたのだと疑いようもなくそれがランフェルドはうれしく思う。こういう顔がオレリアには似合う。
「誰が一番印象に残っていますか」
尋ねると途端に眉が下がる。
迷った素振りで言葉を詰まらせてから、オレリアは自分の手をぎゅっと握った。
「誰もが素敵で、困ってしまいます。でも、やっぱり……伯爵が」
「なるほど」
初老の男の、力強く生き生きとした様子はランフェルドの頭でも鮮明で。
初めの喧嘩に巻き込まれたときの顔が、焚火を囲んで思い出話をしたあたたかな声が、と弾むように言葉が続いてくるのを聞いているとこちらまで楽しくなってくる。誘ってよかった。
それなら、もう少しこのご令嬢を喜ばせても悪くないだろう。むしろ、そうしてあげたい。
ランフェルドは逡巡を挟んでひとりうなずく。
「オレリア、少しだけ時間をいただいてもよろしいですか? ここで待つのが退屈なら、劇場内をぐるりと回っていてもかまいませんよ」
「はい」
手を差し出て、椅子から立たせる。
ゆっくりと歩いて席から通路へ出ると、今まで控えていたオレリアの侍女へ彼女を預け、後ほど入り口でと別れた。
用意させていた焼き菓子は先に従者が届けているはずだが、役者たちの口に合うだろうか。思いながらランフェルドは足取りに迷いなどなく、まっすぐ彼らの控え室へ向かった。
手には、演目のあらすじの書かれた広報紙。
ツタの描かれた枠のなかに飾り文字が躍っていて、登場人物の似顔絵なども添えられたものだ。そこに、伯爵役を演じた紳士にひと言添えてもらおうとランフェルドは足を向けたのである。
役者たちは国王陛下の甥が直に訪問したことにどよめき、それでも喜んで迎え入れ、先に届けられた差し入れへの礼を口々に述べた。
伯爵役の彼は、ランフェルドからの申し出に声を上ずらせて返事をし、かちこちに強張らせた手で自身の似顔絵にサインを添える。それにまた礼を言うと、あの朗々とした声を震わせて倍以上の礼の言葉が返ってきた。
次も期待している、と部屋を後にすると閉じた扉の向こうでわっと人々の声が弾けるのが聞こえた。自分の訪問でこれだけ喜んでくれるのなら、直接来た甲斐があるというもの。
今度はオレリアもつれてきてもよいかもしれないな、と思いながらランフェルドは劇場の入り口へと急いだ。
舞台の近くまで行ってみますと笑ったオレリアは、見て回ることができただろうか。
まだ人が多い会場では、演目の感想を言い合う声が聞こえたり居合わせた貴族たちが挨拶を交わしていたりと賑やかな雰囲気が絶えない。
人々の向こうにオレリアが立っているのが見えて、ランフェルドの足はさらに急いだ。
しかし、それよりも早く彼女に声をかける姿が目に入り、思わず眉根が寄ってしまう。あれは、見間違うはずがない。マイセル・デイズリーだ。
両家で話し合い、もうふたりが顔を合わせることがないように図られたのは奉納祭より前だと聞いている。もしやむを得ない場合でも、ロッシュ家から声がかけられなければデイズリー家は接触しない、とも。
それをやすやすと侵すとは。
護衛や侍女がオレリアを彼から離すが、オレリアがため息をついてそれを制す。遠目に見えるそれにランフェルドは足が止まりそうになった。オレリアは、彼と話したいのだろうか。
しかし、すぐに思い直した。マイセル・デイズリーとは距離を保ったまま、オレリアは悠然と微笑んでいたのだ。
「こんなところで、いかがなさったの? いえ、伺いたいわけではなく。あなた様とはもうお話できる立場にありませんが」
「それはわかっている。ただ、僕はきみのことを大事に思うことに変わりないんだ」
「……それで、どうなさったのです?」
もう話す声も聞こえる距離。
ランフェルドは、こちらを窺う視線を向けた護衛たちにうなずく。無理に間に入らず、オレリアが話を打ち切らないのならそれに従おう。
「その、今はランフェルド様と親しいと聞いて。いろいろな噂が絶えない方だ、あの方はきみにふさわしくない。きみが傷ついたりしないか心配で呼びとめてしまった」
「……噂とは?」
「お立場が特殊な方なのは知っているだろう? 陛下の護衛を務めているからといって野心がないわけではないのだから、きみに近づいたのもロッシュ家の治める公爵領を掌握して力をつける目的だろうと」
まったく、なんてご親切な気配りだろう。
ランフェルドがいることに気付いていないのか、気付いていてあえて忠告しているのか。どちらにしても、周りの見えないマイセル・デイズリーらしくて感心してしまう。
オレリアがめずらしく呆れの色を濃くした顔で相手をじっと見つめた。
「マイセル様は、ランフェルド様とお話になったことがありますか?」
「いや、何度かご挨拶をしたくらいだったと記憶している」
「それなのに、噂だけで判断なさるのですね」
はっとしたようにマイセル・デイズリーが息をのむ。
「いや、僕はただきみのことが心配で――」
「いいえ、この先はフェルド様に心配していただくのでお気遣い無用です」
慌てて言葉を足す彼に、もうオレリアは取り合わなかった。
完璧なまでにうつくしく微笑んで、優雅なお辞儀をすることですべて終いとする。
「マイセル様のご結婚をお祝いする日を楽しみにしておりますわ」
あなたに未練はありません、と言外に述べた彼女の言葉に相手は傷付いた目をしたけれど。
それは明らかに彼に許されるものではない。
もういい加減潮時だ。ランフェルドは、見事な対応をしてみせたオレリアにそっと寄り添った。
「レディ・オレリア、そろそろ行きましょう。お屋敷までお送りしますよ」
「ありがとうございます」
「……今宵がレディの姿を見られた最後の時間となることをお好きなだけ悔やむとよろしい。では、失礼」
自分でも驚くほどの低い声で立ち尽くす男へ言葉を残し、白くなっている顔など一瞥もせずにオレリアの手を取る。
ああ、まったく腹立たしい。
頬を薔薇色に染めて夜空のように輝いていた瞳が、もう曇ってしまっている。
ランフェルドは内心でため息をついた。オレリアが驚いてしまうような悪態も噛み殺して、脳裏から不快な男のことは追い出す。ロッシュ家にもデイズリー家にも、このことは報告が必要と判断し従者のひとりを先に発たせる。
おそらくこれで、社交界の居場所がなくなるに等しい。
オレリアが望まない限りは以後の接触を徹底的に阻止すると胸に誓った。
「彼と話すような事態となってしまい申し訳ありません」
振り返ることなく馬車へと彼女を導くと、扉が閉められざわめきから切り離される。
謝罪の言葉を改めて伝えるランフェルドへ、オレリアは驚いたように目を丸くした。彼女が口を開く前に首を振って先を続ける。
「完全に私の落ち度です。ただの一時でもあなたの傍を離れるべきではなかった。初めから終わりまで、楽しい時間を過ごしていただきたかったのに」
役者たちとのやり取りを内緒にしたのは、彼女を驚かせたかったから。しかし、それは男の矜持が満たされるだけのこと。
一緒に役者たちを訪ねるほうがオレリアだって喜んだかもしれない。
余計なことで水を差されるくらいなら、まっすぐ家に送るほうがどれほどよかっただろう。
眉を寄せたランフェルドへ、オレリアは驚いたことにやわらかに首を振って唇を綻ばせる。
「それなら簡単なことですよ。フェルド様がもう少しわたしとお話してくだされば、すぐに素敵な時間になります」
「レディ・オレリア」
吐息のような声が零れてしまった。
このあたたかな言葉に、簡単にランフェルドの胸が動かされる。
不快な男にこだわっているのは案外自分のほうかもしれない。
そんな余計なことに気を取られるくらいなら、今目の前に腰かけている淑女と向き合う時間を長くとることのほうが重要だ。ふっと息を吐く。気遣ってくれる彼女を自分も大事にしたいと心から思った。
だから、ランフェルドは覚悟を決めて口を開く。
「あなたの言葉に勇気をもらうことにします。――少しと言わず、これからの時間を私と共に過ごしていただけませんか」
オレリアは目を丸くして、言葉を失ったように押し黙った。
きゅっと手を胸の前で握りしめ、困惑した目でランフェルドを見つめる。言葉を足すことも急かすこともせず、ランフェルドは待った。
「……お気持ちは、大変うれしく思います」
迷った末に、オレリアは視線を外して首を振る。
「ですが、人の心は変わるのだとわたしは知っています」
「確かにそうです。変わらない保証などありません。ただし、私と彼は違う人間ですよ」
軽率に返事をしないところもまたオレリアらしいなと、思いながら今度はランフェルドが言葉を足した。
嫌がられないのならば、引き下がるつもりなど微塵も持ち合わせていない。
「たとえ状況が同じだったとしても、必ずしも結末が同じとは限りません。私たちはお芝居の役者ではないのですから。――だから、レディ。これから先、楽しいときも悲しいときもあなたの隣にいさせてほしいのですが」
「……フェルド様」
「来年の生誕祭も奉納祭も、花祭りも、あなたの誕生日も。私は、あなたと一緒にいい思い出だと笑えるような日にしたい」
この気持ちが、うまく伝わるだろうか。
顔に出さずともらしくもなく緊張はしている。
そんなランフェルドへ、オレリアはきゅっと自分の手を握った。そして、あの花が咲いた笑みを浮かべる。
「それでしたら、もう。今日のことを明日も明後日も、ずっと先でもわたしは何度でも思い出します」
「オレリア」
「わたしだって、フェルド様に笑っていてほしいです。……一緒にお庭をお散歩してくださいます?」
「もちろん。あなたが靴を脱いで歩きたくなったら、私はベンチにハンカチを用意しますよ」
「それならわたしは、いつ落ち込んでもいいようにダンスの練習をしておきますね」
ああ、とため息がこぼれた。
安堵より勝るのは、彼女が惜しみなく向けてくれるあたたかな思いへのうれしさ。染み入るように胸を満たして、ランフェルドのなかにふわりふわりと積もっていく。
与えてくれるより多く返したい。
いつでも恥じない姿でありたいと改めて強く思う。
壊さないよう、大切に、膝の上で握られたオレリアの手にそっと触れ、ランフェルドは静かに唇を落とした。