05:ほのかに照らされた足元
陛下が御子に恵まれず、ようやく誕生したのが王女だったのは十五年前のこと。
甥にあたるランフェルドにも王位継承権があり、当人たちの意思とは関係ないところで大人たちが派閥を組んで勢力争いをしているのも、いつものことである。
周りが放っておいてはくれないから、弟にも家を継ぐよう教育が施され自分が王家へ入る体制だけは整えられてしまった。
少しでも抵抗をと、まだ少年と呼ばれる頃に騎士団へと身を置き政からは遠ざかるようにしたが、立場上まったく避けることは叶わず剣の腕を磨きながら政を学び、年を重ねて近衛になると護衛を兼ねて伯父を補佐する日々を過ごした。
思惑のにじんだ婚約話を断り続け、策略に掛からぬよう情報を集め、いくらでも湧いてくる縁談話はすべて断った。
万が一にも男児が生まれた場合にさらに物事がややこしくなるのが目に見えているため、結婚などする気は微塵もない。
伯父にはとても可愛がってもらい、尊敬もしている。若くして即位し、前国王の影響が強い家臣たちをまとめることに忙しい日々だ。余計なことでわずらわせたくなかった。まして自分が火種になるなどごめんだ。
オレリアのことは、話だけならとてもよく聞いていた。彼女の父親が宰相であることに加え、伯父が近衛隊にいたために耳にすることが多かったのだ。
姪がかわいくて仕方がないその人は、伯爵家の跡取りにもかかわらず騎士団で頭角を現し近衛隊副隊長にまで上り詰めた異例の経歴を持っている。
今は国境の領地をおさめているが、王都に訪れた際に陛下へご挨拶をするのが常だ。今回はオレリアのデビュタントに合わせて訪れたと言っていたが、おそらくは彼女の破局を聞いてというのが正しいだろう。
「フェルド、苦労をかけたな」
家臣たちとの会議が終わったあとのこと。
以前から陛下が進めている後継についての案件がようやく進展をみせた。全員が退室し、陛下はゆったりと椅子へ腰かける。
護衛としてずっと控えていたランフェルドを手招きして傍に呼んだ。そして、次いで向けられたのは労いの言葉。
「ようやく整った。男でなければ国を治められないなどと、これからは言わせることを許さぬ。だから、もう余のために気をつかうな」
「気をつかってなどおりませんよ」
軽い口調で返せば、陛下はひじ掛けにもたれるようにして腕をついた。
少しだけ唇が尖っている。
「それはそれで寂しいな。いや、かわいい甥っ子の生意気だから歓迎すべきか」
「……伯父上、からかわないでください」
「なに、たまには水入らずで話したいのにお前は賢くてすぐに家臣になってしまうからな。可愛がらせてくれてもよいではないか」
穏やかな声が拗ねたかと思えば、一拍を置いて空気が引き締まったのを感じた。
自分とよく似た色のヘーゼルの瞳が、まっすぐとランフェルドへと向けられている。
自然と姿勢を正した。
「国を治めることに性別は関係がない。王女が誰よりも優れているのかと言われれば、それはまた違うが。女児だから素質がないと切り捨てるのもまた違う。王家の血が大事だということに揺るぎがないのなら、血を引くものが治められるよう整えることが先立つ者の務めだ」
もしかしたら陛下は、王家にこだわることなく国を治める体制が望みだったのかもしれないと、このときランフェルドは初めて気づいた。
けれどもそれは今の時点ではかなりの暴挙となるだろう。
陛下も自身ですべてを変えられるとは思わなかったからこそ、まずは性別のくくりをなくすことへ注力したわけだ。おそらく王女の意見はもちろん周りの人々からの話にも耳を傾け、反対する家臣たちには回数を重ねて話し合いを設けたからこそ説得まで漕ぎつけた。
そういった柔軟な考えを国王でありながら持ち続け、自ら行動し、決断も下せる。そんな伯父をランフェルドは尊敬していて、今改めてその気持ちが強くなった。
陛下は黙ったまま背筋を伸ばすランフェルドへ、やわらかな目を向けてさらに続ける。
「生まれたときから見ている。フェルドは王になりたいわけではないのだろう。――お前の意志で結婚しないのならこのまま娘が王位についても支えてほしいし、どこかの家に入るとしてもお前たちの暮らしがよいものであるよう王家を見張るのも支えることになる。だから、好きにしてよい。それが余の望みだ」
言葉のとおり王になるつもりは微塵もない。王女の即位を後押しするよう動いてきたことも事実。
それでもこうしてはっきりともう大丈夫だと告げられると、手放しで喜ぶことができなかった。未練や嫉妬ではない。ただただ、本当に許されるのだろうかと躊躇うような気持ちが残る。
自分が逃れたことで責務があの王女に押し付けられてしまうのは紛れもない事実だ。
そんなランフェルドの考えなど、初めから見透かしていたのかもしれない。
陛下はまっすぐとこちらを見つめて微笑んだ。
「見くびるな。我が娘は王座を前に泣き言をこぼすほど柔ではない」
ランフェルドは、その言葉を不思議な気持ちで聞いていた。
そこで護衛の交代時間となり、隊員の入室と共にその場を辞す。扉が閉まるまでの隙間から、伯父が軽やかに手を振って見送っているのが見えた。
頭がぼんやりしたまま回廊を進むと、足が向いたのは城の中程にある庭園。
秋薔薇が見頃を迎えるこの時期に、王妃主催の奉納祭が催される。貴族の子供がデビュタントとして参加するのが恒例であるが、今日はその日であり陛下からは護衛ではなくランフェルド・レイヴァンとして参加するよう言われてしまった。
庭園に来るのは久しぶりだ。花の盛りとはいえ春ほどではないがひっそりと咲き誇っている薔薇たちに視線を向けると、ため息をついて肩から力を抜く。緑の中を歩いてみるのもよいかもしれない。そうすれば、この取り留めのない思考もいくらかましになるのではないか。
このところ、花を眺める時間なんてなかったのだから、たまにはよいかもしれない。
そう思って降り立った庭園で、あてもなく足を進めて辿り着いたのは生垣の迷路であり、迎えてくれたのは一番奥にある耳に心地よい噴水の水音。ここは、子供のころから今の今までちっとも変っていないように思える。
ぼんやりと水面の波紋を眺めて、しばし時が経つのを忘れてしまったころ。響いた軽やかな足音と猫の鳴き声にランフェルドは顔を上げた。
それが、オレリア・ロッシュ嬢との出会いである。
背筋を伸ばして凛とした姿。
おっとりとした雰囲気をまとっているのに、視野が広く自分の考えを常に持っているようなしなやかさがある。それは彼女の父親によく似ているように思え、勝手に親しみを抱いてしまう。
元々話題によくのぼる相手だ。昔からの知り合いのような気さえしているけれど、彼女はこちらのことなどそれほど知らないのだから不思議な心地がした。
その彼女が垣間見せる無邪気な仕草と、まっすぐな瞳と、花が咲いたような笑み。
婚約を解消した経緯も聞き及んでいるが、動揺も悲しみも見せることなく、悠然と構えている彼女にとってこの日が楽しめる夜であったらいい。
そう思って遠目から華やかにフロアで踊る姿を眺めながら、寄ってくる貴族たちと挨拶を交わし、適当にあしらい、伯父と王妃にもきちんと参加していると伝えるために顔を見せて。
「フェルド、まだ踊っていないだろう」
「陛下の気のせいでは」
「ここにいてはいつもと変わらないではないか」
「そんなことはありません。きちんと騎士服を脱いで、首はわずらわしいタイに絞められ、胸元ではハンカチが来るはずのない出番を待っていますから」
踊る人々へ視線を向けたまま肩をすくめると、陛下の横で王妃が顔を背けて笑いを誤魔化した。陛下がわずかに唇をとがらせる。
「……そうやって余をいじめるでない。着飾るのはそんなに嫌いだったか?」
「慣れていないせいもありますが、どうにも肩がこってしまいますね」
「それは同感だ。だが、見せつけることも大事だぞ」
「ええ、わかっております」
存在感を出すことは大事だ。
装いや発する言葉から指先までの仕草さえも人々の目が付き纏う。だからこそ付け入る隙を与えぬよう完璧であるべきだとランフェルドは思っている。そして、あえてその完璧さを見せびらかすことで牽制に繋がるのである。
継承権を破棄するにしても、陛下との関係が消えるわけではない。周りに侮られるわけにはいかないのだから。
「踊りたがる相手も多いだろうに」
「……自分で選べますのでご心配なく」
「とにかく、だ。余のことはお前の上司に任せて――」
陛下が背後の隊長をちらりと見たとき、会場の空気がざわめいて咄嗟に視線が中心へ走る。
朝焼けのようなやわらかであたたかみのあるドレスを纏ったレディ・オレリアの姿が目に入り、その向こうには最近噂になっている伯爵令嬢が緊張した面持ちで祈るように手を握りしめていた。
「オレリアは、本当に難儀だなあ」
憂うように呟いた声に無言で同意してしまう。
落ち着き払って受け答えをしている様子に感心もするが、我慢ばかりしているだろう彼女が気掛かりだった。
まだ若く今宵デビューしたばかり。それにもかかわらず、彼女はすでに家を背負う覚悟を持っている淑女だった。
そんな彼女の笑みの向こうに悲しみの色が見えるようで胸がざわつく。庭園で恥ずかしそうに、それでも大事そうに靴を抱えて微笑んだ彼女とは程遠いものばかり見かける。
「少し席を外します」
もしかしたら、ハンカチの出番があるかもしれない。ただし、彼女のことだから涙を拭う役割ではないかもしれないが。
素早く髪を撫でつけ胸元を整えてから踵を返すと、背中の向こうで伯父の笑う気配がした。
デイズリー家の次男は、正直者だが愚かでもある。
公爵家という立場であれば第一に家のことを優先し己を律するべきところ。しかしながら気持ちが優先されることは、まあ人間である。わからなくもない。
ただし、王家と縁の深いロッシュ家が相手であり、オレリアの母親が王家から功績を認められている家の出となれば、縁談を解消することで痛手となるのはまぎれもなくデイズリー家だ。
デイズリー家の現当主はロッシュ家とのつながりが最悪の形で立ち消えたことを重く受け止めているため、子息を必ずコーエン家へ婿養子に出し、その後の支援は行わない方針とのこと。
伯爵令嬢との話が進み彼がコーエン家へ入ったとき、状況の厳しさを目の当たりにするはず。これまでの立ち振る舞いを見知っている周りからの風当たりはきつく、それでも近づいてくる者などはろくでもない考えを持っていることが多いだろう。
加えて、コーエン家の経済状況は悪化する一方。その状況から立て直せる手腕や人脈が彼にあるのかは疑問だ。しかし、まさか状況をわかっていないわけでもあるまい。それでもあえて、彼はオレリアではなく彼女の手を取った。
すべてを投げ打ってまで心酔できるほど惚れた相手がいるということは羨むべきなのか。ランフェルドはため息をついた。自分には理解はできても共感できないものだ。
そしてこんなことを考えても仕方のないことであり、今更事実は変わらない。
彼がオレリアと破断しなければ、今の関係にもならなかったことを思えば礼を言わねばならないのかもしれないが。それを抜きにしても、せっかくの誕生日を台無しにすることもなかっただろうに。
そしてデビュタントとなる舞踏会では、彼の想い人である伯爵令嬢が余計な言動でつまらない夜に変えていってしまう。
表情を崩さず終始穏やかに対峙したオレリアだが、そんな彼女だからこそ楽しんでほしい時間だ。少しだけ自分が手伝えないだろうか。そう思って彼女の背中を追ったはずなのに。
あの涙を隠さず動じることなく浮かべた微笑み。
濡れた瞳は夜空と窓からの明かりで瑞々しく、赤らめた顔を彩っていた。まっすぐと向けられる視線に、美しく佇む姿勢。その姿にランフェルドは胸を打たれた。
こちらが心配して顔を見に行ったはずなのに、元気がないと逆に心配されてしまったのだから、まったく。正当な出番がきたハンカチも、ここでは無粋でしかないようだ。
あんなふうにやわらかな気遣いを、てらいなく向けられて思わず言葉に詰まった。同時にあたたかくなるのは胸の奥。
星空を背にして頬を緩めた笑みが思い起こされて、ランフェルドはもう一度あの顔が見たいと思った。