04:星たちのダンス
しっとりとした夜の空気はひんやりとしていたけれど、火照った体を冷ますのにはちょうどよいかもしれない。
ふんだんに明かりの灯された広間から切り離されたみたいに誰もいないバルコニーは静かで、ガラス越しに華やぎのひとときを見守っているようだった。
濃紺の夜空には、月と星が散りばめられている。
取り巻いていたざわめきや視線が遠くなった気がして、わたしはふうと息を吐いた。
聞こえていた曲調が変わって、次の曲が始まったことを知りそっと窓を振り返る。
軽快な旋律に胸が軽くなるかもしれない。そう思ったはずなのに。
窓越しにちらりと、アイシャ様と手を取り合って踊る姿が見えてしまう。ああ、振り向くんじゃなかった。
「……マイセル様は誠実でいらっしゃるけど、身勝手だわ」
周りの人の視線を気にせず楽しげな様子に胃が重たくなって、またため息が増えてしまう。
わたしのことが大切だと言っていたけれど、心に秘めた思いを伝えることで、この関係が解消されてわたしが傷つくことは省みてくださらない。公爵家である両家の立場をわかっていないはずがないのに、それもどうでもよくなるほど自分の気持ちを優先できてしまうのか。
幼い頃から一緒に大人になってきた彼のことが好きだった。可愛らしいと思っていたのにいつの間にか頼もしくなって、厳しいお稽古やお勉強も励まし合いながらここまできた。
ふたりで他愛のない会話をしながらお茶をするのはほっとしたし、たまにお出かけできるときは胸が弾んで前の日は楽しみで眠れなかった。
マイセル様は、お兄様のように立派な紳士になって、わたしと結婚してロッシュ家を、ひいては王家をお支えしようと。そうおっしゃってくださっていたのに。
わたしには妹たちしかいないから、早くから婚約が決まっていた。そのお相手がマイセル様でわたしはうれしかったので、お父様たちに何度か気持ちを尋ねられても迷わずうなずいたことで始まった関係だったのだけど。
それが全部なくなってしまった。
視界がぼやけてしまうのを必死で止めようとする。
ずっと楽しみにしていたはずのデビュタント。誕生日を迎えるまでは、待ち遠しくてたまらなかった。
それがこんな気持ちで迎えることになって。それでも、沈んでいた気持ちはランフェルド様のやさしさに慰められたと思ったのに。
ダンスへ誘ってくださる方々からの言葉やアイシャ様との対峙で気持ちが高ぶってしまったのかもしれない。そして今、おふたりの楽しげな様子が胸に刺さる。
未練があるわけではないと思う。だって、マイセル様との関係を戻したいとは思わないから。
それなのにどうして、こんなにうじうじしてしまうのだろう。
こんなところで感傷に浸って泣くなんて、したくないのに。
「レディ・オレリア」
落ち着いた穏やかな声色に呼ばれて、わたしは慌てて姿勢を正して振り返る。
さっきまで遠目にしか見ることができなかったお姿がそこにあって、思わず顔が綻んでしまった。
入り口にはお父様がいるはずだから、ランフェルド様とお話しすることは承知してくださったのだろう。
「どうしてこんな端っこにいらっしゃるのかな。フロアにはあなたと踊りたい者がたくさんいるはずだけど、隠れていてよろしいのですか」
とんとんと胸をノックするような穏やかな声。
ランフェルド様がここへいらっしゃるとは思ってもいなかったから、驚いたのとうれしいのとで嘘みたいにさっきまでの重たい気持ちがしぼんでいく。
今のわたしの目は赤くなっているかもしれない。落ち込んだことも自分が情けないことも事実だから、少しでもよく見えるように胸を張った。
「こんばんは。よろしければ、オレリアとお呼びください」
「では、私のこともフェルドと」
フェルド様はそれ以上なにもおっしゃらなかった。
もしかしたら、暗いから気付かれていないかもしれない。わたしは気を付けながら肩越しに窓の向こうへ視線を向ける。
「ダンスは少し休憩にしました。……お父様はお元気ですか、お母様によく似ていますね、妹さんたちは一緒ではないのですか? なんてことばかりで皆さんわたしにご用事はないようですし」
すぐに月夜へ視線を戻して、ほんの少しだけ肩を竦めてみせた。
「わたしのことかと思えば、この度は残念でしたねとか次のお相手はお決まりではないのですかとか、楽しくないお話ばかり」
「それはいけないな。おそらく、あなたに近づきたいのに言葉を間違えているのでしょう」
「……わたしは、嫌な話題で慰めようとなさるのではなくて、わたしが裸足で走っても笑ってくださるような方がいいです」
唇が尖って、拗ねたような声になってしまったけれど。
驚いたことにフェルド様は声を上げてお笑いになった。
「それはそれは。確かにその辺の気取った者たちでは務まらないかもしれませんね」
「フェルド様は、その、少しお元気がないようにお見えしましたが。よろしいのですか」
本当は、今夜参加することに気乗りしていなかったのではないかと。わたしは庭園で見かけた色のない表情を思い浮かべる。
見間違いかと思うくらい一瞬のことだったけれど、もしも間違っていなかったのなら、このやさしい紳士に無理などしてほしくなかった。
「……それなら、あなたと一緒に元気になろうかな。私はあなたに認めてもらえるほど寛容ではないかもしれないが、よろしければレディ。踊っていただけませんか?」
「よろこんで」
うれしい! もうフェルド様とはご挨拶だってできないと思っていた。嫌なことばかりだったけれど、こんなことがあるなんて。
思わず取り繕うことも忘れて表情をゆるめてしまったわたしに、フェルド様は気を悪くしたご様子もなく流れる動作で手を取った。バルコニーを出て、驚いたようにこちらを振り返る人々を避けて、ちょうどよく空いていた踊る人たちの間に導いてくださる。
お辞儀をし合って、手を重ねた。
軽快な調べに乗って足を踏み出せば、次のステップへフェルド様がいざなう。少しの不安もなかった。いつもテンポがずれてしまうところも、びっくりするくらい上手に足が動く。
いつも、間違えないように必死になるばかりだったのに、気を張り詰めなくてもわたしの靴はどんどん正解のステップを踏んでいる。踊れるということが、こんなに楽しいとは思わなかった。
少し視線を上に向けると、わたしをまっすぐと見下ろしていたフェルド様と目が合う。
思いの外、近くて。
頬が赤くなってしまった。
「もう一曲いかがです?」
「ぜひ」
途中からだったこともあり曲が最後の音を奏でたとき、胸に残ったのは落胆。あっという間だった。
上質な上着にのせていた手を、わたしが離すまえにフェルド様がこちらを覗き込んだ。そして、やはり落ち着きのある声でお誘いくださる。
わたしは迷うことなくうなずいた。
流れ始めた曲に合わせて、ふわりとドレスが広がる。お気に入りの靴と一緒にわたしの胸も弾む。
しっかり顔を上げると、ヘーゼルの瞳がそこにあって。
明かりを受けて澄んだ色の目も、栗色の髪も、お似合いの衣装も、フェルド様の周りはきらきら輝いてまぶしい。
思わずため息がこぼれて、わたしはただただ目に焼き付けようと見つめるだけ。
穏やかにやさしく、心地よい旋律へと導かれるのだった。