03:お気に入りの靴にため息
従者の先導で迷路を抜けて、控室へと戻る道をたどる。
ぼんやりと暗くなった回廊には明かりが灯されている。すっかり日が落ちるのが早くなった。
「フェルド様とお話されたのは初めてだったかな」
顔を覗き込んできたお父様にうなずく。
「はい。とってもお優しい方ですね」
「そうだね。少し誤解されやすい方だが、オレリアは自分の感じたとおりに受け止めるといい」
見た目だけでいえばマイセル様のほうがよっぽど人目をひくだろう。
絵本の中で王子様の挿絵があるとマイセル様とよく似ていらっしゃるとずっと思っていたし、幼い頃から周りが口々に褒めていたのも覚えている。女の子にもよく間違われていたくらいに愛らしかった。
それでも今、わたしの胸にはっきりとランフェルド様の印象が残っている。
ああいうふうに穏やかで落ち着いていらっしゃる方なら、わたしの大事なものも一緒に抱えてくれるだろうか。心変わりがあったとしても、途中で投げ出さずにまっとうしてくれるだろうか。
できることなら、わたしはわたしの大事なものを大事にしてくれる方がよいし、相手の大事なものをわたしも大事にしたい。もし分かち合えなくても、否定せずにちょうどよい距離感で関係を築けるのがいい。できたらお父様とお母様のように仲良しだともっといい。
ランフェルド様がどういう方なのか知りたい気持ちと、ただ純粋に言葉を交わしたわずかな時間が心地よかったこともあって、わたしはもっとたくさんお話したかったなあと残念に思った。
「……せっかく楽しかったのに、これからを思うと憂鬱です」
「なぜ? とっても可愛らしくてドレスも靴も似合っているのに」
目を丸くしたお父様に、わたしは遠慮せずため息をついた。
「マイセル様とのことを皆さんご存知ですから。こんな状態でデビュタントなんて笑い者になるだけです」
「残念だけど、それはないよ」
あっさりと首を振ってお父様がにこにこするので、わたしはむっと眉を寄せる。
「お父様はお城にお勤めなのに想像がつかないのですか?」
「お父様はきみより夜会に参加したことが多いから、ちゃんと想像できているし見当もついているよ」
この言葉の意味がわかるまでにそう時間はかからなかった。
侍女やメイドたちに再度ドレスや髪を念入りに直されてから、お父様とお母様に連れ立って会場の入り口をくぐると、ざわめきのなかで向けられる視線の多さを肌で感じる。
ひそひそと聞こえるようで聞こえないような声たちに、ほら! と思ったのだけどお父様は穏やかに微笑むだけ。
しっかりと王妃様と陛下へご挨拶をしたあと。ファーストダンスも難なく終えられたところで、ひと息つくはずだったのだけれど。
「レディ・オレリア。ダンスのお相手はもうお決まりですか」
「ぜひ私と、踊って――」
「お待ちください、先に俺がお声を――」
「レディ、よかったら私と少しお話を――」
もしランフェルド様がいらっしゃったら改めてお礼をお伝えしたいし、ダンスのお相手をしていただけたら……でも後ろ指さされる自分が相手では閣下に恥をかかせてしまうかしら。
なんて抱いていた淡い思いなんてお構いなしに、なぜか予想と違う声が途切れずにかけられている。
お父様を見ると、にっこりと微笑んでいらっしゃるのでわたしは頬を膨らませたい気持ちだ。お父様はこうなることを予想していたのだろう。
誘われるままにダンスをすると、誰も彼もがマイセル様のことを話題になさるのでわたしは笑顔が崩れそうになるのを必死にこらえることになってしまった。
踊っているときに周りから向けられる視線はやはり多く、わたしが誰と踊って相手にどういう受け答えをしているのか見張られているような気までしてくる。
当の本人とは遠目だったけど一度目が合っただけ。たぶん、お父様たちの間でお話がすんでいて、マイセル様からわたしへ接触することは禁じられたのだと思う。
とにかく。今日は特別な日で、前から思い描いていた予想とは違ってしまったものだけどせめて楽しい夜になってほしいと。ピンクとオレンジが混ざったようなやわらかな色のふわりとしたドレスを着て、お気に入りのロッチェが咲き誇る靴で踊るのは心が踊ると。そう思っていたのに。
この度は残念でしたね、私がお慰めいたします。なんて強引に手を取られることもあり、気持ちは下がる一方だ。
目に余る何人かはやんわりと、でも絶対に逆らえないお父様の言葉が間に入って退けられた。
お庭でジルを追いかけて、薔薇の香りの中で笑った時間は心が軽やかであたたかかったのに。そんな気持ちはステップを踏むごとに冷たくなって消えてしまう。
「あっ」
もう、踊らなくてもいい。
お父様たちと一緒にいて、笑顔を貼り付けて時間が過ぎるのを待つほうがいい。
そう思って顔を上げたとき。会場が少しざわめいて、深い緑色の上着を纏ったランフェルド様が現れた。騎士服ではないことに、女性たちの声が一層色めきだつ。わたしはつま先の向きを咄嗟に変えた。
「少し失礼いたし――」
「レディ、まだ僕とのダンスがありますよ」
目の前を遮る人に微笑んで首を振っているのに。
「いえ、わたくし――」
「レディ・オレリア、彼ではなく次は私と」
遠目に見えるランフェルド様のお姿が、どんどん人混みに溶けていってしまう。
ちらりと見えたお顔は、お話をしたときよりも表情が硬くて物憂げな気もした。お声掛けしている女性たちにも断りのお返事をされているように見える。
もしかしたら、こういう場がお好きではないのだろうか。庭園での様子も思い起こされる。
たったひと目、お姿を見ただけなのに。すっかり頭の中はランフェルド様のことばかり。
しっかりしなければ。わたしはこほんと喉を鳴らした。
「そろそろ、わたくしも皆様の踊っているお姿を眺める時間にいたします」
違う誰かと踊ってくださいと言葉の向こうでお伝えすると、わたしのはっきりした態度に一度沈黙が降りる。
周りが言葉を詰まらせたその隙に、ようやくわたしは人垣をすり抜けた。初めからしっかりとお伝えすべきだったと心の中で反省する。
これでようやく引き留める手をかいくぐれたと思ったのだけど。
ランフェルド様はと視線を走らせようとしたわたしの前に、こちらを興味津々に眺めてくる方々の間を縫ってきた真っ青なドレスが目に入る。
「あ、あの、オレリア・ロッシュ様」
艶やかな黒髪を編み込んだ、ひとりのご令嬢。
わたしは彼女が誰なのかわかって足を止めざるを得なかった。
身分差もあるし、周りの人たちの視線が一斉に向けられたこともあり、相手は一度言葉を飲み込んだけれど。それでも、震えた唇で先を続けた。
「アイシャ・コーエンと申します。その、なにもせずにはいられなくて、謝罪だけでもと思い……」
視線があちこちに泳いでとても気まずそうだけれど。
真っ向からお声かけいただいたのだから、わたしもそれを受け止めるべく背筋を伸ばして微笑んだ。
「あなたからの謝罪とは、一体なにについてのものですか?」
言いたいことはわかるけれど、謝罪を受ける謂れがないからあえてそう尋ねるしかない。
それでもアイシャ様はそこで引き返してはくれなかった。きゅっと胸の前で手を握り締め、彼女は一歩わたしとの距離を詰める。
「マイセル様とのご婚約が、わたしのせいで――」
「あなたのせいで? いいえ、わたくしたちの婚約にあなたは関係ございません」
「えっ、ですが――」
わたしは首を振って遮った。
潤んだような瞳を真っ直ぐと見つめて、迷わず言葉を紡ぎ出す。
「アイシャ様の言動で、わたくしやロッシュ家のなにかが変わることなどございません。謝罪などもとより不要ですので、どうぞお気になさらずに」
謝られたところで復縁するわけでもなく、デイズリー家への対応が変わるわけでもない。まして、婚約解消がアイシャ様のせいなんて。
ずいぶんと強気な発言に聞こえて、謝罪が謝罪になっていないように思えてしまう。
動揺した様子だったアイシャ様は、わたしのこの答えが気に入らなかったようだ。
「……マイセル様のことをお慕いしていらっしゃったのではないのですか」
どうしてそういう話になるのだろうか。
ため息をつきたいのを押し殺して、ほんの少し首を傾げた。
「それをあなたにお伝えしたら、過ぎた時間が戻るのかしら」
伝える必要はないし、意味もない。
息を吸って一拍置くと、そのまま先を続ける。
「わたくしは、自分のことも家のことも、この国のことも大切です。大切なものを守ったりよりよくするためにどうしたらよいかを考えているだけ。おそらく、マイセル様とは大切なものが違ったのでしょう」
「そんな、冷たい――」
「なぜです? 大切なものを優先するのはそんなにいけないことですか? あなたやマイセル様は、ご自身のお気持ちを第一となさったのに」
ため息がひとつ。
これ以上言葉を足してもいいことがあるとは思えなくて、わたしはにっこり笑って強引に話を終わらせることにした。
「さて、この話はこれで十分です。せっかくの素敵な夜です、楽しい時間にいたしましょう」
それではご機嫌よう。
微笑んで小首を傾げ、言葉を詰まらせたアイシャ様をそのままにわたしはお父様の元へと向きを変えた。
おかげさまでランフェルド様は陛下のところへ行ってしまわれた。それをお邪魔するわけにはいかないから、もうダンスは諦めよう。
やさしくわたしの背中に手を添えたお父様に、小さくため息をついてから口を開いた。少し唇がとがってしまったがそれくらい許していただきたい。
「少し風に当たってきます」
すぐそこに見えるバルコニーを示して、お父様を見上げる。
踊る気にも食事をする気にもなれそうにない。
「風が冷たくなってきているよ」
「ですが、ここにいるとまたお誘いが来てしまうわ。皆さん、踊りたい踊りたいとおっしゃって。……わたしだってランフェルド様と踊りたかったわ。わたしは叶えてさしあげているのに、どうしてわたしの希望はきいていただけないのかしら」
うまくいかなくてまたため息がこぼれてしまう。
お父様は苦笑を浮かべてわたしの髪をそっと撫でた。
「体を冷やさないようほどほどにしなさい。もし気分が悪くなったらすぐに言うんだよ」
入り口を開けてくださるのに甘えて、夜色の濃い窓の外へ一歩。
華やかな喧騒から逃げるみたいで嫌だけど、今だけは。
もうとっくに残っていないぬくもりを思い浮かべて、自分の手をそっと握った。