01:ひとつ歳を重ねたら
マイセル様のお顔をまじまじと眺めると、空のように青い目が少し泳いで逃げようとする。
今日はわたしの誕生日で、これから親しい人たちをお招きしたお茶会があるのだが。婚約者であるマイセル・デイズリー様とそのご両親が少し早い時間で来てくださった。
艶やかで波打った金の髪は丁寧に整えられていて、紺色の落ち着いた上着もよくお似合いだ。
お会いするのはひと月ぶりなので、弾む足取りを抑えながら窓際のテーブルにご案内したところ。
ご挨拶を終えたご両親は、わたしの両親とソファーで談笑されているのでしばらくはマイセル様とゆっくりすごせると思っていたのに。
どういうわけか、緊張したようなご様子でお茶をひと口。
「オレリア、誕生日おめでとう」
「ありがとうございます」
「ドレスもよく似合っているね」
「腕をとおせる今日が待ち遠しかったです」
月に何度かお会いすることも多かったのに、最近では一度くらいになってしまっているから贈り物として受け取ったときはうれしくて。
よく晴れた青空のようなドレスは肌触りもよく、フリルがきれいで美しかった。
あまりゆっくりお会いできていなかったし、まだ招待した方々が来るまで時間もある。今日は一緒にお茶を楽しむことができそうだ。
そんな弾んだわたしの心を落ち着かせて。
今気になるのはマイセル様のどこかこわばった空気と、なにかに気を取られているようなところである。
「それで、どうかなさったの? 心がお出かけしているご様子ですよ」
「……オレリア」
なかなか口が重たそうだったので、親しい関係でもあるし思い切って伺ってみると。
なにかを決めた青い目がまっすぐとわたしを見つめた。
「きみとの婚約を解消したいと思っている」
ふっと、周りの音が消えた。
動きを止めた私に彼は、硬い声のまま先を続ける。
「心に決めた人ができてしまった。きみのことが大切だから、こんな気持ちを抱いたまま話を進めたくない」
「マイセル様」
はっとして両親のほうを見ると、母とも父とも目が合った。
その横では腰を浮かせた公爵閣下と夫人が顔を凍りつかせている。どうやら、ご両親もマイセル様のこの決断はご存じではなかったらしい。
「待ちなさいマイセル、そんな――」
マイセル様のお父様が声を震わせたのを、わたしのお父様が手をすっと上げて遮った。けれどもそのまま、わたしに視線を向けてなにも仰らないので、まだわたしが話を続けてもよいのだと思いゆっくりと息を吐き出した。
マイセル様の話があまりに衝撃的で言葉を失ってしまったけれど、動揺するなんてまだまだ未熟者の証拠のようで恥ずかしい。気を取り直して彼を見つめた。
「いつからです? その方とはよくお会いになっていらっしゃるの?」
「……一年ほど前に出会って、月に何度か会うようになった」
「なるほど、それでわたしと会う機会は減っていたのですね。そしてお気持ちも揺るがなかったと」
「僕の気の迷いだったなら、どれほどよかっただろう」
物憂げで悲しそうな表情は、見ている人も思わず胸を痛めそうなものなのに。
おかしなことに、わたしの心はちっとも動かなくて。きゅっと手を握りしめ、ゆっくりとため息をこぼした。
「ええ、本当に。残念です。……わたくしは、婚約とはお互いの問題だと思っていました。でも、マイセル様にとっては違ったのですね」
相手を思う気持ちはいっときのものではなく心で育ってしまったもので、それはわたしとの婚姻よりも重要だとこの方はお決めになったのだ。
愛する人を見つけてしまった自分が罪深いとおっしゃる、心から悔いたご様子のマイセル様はわたしの意見なんて初めからないものとしていらっしゃる。
「お父様、ありがとうございます。わたしはもうこれ以上申し上げることはありません」
胃が凍りついたみたいに重たくて、込み上がってくるものをぐっと押し殺すように飲み込むことで精一杯。
どんな言葉も聞きたくなかった。
マイセル様から離れてお父様の側に立つと、やさしい手が肩を叩いてくださり、わたしの前で広い背中が公爵の視線を遮る。
「本日は、ここでお引き取りください。追ってご連絡いたします」
「ですが!」
きっぱりとしたお父様の声。
「閣下、これがあなたの意思ではないにしてもご子息の言動はデイズリー家と切っても切れないものですよ」
彼自身が重々承知かと思っていましたが私が買い被りすぎていたようです。そう付け足したお父様は残念そうに目を伏せた。
手で合図をしたのを見逃さずに執事と従僕がマイセル様たちを扉の外へ促す。まだなにか言いたげだった公爵は、ぐっと唇を噛み締めてから姿勢を正して丁寧なお辞儀をなさった。マイセル様を連れて出て行くのを無言で見送る。
バタンと扉が閉まって、わたしは思わず大きく息を吐き出してしまった。
「オレリア、お昼まで頑張れますか」
そんなわたしの目の前に影が落ち、ずっと黙っていたお母様がまっすぐとこちらを見下ろす。
「ここで取りやめになるほうが不利な噂が大きくなります。予定どおりお客様をおもてなしなさい」
「はい、お母様」
「マイセル様のことを聞かれたら、今日はいらっしゃらないとだけ伝えたらいいわ。微笑んでその会話はおしまい」
簡単でしょうと肩をすくめたお母様の隣で、今度はお父様がわたしの目を覗き込む。
「きみが望むなら、今の話はなかったことにしてこれまでどおりに進めることはできるよ」
「いいえ、お父様。……ですが、マイセル様との婚約がなくなるとロッシュ家には痛手になります」
「それこそ気にすることはないよ。痛手にもならない」
やんわりと首を振ったお父様は微笑んでみせた。
するとお母様がぎゅっとわたしを抱きしめて、びっくりして目を丸くしたわたしの背中をポンと叩く。すぐに腕を解いたお母様はわたしの顔を覗き込んだ。
「辛いわね。でも、今は気持ちを切り替えてこれからに備えるときですよ」
「はい」
うなずいて背筋を伸ばす。
余計なことは考えない。婚約が白紙になった。その事実だけで、それ以上のことを自分の中に入れて心が揺れるのは嫌だった。
予定と変わらずお客様をおもてなしして、お祝いをいただいて、しばらく料理を囲みながら談笑して。
マイセル様がいらっしゃらないことは、やはり何度か聞かれたけれどお母様のおっしゃったとおりに微笑むと、それ以上を尋ねられることはなかった。友人といえるほど親しいご令嬢からは心配したような視線をいただいたけれど、やんわりと首を振って答えとする。
にこやかに穏やかに努めて、時間は過ぎて。
きちんとおもてなしはできたと思う。
お見送りも最後まですませると、どっと体が重たくなってソファーにもたれながら大きく息を吐き出した。
「よく頑張ったね。今日はもう休みなさい」
お父様が労うようにわたしの髪をやさしく梳いた。
その言葉に甘えることにしてわたしは部屋へ戻ると、気に入っていたはずのドレスを脱ぎ捨てて、髪を解いて、お化粧も落として。手伝ってくれたメイドたちが部屋から出ると遠慮なくベッドへと潜り込んだ。
お母様も妹たちも、侍女もメイドも、みんな労わるようにやさしかった。その気持ちはうれしいのに、自分が情けない証拠みたいで耐えきれずにぎゅっと目を閉じる。
マイセル様の意中の相手が誰であるか、本人を問いただすことは簡単だったが嫌でも耳に入るだろうと思い、あのときわたしは尋ねずにいた。殴られたように頭が動かなかったのもそうだし、あれ以上マイセル様の口から悲しい言葉を聞きたくなかった。
もちろん、あのあとすぐにお父様が話の詳細を突き止めていて、聞きたくないだろうけれど情報として知っておきなさいと教えてくださった。
アイシャ・コーエン伯爵令嬢。
西の一角の領地を納めているコーエン家は、あまり経営がうまくいっておらず領地を担保に入れているほどだという。
アイシャ様は、マイセル様のお母様のご実家へ侍女としてお支えしていて、ふたりの出会いもそこ。家の行く末を憂いながらもひたむきにお仕えする健気なアイシャ様に、マイセル様が心を打たれたとかなんとか。
マイセル様とはうまくやっていけると思っていた。
お互いに恋愛ではなくても好意は持っていて、補い合いながら家を支えることができると思っていたのだ。お父様やお母様たちとまではいかなくても、自分たちなりの形で。
でも違った。そう思っていたのはわたしだけで、マイセル様はアイシャ様との愛情を心の真ん中に据え置いていた。
知らぬ間に見ている方向が変わってしまっていたのだと、思い知らされたわたしはため息を布団に溶け込ませて胸をいっぱいにするもやもやをやり過ごすしかできない。
ほんの少しだけ枕が濡れてしまったけれど、きっと朝には乾くだろう。