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銃声の声色  作者: あきひろ
9/19

Memory

 馴染みの喫茶店でコーヒーを飲んでいると、ドアについたベルをガランと勢いよく鳴らして、長髪の男が店に入ってきた。真夏の熱さから一変、冷房の効いた居心地のいい店内だった。長髪の男はガツガツとごつい足音を立て、かけていたサングラスを外して、店内を見回した。カウンターではマスターがカップを拭いている。

 マスターは何も言わず、窓際の席を指差した。

 長髪の男はマスターの仕草につられて、その席に目を向ける。

 窓際の席は夏の日差しで白く光っていた。そのテーブルにはコーヒーのカップが置かれ、奥の椅子に一人の男が座っていた。長髪の男はその男が自分の会いたがっていた連れだと気づくと、サングラスを胸ポケットにしまい、逸る気持ちを押さえて、窓際の席に向かった。テーブルの前まで歩くと、座っている男は顔を上げた。

 長髪の男は満面の笑みを浮かべ、手前の向かい席に座った。

「よう! 涼ちゃん。久しぶり!」

「ああ、久しぶり」

 長髪の男の連れは涼太だった。涼太は挨拶を返すと、コーヒーを一口啜った。

 お客の少ない店内。ほとほとと歩いてきたマスターが注文を訊き、長髪の男はブラックコーヒーを頼む。マスターはこくりと頷いて、カウンターへ戻っていき、長髪の男はテーブルに身を乗り出して、涼太との会話を始めた。

「涼ちゃんってほんと!」

「なっ、何?」

「変わらないよな! あはは」

 店内に長髪の男の笑い声が響く。

 涼太は慌てて、人差し指を唇にあてた。

「馬鹿。声が大きい」

「あ、ごめん」

「いいけど。てか、お前が変わり過ぎなんだよ」

 涼太が指摘すると、マスターはカウンターで豆をミルに入れ、挽き出した。それは数十分前、先に店に入った涼太がコーヒーを注文して聞いた音でもあり、高校生の頃、この喫茶店に通い、恋い焦がれた音でもある。

 涼太が初めてこの喫茶店に入ったのは高校一年生の時だった。

 コーヒー一杯に四百円を支払うのは十六歳前のお小遣いでは中々できない贅沢だったが、言い換えれば高校生が少しの貯金で手を伸ばせる贅沢でもあった。長髪の男は高校生の涼太が一緒に喫茶店を利用した数少ない友人の一人である。生まれた家が近所で幼稚園から一緒に遊んでいた男の名前は飯塚航(こう)(だい)だった。

 航大は高校時代と変わらぬ笑みを浮かべ、口を開いた。

「ねえ、涼ちゃん。覚えてる? 数学の前原先生。さっきここに来る途中に会ったよ。懐かしかったなあ。まだ卒業して、一年も経ってないのにさ」

「ああ! あの。ラップの!」

「そうそう! ラップの人! いきなりラップで公式読み上げた時はもう必死だったなあ。クラス全員、あの時、笑い堪えてたよね?」

「ここの公式をラップにすると、ってやつね!」

「それそれ! いいなあ。懐かしい!」

 涼太は高校の校門から校舎までの短い並木道に桜が咲いていたことを思い出した。十代半ばを過ぎた心に冷や汗をかき、何とも言えない複雑な不安を抱えて、桃色の花びらが散る空気の間を通った記憶。当時あまりに心移りが激しくて、すぐに忘れていたような出来事も、大学生になった今では懐かしさを纏っている。

 数学の教員も然り、全てはあの短い並木道から始まったのだと涼太は思った。

 そして、それは大学生活にも当てはまる。

 騒がしい勧誘活動の通りから始まった大学生活。入学してから夏までの四か月ほどで起こった出来事は大学を卒業した後、どんな意味を持ち始めるのか。高校生活を思い返して笑いが零れるように、何度も開けたくなる宝箱の中身に果たしてなっているのだろうか。涼太は温くなったコーヒーを口に運び、航大の髪を見た。

「んで。それ。いつから伸ばしたの?」

「あ、これ? 大学入ってすぐだよ。やっぱ、なんかこう。個性が欲しくって」

 航大が答えたところで、マスターが淹れ立てのコーヒーを運んでくる。マスターがカップをテーブルに置くと、航大はコーヒーを二口飲んで、カップを置いた。

「あはは。個性って何だよ、それ」

 涼太は恥ずかしそうに髪を触る航大を見て、笑った。

 高校を卒業する時の航大は短髪だった。それが肩にかかりそうなほどの長さになっているのだから、涼太には驚きだった。加えて、集団行動となれば、場の調整役に立ちまわっていたはずの航大が自ら主張の強いサングラスをかけていることも、意外だった。航大は少し口を尖らせて言った。

「だってさ! 大学って人間関係薄くない? 自由だっていう人もいるけど、よく分かんないし。その結果、個性は必要かなと思いまして、出来上がったのがこれ。ちなみに、学部の人からは好評だよ?」

 涼太は残り少ないコーヒーを飲み干してから喋った。

「好評かどうかは知らないけどさ」

「何なに?」

「それをお前がしたいかどうかが一番、重要じゃないの?」

 涼太はカップを置き、ソーサーにぶつかって、カコッという音を鳴らした。

 航大は何も言わなかった。しかし、突然、顔面を手のひらで隠して、静かに笑った。

「ははっ。涼ちゃんってさ。ほんと変わらないよね?」

「何だよ。俺だって変わったよ」

「はは。どこがさ?」

「どこもかしこも。てか、それを言うなら、俺が変わらないんじゃなくて、お前が変わり過ぎなんだろ? 違う?」

「ははは! いや、違いねぇや!」

 航大はコーヒーを飲んで、少しだけ表情を落ち着かせた。飲み物がなくなった涼太はテーブルに置いてあるメニュー表を開いて、次のドリンクを注文しようか考える。航大はカップを持ったまま、メニュー表を見ている涼太に言った。

「てか、そう言えば。涼ちゃんってさ」

「何?」

「好きな人できた?」


 それぞれの財布から出したコーヒー二杯分の硬貨。

 マスターはその硬貨を手のひらで数え、レジに入れた。航大は一足先に店のドアを開けて、夏の暑さと蝉の鳴き声を店内に入れている。

「またいおいで」

 マスターは無表情でそう言った。

 通い慣れた喫茶店はまるでタイムカプセルのような切なさを感じさせ、コーヒーの提供と金銭のやり取りを成立させるビジネスという言葉では言い表せないほど温かな手で背中を押してくれる。店を出る直前、涼太は店内を振り返り、レジを乗せた台に貼ってあるプレートを見た。そこには英語表記でこう彫られている。

 Memory is the best lover.

「また来ます」

 涼太はそう答えて、ベルのついたドアを静かに閉めた。

 店を出ると、航大はサングラスをかけ、店の外で辺りを見回している。

「まだ前原先生。まだそこら辺にいるかな?」

「いや、いいよ。俺は。会わないで」

 屋外は強い日差しと熱気で、冷房に慣れた身体を叩き起こし、とめどない汗を噴き出させる。涼太はサングラスの必要性を身に沁みて感じながら、陽気な口調で話し続ける航大の会話に乗っかり、自宅に向かって歩き出した。

「てか、涼ちゃんってバイト始めた?」

「始めたよ。本屋で」

「俺も始めたよ。居酒屋で」

「えっ! 居酒屋って儲かんだよなあ」

「まあ、時給はいいけど。でも、大変なのも確か! だって、ビールサーバーの使い方とか、普通、分かんなくねぇ? いや、俺、分かんなかったんだって。あれ、難しいよ。知ってた?」

「いやいや。本屋にビールサーバーないし。でも、俺のバイト先も変な人いるよ。いつもバイト入ってて、新人をよく辞めさせちゃう人。面接で店長に注意しろって言われた」

「あはは! 何それ?」

「だろ? おかしいだろ?」

「俺だったら、辞めさせたいのかと思っちゃうよ。あ、でも。それを言ったら、居酒屋は勝手に辞めてく人がいるよ」

「や、やばっ! それってあり?」

「いや、ないんじゃない? 店長も困ってたし」

 涼太は額に汗を流しながら、意気揚々と話しながら、隣を歩く航大を見た。

 涼太の大学は実家から電車で二時間の場所にあったが、航大が通う大学は新幹線を使っても四時間以上かかる場所にある。もしも二人が地元で生活していたなら、このままショッピングでも、カラオケボックスでも、ボーリング場でも、遊べるところへ行けるはずなのに、航大はこれから荷物を取りに自宅へ戻り、そのまま駅へ向かって、大学の近くに借りたアパートへ帰ると言うので、それはできない。

 涼太は限られた時間を大切に思いながら、帰り道を歩いた。

「けどさ。居酒屋でバイトしてるから、そう思うだけかもしれないけど、最近、俺、色々考えるようになったよ」

「考えるようになったって。何を?」

 涼太が訊き返すと、航大は頭をかいて、不満を漏らした。

「何か。バイトってさ。まだちゃんと働いてる訳じゃないじゃん。なのに、こんな大変で、面倒臭くて。いつか、就職したらこんな生活が始まるんだなって思うと、すごくうんざりするよ。毎日叱られて、汗かいての繰り返しでさ。嫌だなあ。俺」

 航大はそう言って、黙り込んだ。正午過ぎの日差しが燦々と降り注ぐ歩道のタイルに視線を落として、落ち込んだ様子でいる。涼太はしばらく黙って考え、二人並んで横断歩道で立ちどまると、静かに口を開けた。

「やめようぜ? 俺たちまだ十代だよ?」

「ああ。ごめん。そうだね」

 走っていた自動車が横断歩道の停止線で停まる。

 少し待つと、赤信号のランプは消え、青のランプが光る。二人は再び歩き出し、横断歩道を渡った。すると、航大は一度捨てたはずの不安を拾い上げて、口を開けた。

「でもさ。涼ちゃん。俺たち、今年で十九なら、もう二十歳のラインを片足くらいは踏んでるよね?」

「ん? そうかな」

「そうだよ!」

「ちょっと将来を悲観し過ぎじゃない?」

「そんなことないよ! 普通だよ!」

 涼太は着ているシャツが汗でびしょびしょに濡れているのを不快に感じ、深い息を吐き出した。帰り道ももうすぐ終わる。涼太は言葉を選んで、汗を拭いながら言った。

「二十歳になるのは悪いことばかりじゃないよ。お酒が飲める。これからは帰省する度に飲みに行こうぜ?」

「ああ。まあ。そうね」

「だろ? そうしようぜ!」

「でも、社会人になったら、そう会ってもいられないよね? どこで就職するかにもよるけど、こっちで就職したって転勤とかなったら一発アウトだし」

「はあ。ほんとよく見つけてくるね。そんな不安を」

「だって、そうじゃないか?」

 大学生のアルバイトの給料はさほど多くない。けれど、馴染みの喫茶店で出される一杯四百円のコーヒーなら余裕を持って支払うことができる。それは働いているからだ。嫌なことがあったとしても、稼いだお金で飲み明かし、思い出に浸れる幼馴染との時間が買えるなら、大人になるのも怖くない、と涼太は密かに思っていた。

「別に会えなくても大丈夫だろ? 連絡は取れるし。ちゃんと思ってることを言い合えるうちは、きっと大丈夫だよ」

 二人はもう自宅の近くまで歩いてきていた。このまま行けば、あと五分もかからないうちに交差点に到着し、涼太は左に、航大は右に別れて進むことになる。涼太は小学生の頃から登下校に使っている通学路を久しぶりに航大と歩き、歩道の割れたアスファルトや電柱の汚れた貼り紙を見て、少しだけ感傷に浸った。

「大丈夫って。涼ちゃんが言うなら、まあ。そういうことにしておこう」

「ああ。そういうことにしておけ」

「あはっ。あはは」

「何いきなり? 怖いんだけど」

「涼ちゃんはさ。本当に好きな人いないの?」

「いないよ」

「そうかな? いそうな気がするんだけど」

「どこを見て、そう思うんだよ?」

「何となくだよ。何となく。だってさ」

「だって?」

「だって、君は自分が思っている以上にずっと魅力的な人だから。そういう出会いの一つや二つあるだろうなって。思ってしまうんだよ?」

 航大は低い声出そう言った。

 しかし、涼太はその発言に笑った。

「ははは! そんな訳ないよ。馬鹿だなあ?」

「ほんとだよ? そうだと思うよ?」

「いやいや。俺はそんな人間じゃないんだよ」

 二人はそこで交差点に到着し、別れて帰宅した。

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