山本亜紀
コンパから二日後、アルバイト先の本屋で働いていた涼太は声をかけられ、平積みのビジネス本から顔をあげた。お客への愛想をよくするため、仕事のスイッチの入った高い声で返事をする。しかし、そこに立っていたのは眼鏡をかけた亜紀だった。
「や、山本さん!」
「覚えててくれて、ありがとう。やっぱり堀越くんのバイト先ってここだったんだね?」
亜紀は髪を後ろで結び、コンパで話した時とは違って、いたずらっ子の笑みを浮かべた。涼太は再会できたことが素直に嬉しかった。けれど、信二の目が気になって、落ち着いた会話ができず、涼太は断らなければならなかった。
「すみません。会えて嬉しいんですけど、バイト中なので話せないんです」
「ううん。いいよ。たまたま通りがかっただけだから。気にしないで」
亜紀は会話を求めなかった。
涼太は安心して仕事に戻り、店内を物色する亜紀を気にかけながら、残りの時間を働いた。本屋に立ち寄ったからには気になる本があったのかもしれない。そう思い、スタッフルームで私服に着替えた涼太が店を出ようとする。けれど、亜紀はまだ店内で文庫本をパラパラとめくっていた。涼太はその姿を見つけると、店の出入口に向かおうとしていた足をとめ、亜紀に声をかけて、一緒に本屋を後にした。
「お疲れさま。お茶でも奢ろうか?」
店を出ると、亜紀は駅に歩きながら、そう訊いてきた。
「あ、えっ」
しかし、涼太の口からは驚きの声が漏れる。
涼太が亜紀に声をかけられ、再会したのは二時間以上前のことだった。その間、亜紀は店内を回って、時折立ちどまり、本をパラパラとめくる、という行動を繰り返していただけだ。店内に休憩スペースはないので、立ちっ放しである。
涼太はその疑問を口にしようか迷った。けれど、指摘するのはやめ、少々ぎこちない口調で自分を悪者にして、亜紀の誘いを断った。
「すみません。山本さんと話すのは楽しいんですけど、ちょっと疲れてしまって、今日はこのまま帰ってもいいですか」
亜紀はその返答にすぐさま笑って、頷いた。
「そうだよね。ごめん、ごめん。お茶はまた今度ね」
けれど、亜紀の笑みは涼太がこれまでに見たどの表情とも違い、少しだけ硬かった。せっかくの誘いを断ったのだ。誰しも傷つくに決まっている。涼太は断ったことをさらに詫びた。亜紀はずれた眼鏡を直して、そのレンズの向こうに笑みを浮かべながら、隣を歩いている。二人は駅へ入って、改札を通った。
すると、亜紀が思い切ったように口を開けた。
「そういえば、堀越くんが教えてくれた本だけど」
「本? あ、はい。覚えてますよ」
「あれ、読んだよ」
「えっ! ほんとですか? でも、あれ、上下巻で分厚いですよね?」
「まあ、そうだね。でも、せっかく薦めてくれたし。図書館へ行くついでがあったから、借りてさ。そのまま勢いで読んじゃったよ」
亜紀は本の感想を語り始め、涼太は相槌を打ちながら、熱心にその感想を聞いた。その感想を聞けば、疑う人はいない。亜紀が本を読破しているのは確かだった。
しかし、感想の端々に媚びるような言い回しがあって、涼太は数回、首を傾げたかった。二人は話しながらホームに入り、足元に乗車口の停車位置がマークされているポイントでとまった。ちょうど電車の到着を知らせるアナウンスが流れる。
亜紀は涼太の隣で、またずれた眼鏡を直した。
「堀越くん?」
亜紀が改まった声を出し、その声色に涼太は亜紀の顔を見つめた。
近づく走行音を耳に入れながら、強い風を二人にぶつけて、電車がホームに入ってくる。亜紀は詰まる声を押し出して、言った。
「ごめん。私、電車あっちだから」
「あっ。ご、ごめんなさい。てっきり山本さんもこっちかと」
「ううん。実は反対方向なんだ。私こそごめんね」
「あ、じゃあ、送ります」
「いや、いいよ? ここで。それと、いきなりバイト先に行っちゃってごめんね」
電車が停まった。亜紀はもう笑わなかった。
乗車口が開き、涼太は他の乗客につられて乗り込み、亜紀は反対方面の電車が停まるホームに移動せず、ホームの淵に立った。
しばらくして、乗車口が閉まる。涼太は窓越しに目の合っている亜紀に手を振った。けれど、亜紀は手を振り返さなかった。電車は次の駅に向けて動き出し、涼太は手を引っ込める。すると、電車はすぐに速度を上げて、亜紀の姿を見えなくした。
そして、この日以来、涼太が亜紀に会うことはなかった。