ようこそ、ボランティア
ボランティアサークルの活動場所は建物の二階にある教場だった。
窓からは傍に植えられた桜の木を見ることができる。涼太がサークルに入会した日は在籍するメンバーと新規メンバーの顔合わせを理由に、自己紹介が予定されていた。しかし、そのことを事前に知らされていた新入生はいない。
招集された新入生は言われるままに黒板を背に横一列に並び、在学生はまるで新発売の商品を見比べ、陳列場所を思案するスタッフのような目で品定めをした。男子学生五人、女子学生七人。しばらく経って、会長が自己紹介を始めるよう言い、新入生は右端の人から順に、一人ずつ名前と出身を紹介し始める。
その間、在学生は全員、顔に微笑みを浮かべていた。
左から二番目にいた涼太はこの一方的に批評される空気を嫌悪しながら、無事に自分の番を終えた。涼太が一歩下がると、交代で一番左にいた男子学生が一歩前に出て、口を開く。愛想がよく、明るい声色だった。
「沼田博史っす。出身は東京です」
博史がそう言い終えて、一歩下がると、再び会長が口を開き、在学生の自己紹介へとプログラムを進めようとする。しかし、一人目の在学生が自己紹介を始めたところで、この場にそぐわないクチャという小さな音が、涼太の左耳に聞こえた。
それは唾液と舌べろで押し潰されるガムの音だった。
涼太が正面に身体を向けたまま視線を博史に向ける。すると、博史は視線を涼太にぶつけ、右目でウインクをした。涼太は不満を顔に出して睨んだ。
活動は在学生の自己紹介をもって終了となった。
その直後、博史は涼太にしか聞こえない声量で話しかけてくる。
「なんだかパッとしないとこだな」
涼太は無視しようとする。
しかし、博史と目が合ってしまい、渋々会話を始めた。
「そんなことないと思うけど」
「そうか? アタリなのはあの背の低い四年生だけだぜ? でも、あれは絶対性格悪いわ。仲よくなれる気しない。ほんとミスったわ。これ」
涼太はそれ以上何も言わず、トイレへ行こうと一旦教場の出入口へ向かった。
すると、ちょうど会長がメンバーに呼びかけ、食事会に行こうと提案するのが涼太の耳に入る。会長が参加人数を数え始めているようで、何人かのメンバーが手を挙げていた。涼太は近くにいた新入生に声をかけ、自分も数に入れてもらえるよう頼んでから教場を出て、廊下を歩いた。
教場から離れるにつれ、騒ぎ声が遠くなっていく。男子トイレのドアを押し開け、便器の前に立つと、涼太はズボンのチャックを下ろした。
けれど、そこへ勢いよくドアが開けて、博史がトイレに入ってくる。
トイレの小窓が風でカタカタと鳴っている。その音がやけに大きく聞こえるほど、教場の騒ぎ声から離れた狭い空間で、博史は空いている便器の前に立つ素振りもなく、噛んでいたガムを便器に吐き出して、涼太に言った。
「なあ」
「ん?」
「俺、ここ辞めるわ」
「はあ? どして?」
博史は理由を自ら話さなかった。
涼太は小便を済ませ、ズボンのチャックを上げた。便器に水が流れる。
それと同時に口を開けて、涼太は博史に訊いた。
「可愛い子がいないから?」
涼太の問いに、そうだね、と博史は即答した。
そうして、理由をあてられたことが嬉しいのか、博史はえらく上機嫌になって、用意された台本を読み上げるように、すらすらと自分のことを話した。
「ぶっちゃけね? ボランティアに興味ないんだわ。たまたまビラくれたのがさっきの四年生の先輩でさ。やっぱ可愛ければお近づきになりたいじゃん? でも、何か違ったから。もういいかなって。ついさっき決めた」
涼太は蛇口の水で手を洗い、ハンカチで拭いた。
しかし、この会話が漏れぬようドアは開けなかった。
博史はあらかた話し終えると、首を傾げ、眉をひそめた。
「俺は君も同じだと思ったんだわ」
何が? と涼太が訊き返す。
すると、博史は溜息を吐いて、少しだけ口調を荒くした。
「だから、それだよ。その反応! 君はさ。さっきの自己紹介で先輩たちがずっとにこにこしているの気にならなかった? あれ、普通だと思った? はっきり言って、俺は気持ち悪かったよ。気にしない人もいるんだろうけど、俺は違う。そういう感覚が君と同じだと思ったんだ。どうせボランティアには興味ないんだろうなって。でもさ、違うんだろ? もういいや。ほんとがっかりするわ!」
博史はドアノブに手をかけた。
「俺はもう辞めるって決めたから」
それを涼太は咄嗟に呼びとめる。
「とりあえず、一回だけ活動やってみたら?」
博史は立ちどまり、ドアノブから手を離した。
しかし、あからさまに怪訝な表情で振り向き、その冷たい眼差しで涼太を睨んだ。
「お前、馬鹿? 興味ねぇんだよ」
博史はトイレを出ていった。
涼太はしばらく動けなかった。そのまま立ち尽くして、離れていく足音が聞こえなくなるまで待ってから、遅れてドアノブをひねる。すると、廊下に出た涼太がドアを閉めるのと同時に、男子トイレに隣接している女子トイレのドアが開いて、女子学生が一人出てきた。その人は博史がビラを渡されたというボランティアサークルの四年生だった。涼太は途端に鼓動が速くなり、焦っているのがばれないよう、軽い会釈をして、足早に教場へ歩き出した。しかし、それを女子学生が引きとめた。
「ちょっといい?」
涼太は足をとめた。
振り返ると、女子学生は涼太の前に近寄ってくる。
「君はどうしてここにいるの?」
「どういう意味ですか?」
「何でこのサークルに入ったのかって訊いてんのよ」
「ボランティアに興味があったからです」
「嘘でしょ? それ」
背の低い女子学生は涼太を見上げて、睨んだ。
涼太は目を逸らすも、舌が乾いて、声が出せない。
女子学生ははきはきとした強い口調で、私はね、と続けた。
「何が言いたいかって。君にもしボランティアへの興味がないのなら、それで入会するのは楽しくないでしょ、って言ってるの。分かる?」
「わ、分かります。でも」
涼太が擦れた声で否定しようとした。
しかし、女子学生はその声に被せて、大きな溜息を吐いた。
これは他の誰も関係のないやり取り。涼太の頭に博史はもういなかった。
きっかけは大学に入学した時の出会いに遡る。
涼太は大学生になって初めての講義で、煩わしい勧誘活動を避けるため、抜け道を使って、教場へ向かった。見知らぬ女子学生に教えられた抜け道。その存在はあまりに疑わしいもので、涼太は信じてなどいなかった。けれど、教えられるままに向かう先に抜け道は存在していて、涼太はそれを確認すると、自分の情けなさに少し笑った。
涼太は抜け道を教えてくれた女子学生の名前を知らない。
けれど、その人が手に持っていたビラの色は覚えていた。だから、健吾と喧嘩をして一度食堂を出ていった政繁が戻ってきた時は心臓が震えた。政繁が缶コーヒーを取り出し、開けっ放しになったバッグからはみ出していた水色のビラ。それが抜け道を教えてくれた女子学生のビラと同じだったからだ。涼太はビラに印刷された文字がボランティアサークルであることを、政繁にもらって初めて知った。
涼太は入会するまで女子学生の名前を知らなかった。
けれど、その顔は覚えていた。
だから、トイレの前の廊下で自分を睨んでくる女子学生の顔も覚えている。
「私は覚えているよ? でもさ。君にはビラを渡してない」
涼太の目の前にいる女子学生がその人だった。
「あれ。堀越くん? 沼田くん、見なかったかい?」
ボランティアサークルの活動後、会長が発案した食事会へ向かう途中で涼太はそう訊かれ、答えに迷った。訊いてきたのは涼太が食事会の人数に数えてもらうよう、頼んだ新入生だった。涼太は迷った結果、正直に博史のことを伝えた。
「沼田くんは辞めるって。さっきトイレで言われたんだ」
新入生はおかっぱ頭の男子学生だった。男子学生は涼太の嘘のない報告を聞くと、途端に顔を曇らせ、まるで痴漢を犯した人を軽蔑するような眼差しで涼太を見た。
「堀越くんさ、そんなことを言っちゃダメだよ」
「ん? はあっ?」
「沼田くんも同じサークルの仲間なんだから。信じないと」
「あ、ああ。うん。そうだね、ごめん」
おかっぱ頭の男子生徒は怒っていた。
その剣幕に、涼太はつい謝ってしまう。
男子生徒は自由の効かない正義感を振りかざして、喋り続ける。
「いいよ、いいよ。だって、まだ知り会ったばかりだしね。お互いのことなんて分からないよね。少しずつ。少しずつ、分かり合えればいいよね」
涼太の隣にいる男子生徒は先を歩いているボランティアサークルの集団に合流しようと少しだけ歩幅を広げ、一歩前に出る。
けれど、涼太はそれを慌てて呼びとめる。
「あ、でも。沼田くんがサークルを辞めるのは本当だよ? 嘘みたいな話だけどさ」
「だからさ!」
男子学生は振り向いて大きな声を出した。
涼太は驚いて、息を飲んだ。先を歩いているボランティアサークルのメンバーも気にしてチラチラ振り返っている。男子学生はそれに気づかず続けた。
「だから、そういう決めつけはよくないって! 今、言ったよね? 具合が悪くなっただけかもしれないし、急用ができたのかもしれない。帰らなきゃいけない理由なんていくらでもあるよね。ね? だから、そういう可能性も考えないと。そうでしょ?」
涼太は怒っても、呆れてもいなかった。
ただ、これほどまでに感覚の違う人がこの世にはいるのだ、と理解の追いつかない自分自身を打ちのめされたような心地で、何も言葉が出てこなかった。
「ごめん。俺が間違ってた。気をつけるよ」
涼太は力なく笑った。
すると、男子学生は満足して、確固たる自分の世界を全身にまとったまま、ボランティアサークルの集団に駆けていき、合流した。
食事会はキャンパス外の飲食店で行うようで、メンバーはぞろぞろと校門を出ていく。その中には博史の他にも見えないメンバーが数名いて、涼太に抜け道を教えてくれた四年生の女子学生もその一人だった。
涼太は目立たないよう、集団の最後尾について歩いていく。
すると、スマートフォンが震えて、涼太はデニムのポケットに手を入れた。電話の着信があった時に作動するバイブレーション。取り出すと、スマートフォンの画面には健吾の名前が表示されている。涼太は躊躇って、放置した。
けれど、一向に鳴りやむ気配がないので、やむなく通話ボタンをタップする。
「今、何してる?」
耳に入ってきた健吾の第一声はそれだった。
電話に出るまで間があったのだから、都合が悪いのか、と疑ってもいいようなものの、健吾の声に悪びれる様子はない。
「サークルの人たちとご飯を食べに行くところ」
涼太はサークルのメンバーに通話が気づかれないよう口元を手で覆いながら、なるべく小声で話した。しかし、健吾はその様子に気づかないどころか、話も真面に聞かず、自分のペースで会話を続けた。
「なあ?」
「何?」
「合コン行こうよ」
「はあ?」
涼太の口からつい大きな声が出る。
その所為で、サークルのメンバーは一斉に振り返り、涼太はその視線に隠れるよう、慌てて身体を小さくして、苛立ちの混じった囁く声で電話越しの健吾に訊いた。
「意味分かんないんだけど! 何? まさか今日?」
「いや、今日ならよかったんだけど、残念ながら違くて。なんか林田のサッカー部の先輩が定期的に合コンをしてるらしくてさ。んで、メンバー募集してるから、チャンスがあれば、俺たちも行こうよってこと。OK?」
「いや、俺はいいよ。二人で行けば?」
「はあ? 何でだよ! お前も来いよ?」
健吾の怒った声が聞こえる。
涼太はその声が大きくて、耳にあてていたスマートフォンを離した。
「誰か好きな人でもいるのかよ?」
「いや、いないけど」
涼太はスマートフォンを耳にあて直して、答える。
けれど、次の瞬間、健吾が歓喜する声が耳に入ってきて、その声のあまりの大きさにまたスマートフォンを耳から離し、涼太は顔をしかめた。
「何? どういうこと? おい、平井!」
涼太が健吾を問いただす。
すると、健吾は歓喜の声をそのままに説明を始めた。
「いやね、実は合コンの開催はすでに決定しているのだよ」
「はあ?」
「んで、次の次なら参加してもいいって。それで、それで。堀越くん、君の参加はたった今、決定いたしました! おめでとう! ちなみにキャンセルはできません」
「はあ? ちょっと待て!」
「それが待てない。待てないのですよ。だって、合コンだぜ? だから、ごめんなさい。詳しくは今度連絡するので。許して。以上! あ、サークル頑張って」
健吾はそこで勝手に通話を切った。
涼太はスマートフォンをズボンにしまった。
しかし、顔を上げれば、目の前にはサークルのメンバーを代表して、おかっぱ頭の男子学生が怪訝な表情で立ち尽くしている。涼太は思わず足をとめた。
「堀越くん! 今は電話じゃなくて親睦を深める時間じゃないかい? 僕はそう思うよ。全く。これから君と活動すると思うと、先が思いやられるよ、ほんと」
「あ、ああ。あはは。そうだ。そうだね? 俺もそう思うよ」
涼太はそれだけ言って、力なく苦笑した。