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触れ合う心


          1


 ――あれからどれほどの時が流れただろうか?


 ――狼天様は相変わらずの日常を送っていらっしゃる。


 ――私も狼天様についていってからかわらない生活を送っている。


 ――退屈ともいえる繰り返しの生活。でも、私にはそれが幸せだった……。


 ――いつのまにか、その時が来るまで一緒に生きていようと思えるようになっていた。


 時は流れて五年。体つきも大人へと変わり、少女と呼ぶには不相応な外見へとおくぅは成長していた。


 狼天は相変わらず。丸くなったわけもなく、永遠とも呼べる時を過ごすものとして一日の繰り返しを続けているだけだった。しかし、おくぅはそんな犬の妖怪を見守り続けともに寄り添っていた。


 そんな中、都から噂が流れていた。


 ――犬の妖怪討伐命令


 狼天を討とうとする動きがあると、蓮狸からあったのだ。


 狼天はあれからも都の人間を主として襲っていた。私との約束通り、麓の村は襲わなかった。だからこそ、おくぅは狼天を信じ、寄り添ってきた。


 しかし、都の人間の意に沿わない行動を取る犬の妖怪に、当時の幕府は討伐命令を出したという事だ。


「私は身を隠そうと思う」


 ある日、蓮狸が訪ねてそう言い放った。


「あなたはどうするの?」


「ここは俺の山だ。来るなら迎え討つ。必要以上の殺生は好きではないが、俺に牙を剥くなら、慈悲は無い。徹底的に戦意を無くすまで殺す」


「まぁ、あなたならそうするでしょうね。でも、彼女はどうするの?」


 蓮狸の一言に、狼天はすっと視線をおくぅへと向けた。目があうと、彼は眉を吊り上げ長考に入った。


「あなたと一緒にいる以上、彼女も討伐対象になるでしょうね。妖怪に毒された人間として処刑は免れない」


「そんなことはさせん。これは俺の喧嘩だ」


「じゃぁどうするの?」


 二人のやり取りを、おくぅは黙って聞き届ける。


 いつかはこうなると思っていた。むしろ遅すぎるほどだ。確実に狼天を殺す算段が整ったという事か。おくぅの脳裏に一抹の不安が過る。


「しばらくお前があずかれ。大事な女だ、お前も手を出すなよ?」


「大事な女、ねぇ」


 これまでのピリピリとした雰囲気を壊すかのように嫌な笑みを浮かべる蓮狸に、狼天は目元を痙攣させた。


「勘違いするな。こいつは俺の非常食だ。それに、こんなとるに足らんことで人間を死なせたとあっては俺の名が妖怪の世界で地に落ちる。それだけだ」


 そう言うと狼天は「勘違いするな」と威嚇を始めた。


「私は……狼天様と一緒にいたいです」


 自らの意志を示すと、蓮狸が口笛を吹いた。


「茶化すな! それと、ダメだ」


「どうしてですか?」


「ダメなものはダメだ。それに、綺麗な体で俺に喰われたいだろう?」


 赤面するおくぅ。それを見て蓮狸が「それ、狙って言ってる?」っと目を細めている。その真意を理解していないのか、狼天は「何がだ?」と眉間にシワを作っていた。


「とにかく、私も狼天の意見に賛成よ。あなたは私と一緒に来なさい。ほとぼりが冷めるまで、身を隠していた方がいい」


「でも、狼天様は……都の人達が腰を上げてくるのでしょう? 山に火を放たれたら……」


「誰がここで戦うといった? そっちがその気なら、俺から行ってやる。誰に喧嘩を売ったのかその体に刻み込んでやる。ゆっくりとな……」


 「ククク」と肩を揺らす狼天。


「なんか際どい発言だけど、まぁいいわ。そういうわけで、しばらく私と行動してもらうわ。一緒にいたい気持ちはわかるけど、いいわね?」


 蓮狸にそう告げられると、おくぅはしばらく狼天を見つめた。犬の妖怪はそんな視線にきづいているのかわからないが、そそくさと戦の準備を始めていた。


「久しぶりのでかい喧嘩だ。お前が作った刀を全部使わせてもらうぞ」


「それは構わないけど、扱い方を間違えないでよ?」


「そんなものは戦いの中で理解できればいい。殺傷力さえあればなんでもいい。七之柄荒現。その名を人間どもに思い知らせてやる」


「そんな雑な扱いするくらいなら返してもらおうかしら」


 膨れっ面で口にする蓮狸は不満げに立ち上がり、おくぅの手を取った。


「行くわよ。私たちも準備しないと」


 おくぅは少し戸惑いの表情を浮かべるも、狼天の足手まといになりたくないという思いから渋々了承。彼に駆け寄りその顔を見あげた。


「なんだ?」


「どうか気を付けて」


「俺の心配などしなくていい。自分の心配でもしていろ」


「でも……」


「未だにお前という人間が分からん。俺達妖怪のことなど気にしなくてもいい」


 今にも泣きそうな顔をしていたのか「泣くな」と狼天から告げられた。


「じゃぁ、こいつの事は頼んだぞ」


 それだけ伝えると、狼天は刀を自分の毛ほどの大きさへと縮め、犬に変化して出て行った。


 残されたおくぅは住み慣れた洞穴の出入り口をしばらく立ち尽くし眺めていた。


「さて、行きましょう。こういうのは余裕がある方がいい」


「はい……」


 おくぅは胸の前で手を握り、安全を祈った。しかし、そんな思いとは裏腹に、ゴロゴロと雷鳴の音が空を振動させていた。



         2



 事は思った以上に大きくなっていた。


 たかだか一匹の妖怪に、相手はまるで天下分け目と言わんばかりの人員を配置していた。兵はすでに麓の村の近くまで進軍していたようで、その村の近くに陣を置いていた。


 狼天は村近くの茂みに身をひそめその様子を眺めていた。


「まったく、数の暴力だなこれは……。まぁ、そうでもしなければこいつらは俺に勝てないというのを学習しているという事か……」


 肩を揺らして笑みを浮かべる狼天。人型を取った。いよいよ戦紛いの喧嘩が始まろうとしていた。


「妖怪に戦いを挑む。その度胸に免じて俺から仕掛けて行ってやる」


 狼天は服から手のひらサイズの刀を取りだした。それを両手に一本ずつ握り、鞘を抜き捨てた。炎を纏った刀身の刀。そして、黒い刀身の刀。


 それらを握り走り始めた。徐々に加速し、敵陣へと飛び掛かる。


 狼天の存在に気づいた軍勢は恐怖の混じった雄たけびをあげる。「敵襲ううううう!」と声を上げた男は狼天により左右に両断。血しぶきをあげ左右に分かれた。


「さぁ、宣戦布告は終わりだ。俺を、()ってみせろ!」


 狼天が雄叫びの代わりに遠吠えをした。空間を震わせるほどの圧。その場にいる者すべてが鳥肌を立たせた。



          ・・・



 その場所は狼天が住む山からさほど離れていなかった。


 そこにも古ぼけた一軒家がポツンと建っているだけで、かなり使っていなかったのか、到着してから蜘蛛の巣やほこりを払うので時間を費やしてしまった。


 そうして落ち着けたのは陽も落ちかけたであろう時間になってからだった。

 

 喧嘩っ早い狼天の事だ。もうすでに始めているのだろうと、おくぅは思いを馳せていた。


「心配事?」


 蓮狸に尋ねられ、おくぅはハッとなった。移動を終えてから数刻。彼女はそのほとんどを外を眺めることに費やしていた。


 その問いが狼天に向けられたモノなのか、それとも自分に立に向けられたものかのか。その判断が難しいほど思考能力が落ちている。その意図を汲み取るのに、やや数秒かかった。


「安心して、ここは本来私の縄張りだった場所だから。今は、あいつの所にいるから誰も管理してないけどね」


 おくぅの心配事をよそに、蓮狸はケラケラと笑っている。


「よくもそんなに楽観視していられるものだ」とおくぅは皮肉交じりに感心していた。しかし、それもすぐに改めることになる。


「冗談はこれくらいにして、どうして狼天は無謀な事をするのか……そう思っているんでしょう?」


 今度は逆に、心を見透かされたような問いがきた。これにはおくぅはただ頷いて答えることしかできなかった。


「あいつなりのケジメってやつかね」


 そう言い彼女は白湯をおくぅに出した。会釈をしてそれを受け取り温かいそれを喉にゆっくりととおした。


「ケジメ……」


「私たちは人を喰う。生きるためにね」


 そう言い、彼女はおくぅの目を見つめた。一瞬ではあるが、蓮狸からも殺気に似た強い感じ取れた。


「人を喰うという事は、その縁者から恨みを買うという事になる。あいつはその者の恨みも背負う覚悟で喰っている。それが喰うという事でしょう?」


 そう言うと蓮狸は自分の湯呑に白湯を注いだ。


「まぁ、私もかつては人喰いだったし。よく恨みは買っていたわ。討伐対象にもされていたし。まぁ、今は食べてないけどねぇ」


 注がれた白湯に息を吹きかけた彼女は「アチチ」とこぼしつつそれを少しだけ口に含んだ。


「どうしてですか?」


 単純な好奇心。その問いに、蓮狸は天井を仰いだ。僅かに垣間見れたその表情には悲しみと後悔が感じられるほど印象的で、思わずおくぅは唾を飲み込んだ。


「昔々あるところに、一匹の妖怪がいました。妖怪は毎日のように人を襲い、攫い、喰っていました。そんなある時、妖怪は一人の少女と出会いました。少女は生まれつき病弱で目も患っていました」


 ゆっくりと語り始めた蓮狸の顔は懐かしそうだ。


「妖怪は興味本位でその人間としばらく共に暮らすことにしました。情が移った妖怪は彼女の病気を治そうとしました。私という姿を見てほしいと、目を直そうとしました。でも、少女の病気の進行は早く、妖怪の努力もむなしく、死んでしまいました」


 そう言うと、蓮狸は湯呑に入っている白湯を一気に飲み干した。大きく息を吐いた彼女は、思いつめたような顔をしていた。とても印象的でその表情は引き込まれそうなほど艶やかだった。


「その後、妖怪は人を喰らおうとしました。しかし、喰おうとしようにも、あの少女の面影が重なってしまい食べられなくなりました。おしまい」


 蓮狸はそういうと自傷的な笑みを浮かべた。


「間抜けな話でしょう? 人間が一人死んだだけで、そいつは人間が食べられなくなったのよ。おかげで力は衰えるし、人間から隠れるために縄張りの山を捨てなければならなくなったわ。まぁ、そうなってから数百年。すでに討伐しようとする人間もいなくなったけど」


「どうして、そんな話を?」


「フフ……あなたがあの時の少女に似ているから、かしらね」


 蓮狸はそう言い囲炉裏に薪を追加した。パチパチと音を立てるそれは紅く部屋を照らした。


「その方は、少女の事が好きだったんですね」


「でしょうね。じゃなきゃ、人間の病気を治そうなんて考えないわ。人を喰うこともやめなかったでしょう」


「狼天様も――」


 そう言い、おくぅは湯呑に口をつけた。お湯はすでに温くなっていた。



        3



 戦を始めてからどれくらいの時が経過しただろうか。


 狼天の体には矢が数本突き刺さっていた。それを引き抜き、彼は足元に転がっている死体を掴みその肉に喰らいついた。


「グルルル……。グ!」


 背後からの一撃。鋭利な刃が脇腹から顔を覗かせた。それがやりだというのは刃を見て狼天は把握した。


「死ね……化け物め……」


「残念だが……死ぬのは、お前だ! 人間!」


 密着する男に肘鉄を見舞う狼天。「ぐあ!」とのけ反り、槍から手を放した。その一瞬の隙に、狼天は体を捻らせて手にした刀で一閃!


 首から鮮血をまき散らし、男の首が地面に落ちた。さらに噴水の如く吹き上げる深紅の液体。それを一身に浴び、狼天は敵兵の奥にいる一際目立つ男を見据えた。


「いけ! ころせええええ!」


 騎馬隊。歩兵。弓兵。そこにあるすべての兵力が狼天へと襲い掛かってきた。


 数にして五百ほどか。


 しかし、これまでに築き上げた屍が狼天の背後に積まれている。


 狼天はペッと血を吐き捨てると、腹に刺さった槍を引き抜き止血を行った。そして、手にした刀を小さくして別の刀を取りだした。


 その刀身は白銀煌めき、雨に濡れて妖しく輝く。


「あいつが大将か……なら……」


 狼天が地面を蹴った。その速度は馬の脚力の比ではない。刀身は空を裂き、妖気が羽を作っているようにも見える。


 運悪くその刃に触れた物は鎧をまとっているとはいえ、豆腐を切断するかのように難なく両断された。


「あれだけの傷を負っているのに、ば、バケモノめぇ!」


 弓の雨が狼天に降り注ぐ。それを刀で振り落とし、何本か体に刺さってその勢いは止まらない。


 痛みがその体を包み込む。しかし、止まらない。まるで、生きようとする者のあがきを一身に受けるかのように、狼天は突き進む。


 そして、立ちふさがる猛者たちを力でねじ伏せる。その証として、刀で斬り裂いた胴体が宙へとばら撒かれる。


 頭、腕、足、腹。


 人間の部位という部位が戦場に散乱する。まさに地獄絵図といっても過言ではない。それが一人の妖怪によって起こされているのだ。


 兵の大将である男は、気が狂ったように「殺せ!」と連呼している。その声を戦意に変え狼天はとうとう司令官である男の元へとたどり着いた。


「よぉ……」


 体には無数の矢。目には傷が入り片目で相手を見据えている状況だ。


「何をしている、こいつを殺――」


 刹那。狼天の刀の等身が男の首元にあてられた。


「死にたくなければ兵を動かすな」


「あ……うぅ……」


「部下に命令するだけじゃなく、お前も来い」


 燃えるような緋色の瞳が男を射抜く。


 これには蛇に睨まれた蛙のように男は立ち尽くしている。雨でわからないが、額には光るものがあるのが見えた。


「威張り散らすだけで、お前は来ないのか?」


 もう一度訪ねるも、男からの反応は無い。雨音だけが周囲を包み込み、その緊張感の中時だけが流れていく。


 人質を取られた兵もまたその状況に支配され動けないでいた。ただ、武器の切っ先だけがギラついている。


 ややあって状況は動きはじめた。狼天の隙を窺っていた一人の兵が背後より襲い掛かってきた。


 しかし、無情にもその一撃が届くことはなかった。弾かれた武器は空中で回転して弧を描き、指揮を執っていた男の背後に突き刺さった。


 直後、襲い掛かった兵の首を見せしめにとはねとばす狼天。


「二度目は無いぞ。同じことを言わせるな人間」


 狼天の顔が獣のそれに変わっていく。血に染まった顔からはザワザワと体毛が栄えはじめる。口は裂け、ギチギチと牙が大きく変形していった。


「兵を引け。今兵を引くならこれ以上殺すのはやめてやる」


「断ったら、ど、どうするつもりだ……?」


「皆殺しダ。全員食いチラシ、後も残さン!」


 狼天は遠吠えで最大限の威嚇をした。口から洩れる妖気の渦。それが戦場をみたし、まるで死んでいった者の魂を呼び寄せるかのように包み込む。


 それに恐怖した兵は混乱し、逃げ惑い始めた。


「に、にげろおおおおお!」


「たすけてくれぇえええ!」


 みな誰もが討伐隊の頭を捨てて逃げた。


「次に来た時は確実に殺す。喉笛を喰いちぎり、生きたままその腸を引き出し死ぬ直前まで苦しみを与えてやる……。お前が相手をしているのはそういう妖怪だという事を心に刻め!」


 そう言い、狼天は「消えろ!」と言い放った。


 その場にいた者は全員が逃げていった。


 狼天は追わず、その場に崩れ落ちた。


「さすがに……これ以上は厳しいものがあるな……」


 そう言うとゆっくりと山へと帰り始めた。



      4



 ――深夜。


 蓮狸の隠れ家の扉が破られた。


 バリバリ! と木材が割れる音と共に現れたのは血にまみれた狼天だった。


「狼天様!」


 目を覚ましたおくぅが駆け寄る。その体には無数の穴。いつもであれば塞がっている傷だ。しかし、未だにその様子は見られない。


「退いて!」


 蓮狸も駆け寄りおくぅを手を押しのけ狼天の着物を脱がした。


 無数の穴の正体は矢が主だった。しかし、その中でも一際効いていたのは槍での一撃の様だ。貫通した場所からは鮮血がとめどなく流れている。


「狼天様!」


「血が足りない……。このままじゃマズイわね」


 いつもは余裕ある表情の彼女の顔に影がさしている。目が泳いでいる。おそらく最善の手を思考中なのだろう。


 蓮狸はその華奢な体で軽々と狼天を抱え、布団へと運んだ。さすがは妖怪といったところか。


「私は今から動物を狩る。あなたは布で狼天の傷を圧迫してこれ以上体の外に流れないようにして……間違っても、あなた自身を喰わせるような真似はしないようにね」


 警告を残し、蓮狸は玄関を飛び出していった。


 おくぅは言われた通り、周囲にある布で狼天の腹に空いている傷口を抑えて止血を試みる。


「グゥ……アァ……」


「ごめんなさい……」


「もっと、きつく押さえろ……力を使いすぎて治癒に力を回せん……」


 あっという間に鮮血に染まる布。おくぅは新しい布に変えると力一杯圧迫を続けた。


 しかし血は止まらない。とめどなく流れる赤い液体はおくぅの手すらも鮮血に染めた。


 心なしか、狼天の顔の血色がなくなっているようにも見える。それに伴い、意識も遠のいているようにも感じる。


「今しか……。もう、ここで私を――」


 静かに狼天に伝えるように、おくぅは耳元で囁いた。


「何を……」


「今私を食べて下さい……そうすれば、狼天様は治癒能力を高められるのでしょう?」


「ふざけ……ぐぅ……」


 狼天の手が傷口へと向かった。そして、そこにはおくぅの手も添えられている。


 二人の手が重なり、おくぅの手には、温度が逃げかけている妖怪のそれが伝わってきた。


「もう私も子供じゃありません。食べ頃になっているはずです」


 おくぅはそう言い、狼天の体に自らの体重を乗せるように重なり合う。


 そして、その柔肌を見せるように着物をすっとはだけさせた。


「見て下さい……私を……。このままで構いません」


 いつの間にか雨は止み、吹き抜けの窓から月明かりがさしこんできた。


 月光に照らされ、その珠のように美しい肌が狼天の目に飛び込んできた。


「私の肉で狼天様が助かるなら……私は身を捧げます。」


 はだけた着物はおくぅの体を滑り落ちすべてをさらけ出した。


 その光景に、狼天は目を見開く。


 妖怪としての本能。


 ――喰え!


 ――牙を立てろ!


 ――その血を飲め!


 ――肉を引きちぎれ!


 ――喰え!


 ――喰え!


 ――喰え!


「ぐ、グウゥウウウ! ガァアアア!」


 狼天は体を起こしておくぅを壁に叩きつけた。


 バン! という鈍い音がし、整っていたおくぅの御髪が美しく舞い胸元に垂れた。


「フーッ……グルルルルルル……」


 涎を垂らし、紅くギラつかせた瞳はまさに獣。自らに致命傷を負っているのも忘れるほどみなぎっている。


「召し上がれ……狼天様……」


 両手を広げ、すべてを受け入れようと妖怪を自らの体に招き入れようとする。


 クアッ! と狼天が口を開ける。その牙をおくぅの腹へと近づける。そして、今まさに突き立てようとした時、狼天は動きを止めた。


 まるで母親が子供を抱きしめるかのように、おくぅが狼天の頭を撫で包み込んだのだ。


「ち、違う……そうじゃ……ない……」


 狼天はそっとおくぅから距離を取った。


「違う! そうじゃない! 違う!」


 額を抑え、何かと戦うようにフラフラと後ずさる狼天。


「違う! 違う! 違う! お前は、喰わない! 喰わない!」


「狼天様……?」


 はじめてみせる妖怪の姿におくぅは身を起こして近づこうとする。


「来るな!」


 掌を向け、彼は制止を促す。


「来るんじゃない……。俺はお前を喰わない……喰えない……」


 そう言い、狼天は後ろに倒れ込んだ。


「狼天様!」


「何事!?」


 直後に蓮狸が入ってきた。そこには頭が吹き飛んでいるイノシシが担がれていた。


 着物を纏っていないおくぅを見て何を察したのか、蓮狸は服を着るように促した。


「手を借りたいわ。こいつを捌くの手伝って。早く!」


 蓮狸の鬼気迫る顔に、おくぅは着物を羽織り、彼女の言う通りイノシシを捌きはじめた。



         ・・・



「早まった真似をしたわね」


 蓮狸はそういうと、落ち着いた狼天の寝顔を見つめて言い放った。


「でも――」


「怒ってはいないわ。狼天を助けたい一心でやった事というのは理解できるから」


 そう言い、蓮狸は嘆息交じりに囲炉裏に火を入れた。


 月は沈み、太陽がゆっくりと頭をもたげ始めた時刻。暖かい日差しが壊れた戸から差し込み始めている。


「狼天様には、拒まれました」


 落ち込むおくぅ。


「助けるに今しかないと思って身を差し出したのに……私、いらない人間なんでしょうか?」


 そういうおくぅに、狸の妖怪は「あのねぇ」と力なく口にした。


「いらない人間ならそばに置いとくわけないでしょう? ましてや、喰わせようとして拒絶された。でもその相手と暮らしていた。それはそばにいるだけでいいってことじゃないの?」


 蓮狸の発するその言葉には妙な説得力があった。


 おくぅは彼女が口にした昔話を思いだし、それが原因だろうと想像した。


「あいつと最後まで一緒にいてやって。あなたと一緒にいる間は、無茶しなさそうだし」


 そう言うと蓮狸はおくぅの頭を撫でた。


「簡単じゃなくなったわね、あいつに喰われるのが」


 意地悪い笑顔を見せる蓮狸。その笑顔に、おくぅは「はい」と吹っ切れたようにほほ笑んだ。


 陽は完全に昇り、三人を温かく包み込んだ。

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