2
「はぁ…。…撒いたみたいだな…」
五分は走り続けただろうか。相変わらず裏路地の中ではあるが、表の通りを歩くよりは見つかりにくいだろう。
ほどほどのところで足を止め、リオトは周囲の気配を探りながら後ろを振り返る。誰かが追ってくる気配は無いようだ。
「はあ…、はあ…」
安全域まで逃げおおせたことをリオトの言葉から悟った少女はその場にしゃがみ込み、大きく乱れた呼吸を正すことに努める。
なにせこんなに長く走ったのは幼少期以来だったので疲れ果ててしまった。
「……で、キミ、なんで追われてんの?」
見おろしながらリオトがたずねると、ぎくりと少女が肩を揺らす。
逃げたとき、聞き間違いでなければ彼女はあの軍の男からどうやら名前らしい単語のあとに様付けで呼ばれていた。
ごく普通の少女が軍人から様付けで呼ばれるはずがないだろう。
「アリウェシア、とか呼ばれてたな。それがキミの名前?」
残りのクロワッサンに手をつけようと袋を開いてみると、走ったせいで若干形が崩れており、げんなりしたように顔を歪めるリオトの視界の隅で薄桃色の頭がこくん、と揺れた。一緒に靡く長い髪は艶があり、上等な生地であろう真っ白なワンピースを着込んだ体は細く小さく、それでいて白い肌には一つの傷もない。
彼女は少なくとも、一般家庭の生まれではあるまい。
詳しい事情はわからないが、それでも大体の推測はできる。
「大方、親か家がイヤになって脱走でもしたんだろ……」
崩れたクロワッサンであろうとも味は変わらない。構わずリオトは齧り付くが、カリカリの生地は欠け始めていて、ボロボロとパンくずが落ちる。
大正解です。とは言わずに、しかしアリウェシアはがくりと肩を落とした。とそこで、きゅるるる……と控えめな音が響く。
それが自分の腹の虫だと気づいた少女は慌てて腹部をおさえるが、遅かった。
「なんだ。腹減ってんのか」
「うう……」
恥ずかしくなって、答えずに赤くなった顔を俯かせて隠した。
「仕方ねえな…。ほれ」
おそるおそる顔を上げると、目の前には同じクロワッサンが差し出されていた。
焼きあがってからそう時間は経っていないらしく、香ばしいパンとバターの香りが鼻腔まで漂い、さらに空腹を刺激する。
目線を合わせるためか、同じようにしゃがみこんでいるリオトの目にいいのかと問いかけると、食べかけのクロワッサンを口にくわえているため口は開かず、早く食べろと催促するようにずいっと右手のクロワッサンが入った紙袋を差し出す。
「い、いただきます…」
少女はやや遠慮がちに紙袋に手を突っ込んでややボロボロのクロワッサンを一つ取り出すと、小動物のように両手で持って、小さく一口かじった。すると、リオトは微笑んで立ち上がった。
もうこれ以上この少女と関わる必要はないだろうし、探検がてら裏路地を道なりに歩いて表通りへ戻り、師の行方についての聞き込みに戻るとしよう。
そう思い歩き始めれば、どういうつもりか少女が背後をついてくる。
「あの!」
「…なに。てかなんでついてくんの」
足を止めず、顔を向けず、歩き続けながら後ろに言葉を投げる。
「さきほどは危ないところを助けていただき、本当にありがとうございました。あの、お名前は…?」
「……リオトだ」
振り返らずに答えると、後ろからなぜか嬉しそうな声が聞こえた気がする。変なのに懐かれてしまったか。
「リオトさんは旅人さんですか?」
「そうだけど」
「どうして旅を?」
弾んだ声が問いかけてくる。マントを着ているのでそう思ったのだろう。
「二年前にいなくなった師を探してる。ついでに聞かせてくれ。名はカイナ・ベスティロット。見た目は二十半ば、オレよりも背の高い白髪紅眼の優男。覚えは?」
と、たずねられても、少女が知る顔は両手で数え切れる程度だった。そのなかに、挙げられた特徴と合致する者はいない。
「ごめんなさい。知らないです……」
「そう」
自分で聞いておきながらさして興味もなさそうに返したのははじめから返答に期待していなかったからだ。
クロワッサンを食べ終えたリオトは今度は紙袋から細長い貝の形をしたマドレーヌを取り出してかじる。さきほどのパン屋で見かけて、美味しそうだったので一つだけ買ったのだ。
「あの…、リオトさん、お願いがあります」
「聞いてもいいけど後にしてくれ」
「え?」
不意に口を開いたアリウェシアの真剣な言葉を遮ったリオトは上を向いていた。空を見る蒼色の目はやけに細められ、鋭くなっていた。
何を見ているのかと、アリウェシアは同じように空を見上げるが、そこにはなにもない。建物と建物の間の狭い空間からただ空が見えているのみだ。
今食べているマドレーヌで買った物はすべて食べつくしたらしい。マドレーヌを口にくわえ、カラになった紙袋を手早くクシャクシャに丸めると、それを見上げていた上空へと思い切り放り投げた。
丸く纏められた紙袋の塊が重力に抗って引き寄せられるように空へと飛んでいく。
だが突如、紙袋の玉になにかが突き刺さり、今度は逆に、リオトの真横を通過して落下。
驚いたアリウェシアは何が起きたのかと落ちた紙袋の塊を探す。側に転がっているそれにはナイフ、に近い形をした黒い刃物が刺さっていた。
再び前を向くと、リオトはさした反応も示さずに上空を睨み続けていたが、まだ、その先にはなにも見えない。アリウェシアも目を凝らし、その正体を見極めようとするが、あるのは高い建物の壁とその間から見える昼下がりの空。
しかしリオトには見えた。こちらへ向けて迫る、
───刃を。
「下がれアリウェシア!」
言い終わるや否や、リオトはマントの中から刀を振り抜く。
突風とともに刀身がガキンとなにかにぶつかり、火花が散った。
「きゃうっ!?」
煽られたアリウェシアの小さな体が後ろへ押される。
「な、んだてめえ…!」
迫り来る刃をなんとか受け止めたリオトは目の前の、どうやら人らしきソレを睨みつける。
向けられている刃はリオトが握る刀と同じ、遠い東の國に伝わるわずかに反りのついた片刃の剣。つまり、刀だ。
リオトよりも大きな背と体格に黒い装束のような変わった衣服を纏い、口元はマスクに覆われていて、榛色の髪から覗くアメジストの瞳がこちらを見据えている。マスクと髪で隠れてはいるが、相手はおそらく若い男だろう。
すると、
「……っ!」
───……ん?
不意に、リオトを捉えていた双眸が怖気づき、刀が弾かれた。
「……っとと!」
バランスを崩しかけながらも飛び退って体勢を立て直し、再び構える。
「リオトさ───きゃっ!?」
「っ!」
背後で悲鳴が聞こえて振り返ると、アリウェシアがさきほどの軍の兵達に後ろ手に腕を掴まれ拘束されていた。
助けようと足が動くが、手が空いている兵達に武器を向けられ、後ろには装束の男がスキをうかがっている。リオトは動けなくなってしまった。
これでも鍛えてはいる。戦ってもいいが、多勢に無勢だ。こんな細い裏路地では動きにくいし、あちらには槍を持つ者もいる。長い柄を利用されすぐに動きを封じられるだろう。
建物の屋根の上へ逃げるにも、いささか高すぎる。
「旅の者、」
おそらくリオトを指している思われる、低い声が飛んできた。次いで、兵達の後ろからゆっくりと歩いて来る足音が一つ。
やがてリオトに武器を向けたまま、兵達の何人かが道を開け、一人の男が姿を現した。
リオトよりも頭一つ分高い背丈に着込んだ軍服の上から肩、腕、胴部、腰のそれぞれに鎧をはめている。左腕には階級を表しているのか、腕章らしきものがついており、背には一振りの剣を背負っていた。
「貴様を、皇女殿下誘拐の罪で拘束する」
「は?」
皇女殿下だと?いつ、どこでそんなやんごとない身分の女性に会っただろうか。
理解できてないリオトは眉をひそめる。
「誤解ですメルヴィルさん! その人は───!」
「アリウェシア様!」
「みなが心配しております! どうかお戻りください!」
必死に叫ぶアリウェシアを、腕を掴んでいる兵達が引き止める。どうやら知り合いらしいが、彼らは聞く耳を持たない。
「武器を捨て、おとなしく投降せよ」
後ろにいる彼女に振り返ることもなく、兵たちに捕らえよと命令を出す。それを受けた兵達が未だ刀を構えたままのリオトを警戒し、ジリジリと距離を詰めていく。
誤解なのかなんなのかすらよくわからないが、いずれにせよ、見逃してはくれないらしい。少なくとも彼女に危害を加える気も無いようだし、こ こはおとなしく捕まるのが吉か。
リオトは呆れと諦めのため息をつきながら刀を鞘に収めると、白旗代わりにひらひらと左手を振って男に刀を放り投げる。
「ほら、よっと……!」
八つ当たり気味に少し強く、乱雑に投げてみたが、眉一つ動かさず、涼しい顔で容易く受けとめてみせた男に、リオトは隠すことなく不愉快そうに顔を顰め、舌打ちをする。
「その腰に下げた銃もだ」
「なんでわかったんだよクソッ!!」
マントで見えていないと思ったのだが、目敏いやつだ。ホルダーを外し、再び悪態とともに男に投げつけてやる。
「リオトさん!」
男の後ろで泣き出してしまいそうな声で名を呼ぶアリウェシアに苦笑いを向け、再び目の前の男を睨む。
すると、背後にいる装束の男の気配が近づいてきて、頚部に手刀を入れられたのか鈍い痛みが脳にまで響いた。
「うっ!?」
「リオトさん!? リオトさん!」
途端に意識が揺らいで、バランスを崩したリオトはその場に倒れ込む。何度も名を叫ぶアリウェシアの声が徐々に遠くなっていって、武器を収めた兵士たちの足が目の前に並び、
───暗転。