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神器が盗まれているという報告をシュヴァルツが聞いたのは、予定通りあとから駆けつけた増援たちからだった。
ルミドリフの目的が掴みきれていなかったために神器紛失に気づくのが遅れたのである。持っていったのはルミドリフだろう。すぐにそう踏んだシュヴァルツはリオトたちのもとへ急いだ。が、追いついた時にはすでに戦闘は終了しており、無論神器はとっくにガラクタへと変わっていた。
知っていれば止められたのに。まさか、ルミドリフがそんなものを盗んでいたなんて……。
預かった朝食を届けに地下牢へ降りる神影の足取りは重い。
静かで湿り気のある地下牢に足音が大きく響く。五つあるうちの奥から二番目の地下牢。その鉄格子の向こうの古びた粗雑なベットフレームの上でシーツより薄い古びた布団にくるまって蹲る背中が見えた。よく見ればカタカタと小刻みに震えていて、なにやらぶつぶつと呟いている。
「死にたくない死にたくない死にたくないいやマジこんなところで死にたくない……!」
溢れる悲壮感に胸が痛んできた。声をかけづらい。
「あの、リオト殿……」
「ごめんなさいごめんなさい諦め悪く抵抗するジジイにキレたオレが悪かったですお願いですから命だけは取らないでくださいマジ頼みますから!!」
ここで死ぬわけにはいかないんです!と叫びながらベッドフレームから飛び退って奥の壁際まで逃げるリオトは今朝、地下牢に戻される際に再び武器を取りあげられ、血だらけになった服はシュヴァルツから借りたワイシャツに変わっている。
あんなに怯えられると、虐めているような気がしてきて罪悪感がすごい。
「朝餉を預かってまいりました。よければご一緒させていただきたく……」
それぞれに朝食が乗った盆を見えるように差し出すと、今度はリオトは壊れたように渇いた笑いをこぼす。
「ハハハ……、最後の晩餐ならぬ最後の朝餉ってやつですかね……。アハハハハ……」
ダメだ。目が死んでいる。
いたたまれなさを感じながらも、神影は鍵を開けて牢に入る。この隙に逃げるだろうかとも考えたが、その様子はなく、リオトはすっかり意気消沈した様子でベッドフレームに腰掛けた。
妙なところで潔い人だ……。
「はい。どうぞ」
膝の上に二つのうち一つの盆を乗せて差し出すと、無言で手を付け始めた。神影も隣に腰掛け、膝に盆を乗せて手を合わせる。小さい時から身に染みている東方の礼儀作法である。
普段なら地下牢に入れられた人間には水とパンしか出さないが、皇女殿下を助けてくれたからと軍の食堂で用意されたものを持ってきた。
小ぶりなロールパン二つに明るい色のピーマンが彩りを添える葉物のサラダ。シンプルに胡椒のみで味付けされたスクランブルエッグとベーコンをメインディッシュに、クリーミーなコーンスープにくわえてコーヒーがついている中々に豪華なメニューだ。が、サイズが大きいために捲られているシャツの袖から手を出してロールパンを齧るリオトの表情は虚無そのものであった。
神影も、このあとリオトにどんな処遇が下されるのかは知らされていない。確かに神器を壊したが、しかしこのまま斬首刑なんてあんまりだとシュヴァルツやフェイオンドに直談判したが二人とも揃って険しい顔つきで、全力で皇帝や元老院に掛け合うと約束してくれた。
ならばあとは朗報を待つのみだ。その間に神影はもしかしたら今後を不安に思っているのではないかとちょっとしたお節介でこうして朝食を共にしに来たわけだが。
話題にとんでいるわけでも、話術が巧みなわけでもないため、来たはいいがまったく励ませていない。この際なんでもいい。ここはとにかく彼の気を紛らわせることに集中しよう。
「あの、リオト殿。さきほど、ここで死ぬわけにはいかないとのことでしたが、リオト殿はどうして旅を?」
そこまで言うからには、彼にとってこの旅はただの趣味や物見遊山ではないということだろう。旅をすること自体に意味があるのか、もしくは目的地があるのか。いずれにせよ神影にはその真意を測りきれない。
ちらりと隣を盗み見ると、リオトの頬はしばらくむぐむぐと動いていた。フォークはサラダの上に立っているので、サラダを咀嚼しているのか。
「……三年前に消えた師匠を探しているんだ」
一人ぼっちだったところを拾ってくれて、ずっとそばに置いてくれた心優しい人。ところが三年前のある日、リオトになにも告げず忽然と姿を消してしまった。
手掛かりになるようなものは何一つなくて、それでもすぐに後を追って、彼と共に住んでいた村外れの小屋を出た。
「オレはなんとしても師匠を見つけたい。見つけて、どうしていなくなったのか、どうしてオレを置いていったのかを聞きたい。どうしても……」
どうしても、もう一度会いたい。あの人が居なくては、もはや生きている意味がなくなってしまう。自分を見失ってしまう。
「名前はカイナ・べスティロット。背丈はちょうどシヴァぐらいの、白髪紅目の優男だ。覚えは無いか?」
神影はスクランブルエッグを掬いあげて口に運びながら思案する。
シュヴァルツぐらいとなるとかなり長身だ。しかも白髪紅目とくれば目立つ容姿をしている。が、神影の記憶のなかにそんな印象深い人物はいない。
「申し訳ありませぬ。そのような方は見たことが……。あ、お見かけしましたらすぐに報せますゆえ、どうか気を落とさないでくだされ!」
首を振ったかと思えば慌ててそう続ける神影に、ありがとうと、リオトは力無く笑った。
「なあ、最後かもしれないしお前の話も少しでいいから聞かせてくれよ。神影は東の國の出身なんだろ?」
どうしてわかったのか、なんて問うまでもあるまい。口調がまず独特の訛り方をしているうえに着ている軍服はそれこそ東の國で特に隠密活動をする者たちがよく着る装束を模して作ってもらったものであるし、まず刀と呪符を使って戦う者自体珍しいだろう。
「東の國は東の海の果てにあるって話だ。それがなんでわざわざこんなとこまで来たんだ?」
リオトの言葉通り、東の國は地図上では航海に早くてもひと月弱かかる広大な海を越えた先にやっとある小さな島国だ。よほどの物好きはそれでも海を渡ることもあるそうだが商いなどの頻繁な交流は難しく、東の國は固有の文化を保ったまま栄えていると聞く。
「そう、ですね……。この身はまだまだ半人前ゆえ、修行の一環として見聞を広めるべく、というところでしょうか……」
あながち嘘でもないが、しかし本当の理由でもないことは確かだ。ただ言えることは、目の前の背中を追うリオトと違い、自分は、目の前の背中から目を逸らして逃げた腰抜けだということ。
その人のことを嫌ってはいない。寧ろ尊敬している。今でも。だが、今はまだ、胸を張って向かい合うことは出来そうにない。
今度はリオトが神影の顔を盗み見る。彼の手は掴んだロールパンを口の前に持ってきたまま固まっていて、その表情は決して明るくない。
これ以上は追求しないほうが良さそうだと、冷めたコーンスープを飲みながら話題を切ったその時だった。
「リオト、朝食は済んだか?」
ガシャンと甲高い音が隣から聞こえて、神影は我に返った。顔を向ければ、そこにはひっくり返った盆と朝食がある。部屋の奥に目を向けると、隅っこで再び怯えるように蹲っているリオトがいた。
上から降りてきたシュヴァルツが鉄格子の前で苦笑している。
「驚かせて悪かったな。お前の今後の処遇が決まった。結果的には最悪の事態は免れたぞ。お前の斬首刑は無しだ」
「それは本当ですか! メルヴィル少将!」
神影は鉄格子を挟んでシュヴァルツに駆け寄る。
「ああ。まずはフェイオンド大佐の執務室に来てくれ。ちょうどいいから神影も一緒に。そこで詳細を話そう」
「……わかった」
確かに喜ばしいが、シュヴァルツの言葉には含みがある。満面の笑みではなくともとりあえず頷いたリオトは神影とともに牢を出た。
手枷はされなかったが、それでもわずかに、心の中に不安がうずまく。