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「───……念のためルミドリフと男たちは別々に移送しろ。お前たちは屋敷内を回って残党と細工や盗まれたものがないか見てきてくれ」
ゆっくりと浮き上がる意識のなかで、シュヴァルツが指示を出す声に揃った返事が返り、複数の足音が遠ざかっていくのが聞こえた。
続いて体の感覚が戻る。春の日差しのような、心地よい温かさが体を包み、そして、慈しむように、労わるようにそっと頭を撫でられているのがわかる。
目を開けると、ぼやけた視界はわずかに明るいが、見知った天井ではなかった。
「いてて……」
忘れていた痛みが一緒に戻ってきて、軽い静電気のようにびりりと体を走り、存在を示す。
「リオトさん! よかった! 気がついたんですね!」
真上からアリアがのぞき込むと同時に、体を包んでいた温かさが消えた。そうだ。なんとかルミドリフと暗殺集団の連中を張っ倒して、力尽きたのだったか。
「ルミドリフたちは……?」
「リオトさん達のおかげで捕まえることが出来ました。今兵士さんたちが連れていったところです」
なら、一安心だ。真上にあるアリアの顔がやけに近いことと、頭の下にあるものが心地よく程よい柔らかさを有していることからおそらく彼女に膝枕をされていると悟ったリオトは体を起こす。
案の定彼女はまだ動かない方がいいと言うが、白馬の王子か夫であるならばいざ知らず、赤の他人が一国の姫に膝枕をさせるなどあとのツケが怖すぎる。
大丈夫だと振り払って起き上がり、アリアと向かい合う。シュヴァルツたちが用意させたのだろう明かり代わりのランタンの隣で毛布に包まる彼女はいささか不服そうに唇を尖らせていた。
「むう……」
なにが不服だったのかはてんでわからないが、さすがは一国の姫君。唇を尖らせる姿がかわいい。いや、出会った当初からなんかえらいかわいいなとは思っていたが。
まあそれは置いといて。
「アリア、君は、治癒術が使えたんだな」
目覚めるまでずっと治癒術をかけてくれていたようだから、血がべっとりとついたシャツの下の傷口は、おそらくもう完全に塞がっただろう。とはいえ、痛みはもうしばらく居座っているだろうが。
周囲で片付けや調査に動き回る兵たちには聞こえない程度の声量で言うと、アリアはリオトの顔を見て、少しバツが悪そうに俯いた。
「……はい。優秀な術士でも使える人は滅多にいない治癒術を、なぜまともな訓練も受けていない私が使えるのかは、わかりませんが……」
わかりやすく言えば着火剤と同義である詠詞を詠唱することにより発動させる詠唱術。この世で確立され、使用されている詠術はほとんどが攻撃、または防衛目的のものばかりで、治癒術などという便利なものが使える術者がいるという報告例は少ない。
当然だ。この世に存在する精霊の力を借りて行使すると言ったって、治癒術は人体に直接作用し、まだまだ謎が多く解明されていない分野だってある生き物の細胞に直に干渉して回復を促すもの。乱暴な言い方をすれば、傷も病も無理矢理治している。それは軽い人体実験と言って差し支えあるまい。
そんなものが扱える人間がほいほいいるなんて世も末だ。こわすぎて夜も眠れない。
だから、ルミドリフがアリアを狙ったことにも頷けるし、シュヴァルツが彼女に関して口を閉ざしたことにも納得がいく。
「黙っていて、ごめんなさい……」
「いや、寧ろ賢明な判断てもんだ。ましてオレは、ふらりと現れた素性の知れない余所者なんだからな」
でも、それでは命をかけて助けに来てくれたリオトに申し訳がない。そこまでする義理は無かったはずなのに。
俯いていると、頭に温もりがのった。顔を上げると、優しく笑うリオトの深い青色の双眸と目が合う。
「ありがとう、アリア。オレに秘密を晒してまで助けてくれて」
「私の、方こそ……。黙っていてごめんなさい……。助けに来てくださって、本当に……、ありがとうございます!」
笑顔で応えたはずだったのだが、頬に涙が伝っていた。するとリオトは気まずそうに顔を逸らし、頬を掻く。
「姫さん泣かせちまうとは、こりゃ、後が怖いねぇ……?」
苦笑するリオトがアリアの涙を指で拭ってやっていると、あらかた片付けを終えたシュヴァルツがやはり明かり代わりのランタン片手に神影を連れて近づいてきた。
「気がついたか。私が駆けつけるのが遅すぎたせいでかなり出血したように見えるが、その様子では大丈夫そうだな」
「ああ、アリアのおかげで命拾いしたよ」
彼女の方を向いて笑いかけると、アリアは慌てて涙を手で拭って笑い返してくれた。
「皇女殿下もご無事で何よりです。それで、リオト殿……」
神影がリオトを呼ぶ。顔を向けるや否や、神影は言いづらそうに口ごもり、あの、その、ともごもご言い始める。二つに増えたといってもランタンの微かな明かりしかないこの状況ではよく見えないが、その顔色はいささか青い気がしないでもない。
「なんだよ。何かあったのか?」
「リオト、実はだな……」
訝しげな表情をしていると、シュヴァルツが神影の言葉を引き継いで口を開きながら持っていたランタンを脇に置き、なにやら布を取り出す。
「これを壊したのは、リオトか?」
差し出された布に包まれていたのは先ほどの戦闘でルミドリフが使用していた術具の鏡だった。しかし壊した、というシュヴァルツの言葉通り、その鏡は今リオトによって破壊され、ただの鋭い破片と化している。
「ああ。ルミドリフがそれで詠術を使ってしつこく抵抗するもんだから……」
それがどうかしたのかと首を傾げていると、シュヴァルツは片手で目元を覆い、神影に至っては見るに堪えないというように完全に顔を逸らしている。
「な、なんだよ……! その鏡がなんだってんだよ!?」
壊した相手に呪詛でもかけるような厄介なものだというのか。もったいぶった言い方をするものだから、まだ何も言われていないにも拘わらずリオトまでもが顔を青くする。すると、隣のアリアが不意に口を開いた。
「まさかと思っていましたが……。この鏡は……、ひょっとして……」
「なに!? なんなの!!?」
いよいよアリアまで顔が青ざめる。
半ば叫んで先を促すと、目元から手を下ろしたシュヴァルツがため息をつき、そして重々しい口調で語る。
「リオト、この鏡は触媒にすることで詠術の威力を高めるのだが、それだけではないんだ。この鏡は、アーヴェイド帝国の代々の帝が受け継いできた神器。皇帝であることを示す証。とどのつまり、───国宝ということだ」
空が白み始めた頃。生い茂った森の中の古びた屋敷の中で、リオト、二度目の卒倒。