1-2 慣性の法則
あの日、ハヤトは人気のない夜道を自転車で走り抜けていた。
(くそっ、まさかこんな時間まで補習が長引くとは思ってなかった!)
そんなことを心のなかで呟きながら、ペダルを漕いでさらに加速していくハヤト。
この道は山の上にある学校と街をつなぐ、とても急な下り坂なのだ。自転車の速度が出すぎて危険なため、本来なら生徒の通行は学校によって禁止されているのだが、家に帰るにはこの道が一番の近道なのだ。こんな時間まで残されたことへの怒りをぶつけるように、ハヤトは立ち漕ぎで自転車を一気に走らせていく。
登下校の時間帯には、この道を通る生徒がいないかどうか監視するために教師たちが立っていたりするのだが、こんなに遅い時間まではさすがに残ってはいない。カバンを突っ込んだ前カゴをガタガタと言わせながら、年季の入った愛車を全力で漕いでいくハヤト。
ここは広い二車線道路なのだが、ハヤトは道の真ん中を堂々と進んでいた。この道の上にあるのは廃止された採石場だけであり、途中にあるのもハヤトが通っている学校だけなので、この時間に上ってくる車など皆無なのだ。ちなみに暴走族には人気があるらしく、真夜中には時々バイクの騒音が響いてきたりもする。その理由というのも、
(来た、魔の100度カーブ!!)
見えてきた白いガードレールを見て、ブレーキへと指をかけるハヤト。この道は山肌にそって造られているため、大きなカーブが何ヵ所かあるのだ。そして、今見えてきたのはその中でも最大の、魔の100度カーブと呼ばれているポイントだったりする。下にあるのが大きな池なので、カーブの向こうは断崖絶壁になっているのだ。
ここから落ちて死んだ暴走族の幽霊が手招きしてくる、なんて噂が流れるほどに急なこのカーブこそが、生徒の通行が禁止されている最大の理由なのだろう。だがハヤトとしても、暴走族の幽霊に手招きされてホイホイとついていくほどの勇者ではない。こんな所で昇天するつもりなんてさらさら無いのだ。
とりあえずハヤトは昇天しないためにも左右のブレーキを強く握り、出すぎた速度を落とそうとする。だが、その瞬間、
「ん?」
ふと聞こえてきたのは、バチンという何かが切れたような音。それと同時になにやら小さな部品らしきものが目の前で弾け飛び、握っていた左ブレーキの感覚が突如としてなくなる。
脳裏をよぎる嫌な予感に、左ブレーキへと視線を落としてみるハヤト。
すると左ブレーキの根元、ブレーキレバーと車輪を繋げている線の接続部分がぷっつりと切れていた。ブレーキとしての機能を完全に失い、プラプラと力なく揺れる左ブレーキ。それが意味することを理解して、ハヤトは思わず叫んでしまう。
「ちょっと待って!? 長年の整備不良が出るにしても、さすがにタイミングが悪すぎる!!」
だが、叫んだ所でなにかが変わる訳ではないのだ。このままの速度では、絶対にこの急カーブを曲がりきれないのである。すぐそこにまで迫ってくるガードレール。それを見たハヤトはなんとしても速度を落とすため、残った右ブレーキをとにかく全力で握る。
しかし、この時のハヤトは気づいていなかった。
日本の一般的な自転車は右ブレーキが前輪、左ブレーキが後輪にかかる仕組みになっている。当然、ハヤトの自転車も例に漏れずそんな作りになっているのだが、ハヤトが全力でかけたのは前輪に繋がる右ブレーキなのだ。
つまり。
急な下り坂、かつ相当な速度が出ている今の状況で前輪だけをロックなどすれば、当然のごとく自転車はつんのめったようになる。
「ーーー!?」
ガクンッ、と90度にまで傾きながら急停止するオンボロ自転車。そこから慣性の法則に従って放り出され、ハヤトは一瞬にして宙を舞う。そして浮遊感の中で、すぐ下を白いガードレールが過ぎ去っていく。
(ーーーK点越え!? まさか俺、本当に昇天するの!?)
呆然としたまま宙を舞うハヤトは、そのまま重力に引かれて背中から落ちていく。それでも、何か掴めるものはないかと必死に手を伸ばしてみるが、その手は虚しく空を切るだけで何も触れるものはない。そして、白いガードレールは一気に遠くなっていく。どうすることもできないままに、ハヤトの体はさらに加速していく。
そして。
「ーーーっぐ!?」
背中を襲ったのは、すさまじいほどの衝撃。それと同時に全身を走り抜けた激痛によって、ハヤトの意識は一瞬で遠退いていく。
(・・・俺、死ぬのか?)
自分の体が、冷たい液体に包み込まれていくのがわかる。おそらく、下にある池の水面へと背中から叩きつけられたのだろう。プールに腹から飛び込んだ時のことを想像してもらえればわかるように、水とはいえその衝撃は途方もないものになるのだ。
全身から力が抜け、ゆっくりと沈んでいくハヤト。
手足には一切力が入らず、視界は徐々に霞んでいく。そして鼻と口からは、冷たい泥水がどんどんと侵入してくる。どうすることもできないまま、ゆっくりと冷たい水底へと引き込まれていく。
そして、すぐに。
濁った水中にいるためか、ぼんやりと滲んだ視界でやけに大きく見える月を見つめながら、ハヤトはゆっくりと意識を失った。