桜花特別攻撃、発令 三 白河みつき
──熱い。痛い。苦しい。
聞こえるのは音だけ。
みつきは背中に生暖かいものを感じていた。
その生暖かいものが腕を伝ってくる。痛くて、息が吸えない。未だ味わった事の無いこの痛みは悶えるほどだというのに、全く身体が動かない。
視界はぼやけていて地面がぼんやりと見えているだけ。
それなのに、空襲で真っ平らになってしまったこの街の景色が鮮明に見える。
そして、この瓦礫の中で人が倒れている。
その人を見ているはずなのに、手を動かそうとする感覚も、身体の痛みも感じる。
(あれは……私……?)
見慣れた腕、髪型──そう、目の前で背中から血を流して倒れているのは私だ。
そして、これを見ているのも私なのだ。
不思議な感覚だった。まるで、もう一人の自分が自分を俯瞰で見ているような。
そう、私は走っていた。
背中にパスンパスンと地面に刺さる弾の音を聞いたと思ったその時──熱く鋭い、刺すような痛みと共に私は地面に倒れ込んだのだ。
(あの紙は……?)
みつきはもう一人の自分に近付いて、握っていた紙を覗き込んだ。ボロボロになっていて、辛うじて読めるその文字は『戰死』と読めた。
そして散らばった紙類には『海軍』と押印してあり、日本海軍関連のものなのだという事がすぐにわかった。
けれども、どれも読めない立派な文字が書かれている。誰かの軍歴の履歴書、縦長の蛇腹に折り畳まれた『預金通帳』と書かれた紙と、誰かの手紙──。
それを読もうとみつきは手を差し出したが、私の手はそれを通過してその紙に触れる事ができなかった。
(触れない)
思わずみつきはもう一人の自分に目をやると、右手には大事に誰かの軍服を抱いていた。
「紀さ……」
辛うじて出した声。
倒れていた私が出した声は一人の男の名前だった。
「もうすぐ……紀さんのところへ……逝きますから」
口の中に砂利や煤が入って、血なのか唾液なのかもわからない不快感を覚えながら精一杯言った。
不思議な気持ちだった。今、あの人とは恋仲ではなかったはずなのに、まるで心を通わせた仲のような気持ち。
心から愛して、愛されていた──そんな気がする。
飛行機の事も、未来の事も、海軍の事も何も知らない私は、そう、ここ東京で櫻井さんの帰りを待ち続けていたんだ。
「生まれ変わったら絶対に……あなたを救うから。あなたを救える人になって、もう一度……出逢い直すの」
そう言った私は、大きく息を吐いた。そして二度と息を吸わなかった。
私は目を開けたまま横たわっていた。二度と動かない瞳はどこを見ているんだろう。
前髪だけが風に靡いて、時間が過ぎていくのをみつきはただ見ていた。
やがて数人の街の人々が集まってきて横たわる私に指をさすと、頭に星のマークの帽子を被った陸軍の人間二人がやってきた。
陸軍の人間がもう一人の私に布を被せた後、私を二人がかりで抱き上げ、リヤカーに載せた。
私が大切に抱いていた紺色の一種軍装や、散らばっていた紙はその場に取り残された。
私が持っていた軍服をリヤカーを運ぶ人間に踏み潰され、みつきは思わず
「やめて! 踏まないで!」
と声を上げた。
勿論みつきの声なんて彼らに届くはずもなく、それを止めることも出来ずにただ、やめてと涙声になって言う事しか出来なかった。
未来の私には、その軍服が誰のものなのか知らないはずなのに、とても懐かしくて──そしてとても悲しい。
私は軍服に手を触れた。
軍服に手を触れても、手はそれを通過するだけ。
通過する手で、愛しく軍服を撫でた。
踏み潰されて汚れた紺色の軍服の首の後ろのタグに『櫻井』と書いてあった。
「櫻井さんの軍服……」
そして、もう一人の私が持っていたと思われる風呂敷もその場に落ちていて、いつか見せてくれたあの認識票が落ちていた。そこには『櫻井紀 ヨヒ五三八二』と書いてあった。
(櫻井さんは死んでしまったの……?)
未来の私がそんな事を思った。
いや、本当は私は知っている。
櫻井さんが死んでしまっている事を。
風が吹いて、散らばった紙が遠くへ飛んでいく。
「あっ、待って」
みつきは走ってそれを追いかけた。やがて風が止み、紙が地面に落ちる。
くしゃくしゃになったその紙から僅かに
『死亡通知書』
と書かれているのが見えた。
あの軍服も、数々の書類も──全て彼のものなのだ。
「紀さん……」
思わず、未来の私はそんな風に呼んだ。
生前、過去の私は彼をそんな風に呼んでいた。死の間際だけでなく、ずっと前から。
ふと、モンペのポケットに手を入れると、見覚えのある小さな猫のぬいぐるみが入っていた。
「これは……」
そう、未来の私が彼に渡した手作りの猫のお守りと同じ作りのもの。確かこれは、無事に帰ってこれるように過去の私が作ったお守り。結局渡すことが出来なかったのを覚えている。
整備士と搭乗員という関係ではなかったからジュラルミンは入っていないけれども。
「そっか、渡せてなかったんだっけ」
未来の私はそう、呟いた。
あの人と結婚をする約束をしてたかまでは覚えていない。
ただ、愛し愛されていた、再会を約束していた。
けれども──
桜が散り、葉桜になった頃、私に一通の電報が届いた。
それは櫻井紀──彼の戦死の報せだった。
それと同時に、遺言書に私の名前があるからと、鹿屋から送られてきた遺品が海軍省に保管されているから取りに来いとの事だった。
私が命を落としたのは、遺品と書類を取りに行った帰りの事だった。
死ぬのはとても苦しい事だったけど、彼と同じ場所へ逝けるのなら死は怖くなかった。
また、紀さんと出会い直すの
紀さんを救う為にここへ来るの
救える私になって、今度は帰ってきてもらうの
そう、死の瞬間強く願った。
未来の私が特殊航空整備士になったのも、昭和時代へタイムスリップした事も全て彼を救う為に過去の私が願ったもの──
そう思ったところで、みつきはハッと目を覚ました。
見慣れた下宿の木の天井、そして硬い布団と蕎麦殻の枕。
「今のは……夢……?」
夢の余韻が強く、みつきは上体を起こして自分の身体を確かめるように触れた。
昭和時代へタイムスリップした意味。それは長らく忘れていた、生前の自分の願い。
みつきは起き上がって窓を開けた。遠くで桜の木が咲き始めているのが見える。過去に戦死の報せが来たのはもう少し先。
「この時代で死んだ私が……私を呼んだのね」
もんぺのポケットに手を入れると、夢で見たあのお守りは入っていなかった。




