出撃前日の罪滅ぼし 二
料亭へは徒歩で行くわけなのだが──途中、線路が空襲でズタズタに破壊されているのを鉄道員や軍属の人間が、空襲警報の合間を縫って必死に線路の補修をしている。
鹿屋市街地に行く途中、空襲警報が二度も鳴り、本来なら数十分で着くはずの鹿屋市街地も一時間もかかってしまったわけで。
空襲も慣れたもので、機銃掃射も軸線にさえ入らなければ当たらないので、隠れもせず堂々と見物までしてしまった。
三〇六飛行隊の士官はたったの六名。神崎、第三中隊の分隊長である伊澤大尉、そして櫻井、相馬、第七小隊の屋代中尉、第五区隊の渡少尉──その六名で料亭に来ているわけなのだが、料亭に着いても、浮かない顔をして櫻井は黙り込んでいた。
目の前にビールが注がれていくのをじっと見つめながら、こんな最中に来る必要があるのか、なんて櫻井は思っているわけなのだが、飛行隊長である神崎の誘いならば断れない──いや、こんな最中だからこそ行くのだろう。
断る理由などは特段あったわけではないのだが、嫌な予感がして気が収まらないのが事実。
「櫻井、どうした?」
あまり気乗りのしない顔をしているのがわかったのか、櫻井の顔を覗き込んでくるのは、隣に座っている飛行隊長の神崎。
「いえ……心配性故、憂い事が尽きないもので」
櫻井がそう謙遜していると
「何だ言ってみろ」
と、神崎が促す。
櫻井は少し戸惑いを覚えながら
「整備の本隊が今日の午前には着く予定と聞いておりますが……私には無事着くとは思えず……」
と言うと、
「おい、櫻井これから飲むって時に仕事の話かよ! 今くらいはそんなこたぁ忘れんとよ?」
と、目の前の席に座っていた相馬が横槍を入れてきた。
「櫻井は本当に真面目だなぁ」
斜め前に座っている屋代が言った。彼も同じ十三期予備学生出身である。
「なるほど……。俺も実は気にはなっていた。だが、俺達があれこれ心配したところで何も出来やしないからなぁ。道具があるわけでもない、こればかりは神頼みだ」
神崎が言った。
──神頼み
そんな事、日本の命運を左右するであろう重大な作戦にそんな事があってはならないはずなのだが。
整備状況を神頼みにするほど、日本は落ちぶれている事を認めたくはなかった。
神崎は
「いいか。俺達の仕事は今あれこれ憂う事じゃない。とにかく相討ち覚悟で、全力で陸攻を護る事だ。伊澤、櫻井、相馬、屋代、渡──貴様らにしっかりと統率をとってもらいたい。俺達は最悪目眩し、言わば盾だ。陸攻だけは堕とさせない覚悟を持て」
と真剣な眼差しで言った。
神崎の言葉を皆黙って聞いている。
明日はきっと苦しい戦いになるだろう──そんなこと、ここにいる誰もが感じていた。
神崎を挟んで隣に座っていた伊澤が
「じゃあ、乾杯しましょうか」
と言った。
神崎はそうだな、と言って、ビールの注がれたグラスを少し高めに上げた。
「明日は俺達にとって日本の命運を懸けた作戦があるだろうが、今日はそんな事を忘れてとにかく飲もう。明日にはもう無いかもしれない命、明日の為に今日くらいは楽しもうじゃないか。では乾杯」
と言って、それに続いて皆で
「乾杯」
と言った。
久しぶりに飲むビールを櫻井は一口飲んだ。
「そんな控えめな飲み方じゃ俺の用意した酒が飲めんじゃないか。ほら、一気に飲めよ?」
神崎に言われて、櫻井は苦笑いをしながらビールを飲み干すと、神崎はニコニコとしながら給仕に一升瓶酒を持ってこさせた。
「見てくれ、陸攻の飛行隊長、野中少佐が愛飲している『森白汀』だ。験担ぎで俺が今日特別に取り寄せて用意したんだ、さあ飲め」
「恐れ入ります」
神崎にグラスに酒を注がれ、飲め、と促される。九州独特の芋臭い焼酎を一口飲み込むと、久しぶりに喉の奥が痛くなる感覚がした。
「この酒はアルコール度数が高いからゆっくり飲めよ? 貴様ら──特に櫻井には期待しかしていないから、明日は使い物になってもらわんとな」
「気をつけます」
(俺はザルなんだよなぁ……)
そう思いながら櫻井は再び小さく一口飲んだ。
「櫻井潰れたら許さんからな?」
向かいの席にいた相馬が櫻井に指をさして言った。
「悪いけど相馬より先に潰れる未来は俺にはないね」
「あぁ? 言ったな? 日本一の酒豪、九州男児なめとんのかぁ貴様ぁ。勝負だ櫻井!」
「は? 日本一の酒豪言うがは高知やろ、デタラメ言うなや」
四国出身──恐らくこの口ぶりから高知県出身なのだろう、屋代が口を出した。
「土佐っぽは黙っとれ、俺と櫻井の勝負ゆうとるけんボケ」
「と、とさっぽ……言うたねや? 玉無し破壊王。俺が潰しちゃるがよ 」
(ああ……始まった……)
櫻井は眉を顰めて頭を抱えた。
西の男は阿呆なのか。飛行機乗りは酒の席で芋を掘ると言うが、こういう奴らが芋を掘っているのだろう。
いつもなら知らないふりをしている事が出来るわけなのだが、明日は桜花特別攻撃令が下されるだろうからそうもいかない。
「おーい、とりあえず適当な酒持ってこい! お猪口も人数分!」
ノリノリで屋代が給仕を呼ぶ。
(ああ……こりゃあいかんな)
最悪潰れたふりをして負け、飲みをそこそこにして帰らないと──そんな事を考えていると、給仕が櫻井に運んできたお猪口に、相馬が酒を注ぐ。
「さ。一気しいよ? んで、お猪口をひっくり返して完飲の合図やけん」
(アホくさ……)
櫻井はお猪口をぐいっと一飲みして逆さに返した。
「おーし。次は屋代や」
相馬は屋代に酒を注いでいく。
「やっちゃるき。よう見ちょけよ?」
相馬はいつもの事だが、海軍士官ともあろう人間がお互い方言丸出しで馬鹿な事をしているのを目の端に入れながら、櫻井は食事を運んでくる給仕の女に目をやった。
(皆男を追って来た女だろうな)
男がいる女はすぐにわかった。鹿児島の方言のない言葉だけじゃない。そして誰かを想う女が見せるふとした悲しげな顔は、みつきで見慣れているから。
(いやな特技を持ってしまったな)
と、思いながらふと一人で笑っていると
「櫻井様!」
と、突然声をかけられた。
そこには一人の芸妓がいるわけだが、どこかで会った事があっただろうか──そんな事を思っていると、芸妓が目の前で正座をし、深々と頭を下げた。
「わたくし、市春でございます! 櫻井様が鹿屋にいらっしゃると伺いまして……ここに来ればきっとお会い出来るかと思い、ずっとずっと……お待ちしておりました」
市春は頭を上げると少し冷たくなった手で櫻井の手を取って
「ずっとお会いしとうございました」
と言った。
しんと辺りが静まり返る。相馬も酒を注ぐ仕草のまま、固まってこちらを見ている。勿論神崎も、伊澤も屋代も渡も──櫻井を見ている。
時が止まったかのように視線が集中し、居心地の悪さを覚えながら櫻井は
「な、何故俺がここにいると?」
と市春に訊くと
「水地様から伺いました」
と、市春が言った。
(あの野郎……)
「櫻井、馴染みがいたのか?」
「関東の女に鹿屋まで追わせるって、よっぽどの色男だな」
ぽかんとしていた神崎と伊澤が、変な声で言うので、
「いえ、断じて私のせいでは」
と、櫻井の口からも変な言い訳が出た。
「わたくし、櫻井様のお隣についてもよろしゅうございますか?」
「あ、ああ……構わないが……」
躊躇いがちに言うと、隣にいた神崎が
「飲みの金は俺の奢りだが、芸妓の金は貴様が払えよ?」
と言った。
「ええ、承知しております」
(俺が呼んだわけじゃないんだけどね……)
「こうして櫻井様とお会いできて嬉しゅうございます。初めてお会いした日から、ずっと櫻井様の事が忘れられなくて……」
白く塗った肌を少し赤らめさせて市春が言う。恋をした女は、少し目を逸らしながら安定しない目線で会話をする。
みつきによく似ていると思った。
「お手紙もお送りしましたのに、お返事いただけなくて……」
そう言って、市春は櫻井の耳元に口を寄せてそっと
「サチエという名でお送りしておりましたの」
と言われて
(そういえば何度か手紙が来ていたな)
と思った。
内容は──忘れたわけではないが、恋文だったような気がする。
「すみません。忙しかったもので」
「いえ、存じておりますわ。櫻井様は連日迎撃に上がっていらっしゃると、水地様から伺っておりましたし──新聞でも拝見しておりましたから」
そう言って、市春は再び櫻井の手を柔らかく握った。
「おーい。イチャイチャすんなやー。色男の番やぞ!」
相馬に声をかけられ、気付けばなみなみと酒が注がれたお猪口とグラスが二つも置かれている。
「一気! 一気!」
屋代と渡が手拍子で煽ってくる。
櫻井は
「おい、俺だけなんで量が違うんだよ」
と言うと
「色男は量が多いって決まっとるけん」
と、してやったり顔をして相馬が言う。
櫻井は
「はいはい」
と言って、グラスに注がれた酒と、お猪口に注がれた酒を飲み干してお猪口を逆さに返した。
「櫻井様、あのお約束覚えていらっしゃいますか? もし櫻井様が酔ったら、この市春が櫻井様を狙ってもよろしいと」
いつだか水地と料亭に来た時に似たような事を言われた事がある気がする。
──俺が酔った時のお楽しみにしといて
芸妓相手とはいえ、遊び半分で言った事に少し後悔をした。
本気のような顔をしながら真剣な眼差しで見てくる市春に戸惑いを覚えて、何も言えなくなった。
「俺ぁ飲んだぜ? はい次、渡〜」
相馬がお猪口を逆さにして完飲を示す。
「もう俺はギブですよ」
渡は顔を真っ赤にしながらそんな事を言っているのが聞こえる。
「櫻井様、わたくし本気でございます!」
市春に呼びかけられて櫻井はハッと我に返った。
「おーい櫻井。市春を本気にさせちゃあ、いかんっちゃろ〜。泣かせるの何人目なんちゃろなぁ」
「うるせえ相馬。相馬も一人くらい泣かせてみろよ」
「あ? 言ったな? おら飲め! 貴様だけ倍以上だ」
相馬は櫻井の目の前にわざわざ渡のお猪口を櫻井の前に置き、櫻井のお猪口と渡のお猪口、そしてグラスに酒がなみなみと注がれる。
それを櫻井は躊躇なく次々と飲み干し、二つのお猪口を逆さにして返した。
「はあ? そがんすぐ飲み干すもんかよ? 顔色くらい変えろし!」
(そうだ、こいつらには俺がザルって事一言も言ってないんだったっけか……)
「なあ市春、俺達明日特攻なんですよ」
「制空隊だけどな」
渡と屋代が市春に声をかけた。
「櫻井様も特攻されるのですか……?」
制空隊の意味を知らないのか、急に悲しそうな顔をして市春がこちらを見た。
「まさか、今日が最後なのですか……?」
櫻井の手を握る市春の手に力がぎゅっとこもって、まるでこの世の終わりのような顔をしている。
市春は涙目になってきている。
段々と罪悪感を覚え、櫻井は思わず
「あ……ああ。最後だ」
なんて、返事をした。
いや、勿論明日の作戦で死ぬつもりは毛頭ないのだが、体のいい断り文句として使わせてもらっているだけ。
「わたくしがお帰りをお待ちしても、よろしいですか……」
「いや。俺にはもう他に──」
そう、言いかけてやめた。
こんなところで他に想い人がいるだの言ったところで、みつきのところへ帰れる保証などないのだから、言うのはやめた。
「市春、気持ちは嬉しいが待っていても多分、俺は還らない。今日が俺の最後の日だ」
櫻井はそう言って、市春の手を握り返した。
「だから、今だけは恋人でいようか」
思わずそんな言葉が出た。
女は未来よりも瞬間を欲しがる生き物だと知ったから。
今更になって、みつきや夏子に出来なかった事をしてやろうだなんて、ずるい男だと思ったけれども。
例え市春が本気になったとしても、みつきがいなくても──海軍士官は芸妓を情婦に出来はすれど、結婚は出来ないのだから。
「櫻井様、お優しいのですね」
ポロポロと涙を流して、頬の白い化粧が涙の跡を作った。
「櫻井、貴様って男は随分と女の扱いが上手いのな」
神崎がしげしげと櫻井を見つめ、関心したように言った。
***
──時は夜八時を過ぎた頃。
櫻井は宿舎である地下防空壕に、相馬と二人で潰れた屋代と渡を引きずって横たわらせ、二人に水筒の水を飲ませた。
この屋代と渡は所謂酒に負けた二人である。限界突破したのか、散々料亭で吐き、今こうして勝ち組である櫻井と相馬に引きずられて寝かされているわけだ。
櫻井は市春の相手をしなくてはならなかった為に三人に気を遣うことが出来ず、屋代や渡はすっかりと潰れてしまった。
とはいえ、相馬も顔色があまりよくなさそうだが。
「いやあ、櫻井顔色一つ変えんとやもん、貴様どがん肝臓しとらすんや」
「話してなかったけど俺はザルなんだよ。だから三〇二空にいた頃は嫌がられてあんまり飲みに誘われなかった」
「あーなんかわかるわ。俺も強か方やけど今回ばかりは気持ち悪かけん、櫻井が憎かよ」
相馬はそう言って、地面に簡素に敷かれた茣蓙の上にぐったりとした様子で仰向けに寝転がった。
そして
「横向いとった方が楽やな」
と言いながら体を横に向ける。
「櫻井、市春には優しゅうして白河さんには厳しかやなぁ。なして白河さんにもしてやらんかったと?」
と、相馬が体を横に向けたまま言った。
「……俺にも事情があるんだよ」
櫻井がそう言うと、相馬は不機嫌な様子の声色で
「事情だぁ?」
と言った。納得がいかない、と言いたげに。
「ったく、どうせくだらん──」
「死が怖くなる」
櫻井が相馬の言葉に被せるように言うと、相馬が体を少し傾けてこちらを向いた。相馬は、驚いたような目をしてまばたきをしている。
「彼女を想うばかりに、死を恐れず全力を出して戦えない自分が現れる気がする」
櫻井は目を細めてそう言った。
これは、嘘じゃない。
また会いたくて、きっと死が怖くなる。
その先を、未来を、きっと欲しくなる。
「未来を約束出来ない俺が、約束をしてしまいたくなる」
待ってて欲しい──そう言ってしまいそうになるのだ。
相馬はポカンとした表情で
「……櫻井……酔っとっと?」
と言うのを櫻井は
「……そうかもな」
と、意地悪に笑ってみせた。
「で、そがん女がおる傍ら市春には嘘八百ば言い並べたと」
「人聞きの悪い。嘘も方便と言えよ。関東から俺をわざわざ追ってきたのに、あの場で泣かせるわけにはいかないだろ」
「あそこまでしろとは言っとらん」
「そもそも、女は瞬間の幸せを欲しがる生き物だと言ったのは相馬だぞ」
「ハイハイ、色男色男」
相馬は少し具合の悪そうな表情をして眉を顰め、
「櫻井のおかげで更に気持ち悪か〜……」
と呟きながら仰向けになった。
(全く世話の焼ける……)
櫻井は紙袋を相馬に渡して
「俺はちょっと乗機を見てくるから、吐きそうになったらそれに吐けよ。あと水もよく飲めよ。楽な姿勢で寝とけ」
と言うと
「どーも。にしても櫻井は元気やなあ。いってら」
と、弱々しい声で言ったのだった。
***
夜の風に当たりがてら、懐中電灯片手に櫻井は笠ノ原基地と鹿屋基地の間にある整備基地へと足を運んだ。
昼から感じていた嫌な予感を払拭するために──いや、確かめる為に。
掩体壕の辺りは真っ暗で、よく見ると赤い整備灯とカンテラの灯りをチラチラとさせて掩体壕の中で作業をしているのが見えた。近付くと、辺りに細長い銀色の錫箔の電探欺瞞紙が張り巡らされていて、その中を忙しそうに整備員が駆け回ったりしている。
「先程着いたばかりなのですよ、今から整備作業に入るんです」
と、たまたま櫻井の前を通りがかった整備員が言った。
「今!?」
「ええ、まだ何も手をつけられてないので」
そう言って整備機材を持って、忙しそうに掩体壕の中へ入っていく。
掩体壕の中ではカンテラの灯り一つと整備灯、懐中電灯でエンジンのオイリング作業と、増槽タンクの工作を行っているのが薄らと見えた。
「増槽は一機一機すり合わせが必要だろう、今から間に合うのか?」
──なんて、自分でもわかるような野暮な質問をした。
なんて返事が来るかなんてわかっている。
「……」
暗くて表情はわからなかったが、整備員は言葉に詰まった様子で黙っていた。
──ただ、確かめたかった。そうじゃない、と言われたくて。
整備員はしばらく黙った後、ゆっくりと口を開いた。
「恐らく……間に合いません」
そう、小さな声で言ったのだった。
作者はこんな小説を書きすぎたせいで、現実世界で302空(厚木基地)勤務になりました。




