出撃前日の罪滅ぼし 一
翌、三月二十日──第三〇六飛行隊、第三〇七飛行隊の搭乗員は全休となった。整備機材を持った整備本隊が列車で富高基地からこちらへ向かっており、到着次第整備員は零戦の整備に取り掛かる手筈である。
──予定通りに行けば、の話だが。
「なあ、櫻井」
鹿屋基地の士官私室ともいえないような防空壕の中で、相馬が櫻井に呼びかけた。
まるで蟻の巣のように巡らされた地下防空壕は、鹿屋基地の地上員、搭乗員総出で掘った制空隊の搭乗員の宿舎、地下指揮所となっている。
どんよりと濁った空気、土の臭いなのかカビの臭いなのか、とてもいい空気ではない。正直ここで寝起きをするのも苦痛であるし、一分一秒でも早く外に出たいような場所である。
大きな作戦のある日の前日は身辺整理をしたり遺書を書いたり、飲みに出かけたり──それぞれの時間を過ごすわけだが、他の搭乗員達はさっさと身辺整理を済ませて上陸してしまったというのに、そんな中櫻井はこんなところで簡素な木の机の上に何やら書類を広げている。
相馬に呼びかけられた櫻井は、万年筆を置いて顔を上げ、
「どうした?」
と言う。
裸でぶら下がっているだけの電球がゆらゆらと、櫻井や相馬の顔に黒い影を落とす。
「上陸せんの? 飛行隊長に飲みに誘われとるけん、櫻井もどうかねと」
「へえ、こんな時間から?」
櫻井は袖を捲って午前十時を指す時計を見ながら言った。
「あったり前たい。こんな暗くて臭いところにおる方がどうかしとうよ」
そう言ったところで櫻井が何かを書いている事に気がついた。櫻井の机を覗き込んで
「お? 遂に遺書か?」
と言うと、
「いや、身辺整理」
と落ち着いた声が返ってきて、相馬は櫻井の手元に視線をやった。
身辺整理、とは言うものの小為替等を出していて、明らかに金を残す遺書のそれなのだが。
そして、櫻井は
「送金しようと思ってね」
と、まるで相馬の疑問に答えるかのように言った。櫻井は封筒に小為替を入れるが、その封筒に小さく綺麗な字で書かれた手紙の宛先は『三篠夏子』──。
そして、もう一つは第三〇二海軍航空隊、第十二分隊(整備分隊)宛ての手紙。そこには『白河みつき』──女性の名があった。相馬はそれがすぐに櫻井の言う"女整備員"だということがわかったが、相馬は敢えて知らないふりをして
「誰?」
と訊くと、櫻井は少し罰が悪そうな顔をした。
「そんな事を訊いてどうする?」
櫻井らしい答えが返ってきた。
「こがん時に女二人に手紙送るけん、さすがM男やなぁと」
「別にもててないよ」
「白河みつきは言われんでもわかるばい。で、この三篠夏子は情婦? 馴染みの芸者?」
相馬はわざと意地悪に言った。
すると櫻井はやれやれといった様子で
「人聞きの悪い。婚約者だった人だよ」
と言った。
それを聞いて相馬は思わず体を乗り出して
「だった──はあ? 過去形? どげんこつね!?」
と言うと、櫻井は困ったような顔をした。
「これでも俺にも縁談があったわけ」
「せやろなあ。で、まさか断ったと?」
「ああ、断ったよ。家の意向を裏切ってね。結婚するべきだったのだろうけど、俺は元々誰とも結婚するつもりなんてなくて、このまま死ぬつもりだった。けれども、今日まで生き残ってしまったし──今更何の罪滅ぼしにもならないけど、せめて今後の役に立てばと思ってね。あれから彼女の生死はわかっていないから送るのは賭けだけども」
(半分建前やな)
相馬は思った。
「本当は、あの女整備員を死ぬ気で守りたいから縁談を断った。違うか?」
我ながら鋭い突っ込みを入れたと思いながらにやにやしていると、櫻井は至って真面目な顔をして
「さあ、どうだろう」
と言うのだった。
そして一呼吸おいて、
「──今となってはそうだったのかもな」
と控えめに言った。
「はあ? 戦闘機乗りのくせにはっきりせん男やな、貴様という男は」
と相馬が言うと櫻井は
「前にも同期に同じことを事を言われた事がある」
と情けなく笑った。
「俺は本当の意味で守りたい人さえも、泣かせてしまったから」
「婚約者まで断ったとに、なして泣かせたと? そいや前に、彼女を断ち切りたいとも言っとらしたけど、何があったと?」
「彼女を突き放した。本当に守りたかったから。束の間の幸せだけを与えて悲しませたり苦労させたくない──そう思っていたからこそ突き放した。俺の選択は正しいと思っていたよ、彼女の泣き顔を見るまではね。婚約者も泣かせて、みつきも泣かせて──俺は何をしているのだろうと。俺は一体どうしたら良かったんだろうな。未だにわからない」
そう言った後、櫻井は
「戦闘機乗りのくせに、俺はこんな男だよ。残念ながら」
なんとも掴みづらい表情をして言った。
櫻井が胸の内を相馬に吐露するのは初めてだった。櫻井の言いたい事もわかる。でも──
「束の間かどうかは、その子が判断する事じゃなかと? その子も覚悟ば持って櫻井を好いとったと思うし。誰も傷つけんとする事はこのご時世無理やと思うけん、俺は。櫻井は考えすぎ。帝大は頭が固すぎるけん、少しくらい馬鹿になった方がよかよ?」
櫻井は驚いた表情でこちらを見た。そして、
「そうだな。相馬の言う通りかもしれないな」
櫻井はそう言って、情けなく笑ったのだった。
「だとしたら、今日俺がした選択は間違ってないかもしれない」
櫻井がふと、真面目な顔をして言った。
「もし俺が死んだら、俺の遺品、恩給──全てを受け取ってもらいたいと思っている。三〇二空彗星・零戦の整備分隊、飛行班の白河みつき──本当の意味で俺が守りたい人だ。最後は彼女と決めている」
先日、遺品は誰に送るのかとの聞き取り調査が入った。普通は親族と答えるところを櫻井は答えなかったのだろう。
とはいえ、強制的に親族に送られる事になるのだが──
「その旨をこの手紙に書いた。これを従兵に預けるつもりだ」
櫻井のそれは今までにない揺るぎない瞳で。
「従兵に預けるって……もうそれ遺書やんか」
「違う、遺言書」
「遺言書だぁ? まーた屁理屈を」
「ばーか。遺言書ってのは遺書と違って民法に則って書かれたもので、法的効力のあるものを言う。遺書は飽くまでも希望や思いを、ただ、したためた物にすぎないんだよ。遺書じゃ遺品や金は届かない。少しは勉強しろ」
一瞬イラついて櫻井をどつこうとしたが、顔を見たらどうも憎めない顔をしていてどつくのをやめた。
「よう言いよらすけど、一応俺も九州帝国大学やけんね? 農学部やけど」
「九帝大ねぇ。そうは見えなかった」
「なんかイラつくな……」
自分よりも遥かに頭が回るし、ずるいし、そして憎めない。
櫻井はこういう男なのだ。
「まあでも、もし俺が櫻井やったら同じ事するかな。多分俺も──最後を彼女に任せると思う。想い人がおらん俺の話なんて参考にならんと思うけど」
相馬がそう言うと、櫻井は
「いや。十分だよ」
そう言って微笑んだのだった。
「それにしても、噂には聞いとったけれど、まさか生粋の女泣かせやったとはなあ」
「はあ? なんだその噂は?」
「飛行学生の頃は女が待ち伏せしとったとか、部隊ではラブレターが届いとったって聞いとうばい。片っ端から女を振ってるって、噂に噂がまわっとって有名やけん」
「へえ。心外だな、海軍に入ってからそんな事があったのは、まだ十八人だけど」
「はあ? じゅっ……貴様! 本当に女泣かせな奴っちゃな!」
"海軍に入ってからは""まだ十八人"という言葉を平然と──さも昔からあったかのように、それが当たり前かのように言う櫻井に、相馬は噛み付いた。
櫻井は冷静な顔をして
「仕方ないだろ。俺は一人しかいないんだから全員とは付き合えない」
と、いつもの涼し気な声で言った。
「いやまあ、確かにな!? 確かにそうやけども!」
「片っ端から付き合うのは浮気野郎がする事。悪いけど、俺は帝大出身の海軍士官という誇りがあるんで」
「はいはい、すんませんでした!」
「で、櫻井。当然飲み行くやろ?」
「ああ。郵便局で送金してからな」




