もし過去が変わったなら
退勤して下宿に帰り、みつきは元、櫻井の部屋にあったラジオを自室に持って来て大本営発表を聞いていた。
「なーんも報道なんてないわね。まあ、あれはきっと海軍の中だけだから報道なんてされてるわけないか……」
軍艦マーチと共に流れてくるのは他部隊の華やかな戦果、そして勇敢に戦い死んでいった戦死者の名前。
戦死者の通達はかなり遅れていたから、この人達が亡くなったのは恐らく今年の初め頃。
名前を聞いていてふと
(櫻井さんは死なないよね?)
そんな一抹の不安が心の中をざわつかせた。
──今度の航空隊は、俺も生きて帰れるかわからない
櫻井と東京に行ったあの日、喫茶店で櫻井はみつきと目を合わさずにそう言っていた。
鹿屋基地は鹿児島にある最南端の防波堤だという事はわかるようになった。
そんなところに行けばいつ死んでしまってもおかしくないのに。それなのに、自分は何も出来ずにいる。
「そこまで昭和史詳しくないから何月何日にどんな作戦があるかなんてさすがにわからないよ……」
みつきは頭を机に伏せた。
何のために昭和時代にタイムスリップしてしまったのかすらもわからないまま、ただここにいる。
みつきが昭和時代にいる事を決めたのは日本を守ってくれる人達を支えたいからだ。
ただその一心で生きている。それに嘘はないのだけれど、もっと根本的な理由──そう、一体自分は何者なのか。何故この時代に引き寄せられたのか。
そもそも、何故昭和時代に自分の戸籍があって、女子挺身隊として高座海軍工廠に行く事になっていたのか。しかも、年齢も生年月日も現代で生きていた時のものと違っている。
自分が本当は今何歳なのか、親の顔すらもわからないまま。
まるでこちらにもう一人の自分が存在していて、それを上書きしたかのように。
(私は一体誰なんだろう)
歴史を変えられるわけでもない、ただの無力な人間そのもの。未来から来た事以外はここの人達と何も違いはなくて、何か魔法が使えるわけでも、指揮官になれるわけでもない。
これから起こる事の予言をして、日本を救う事や歴史改変の一つすらも出来ない──ただの無力な人間。
ただ、ここで幸運ながらも整備の仕事をさせてもらいながら、そう、実らない恋をしただけ。好きな人は戦争の最前線に行ってしまうというおまけつきで。
全ては夢に見た飛行服の青年が引き金だった。
飛行服の青年──櫻井紀。あれは紛れもなく彼だ。
少し長い黒髪、強い目、何も言わずとも見て取れる強い意志と知性を兼ね備えている人を、他に知らない。
何かしなければならない事があるような気がするのに、未来にいた自分は櫻井紀という男を知らなかった。
そう、何も。
飛行服の青年の夢をみたあの朝、みつきが航空図書館に赴いたのは、航空機は知っていてもその背景はあまり知らなかったからだ。
レシプロ機を保存していく特殊航空整備士は歴史の勉強もする。でもそれはただ年表や表面的な活躍や大まかな海軍の作戦等をなぞるだけのもので、特に日本の技術面の推移について焦点を当てたものだった。
その飛行機に誰が乗って、どのように戦って、どんな思いを載せて出撃していったのか。
どのような彼らの物語があるのか──考えたことも無かったし、知ろうとも思わなかった。
それなのに、その夢はまるでこうなる事を予言をしていたかのように、みつきを航空図書館へ足を運ばせ──運命の悪戯かのように昭和十九年に来た。
そして櫻井と出逢い、そして櫻井を好きになったのだ。
(何か意味があったのかなぁ)
みつきが元の世界に戻ったあの時──記憶なんてなかった。まるで長い夢を見ていたかのような、そんな錯覚がしただけだった。
ザワっとどこからともなく風が吹いて髪と服を靡かせたと思ったその時、突然煌々と光る明るい駅で二つの道が現れた。 それはあまりにも突然で、まるで夢の中にまだいるかのように。
その道は、真っ暗な空にぼんやりと赤い火に焼けたような道と、明るい光に包まれた駅ビルの普段通りの道。
あの時も一人の男の声が明るい道に行く足を止めさせた。
本来ならば自分の生きる道は普段通りの駅ビルの道であるのに、何かしなくてはならないような、何か大切な事を忘れているような気持ちになった。
次第に記憶が波のように押し寄せて、そして何故か涙が溢れて止まらなくて──そう、一人の男の記憶が、心を支配したのだ。
引き寄せられるように暗い道へと自ら進んだ。
あの時彼を救いたいと、力になりたいとあれほど思ったはずなのに。
それなのに──櫻井はもう、ここにはいないのだ。
「私、どうしたらいいの……」
そんな心のざわつきに水を差すように突然、階下の玄関の扉がガラリと開いて誰かが入ってきた音がした。
「あれ。みつき、もしかして帰ってる?」
当麻の声だ。
階段を上がってくる音が聞こえて、
「はい、いますよ!」
と、みつきは返事をしながらラジオを消して、自室の扉を開けると当麻が階段を上りきったところだった。
「そんな慌てて出てこなくても」
当麻はみつきを見て少し笑った。
「当麻さん、今日はお帰りなんですね」
「うん。夜間警戒が無いから入湯上陸が出てて。当直二連勤からの日勤は久々に疲れた」
「当直は何時までだったんです?」
「三直だよ。〇八四五まで。今日当直だった同期が風邪引いたもんだから俺が急遽当直交代してさあ、そこから普通に日勤だよ。本当に疲れた」
三直とは海軍の三直三交代制の事だ。
当麻はみつきの前を通り過ぎて、自室の襖を開けた。そして、襖を開けたまま軍服の上衣を脱ぐのを見て、みつきはその上衣を脱ぐのを手伝った。
上衣を衣紋掛けにかけながら
「そういえば……この前士官の方々だけ集まりがあったそうですけど、何があったんです?」
みつきがそう言うと当麻は困ったような顔をした。
(あ、私何か聞いちゃいけない事訊いた?)
ちらりと当麻の目を見ると、当麻としっかり目が合って、どきりとした。
「それ。言おうか悩んでたんだよね」
困ったような顔をして
「海軍にも来るべき時がきたから」
と言った。
「来るべき……?」
みつきが恐る恐る言うと、当麻は申し訳なさそうに頷く。
「昨日から第五航空艦隊による特別攻撃が始まった」
「第五航空艦隊……?」
みつきが訊くと、当麻は頷いた。
「以前いた蓮水や、櫻井の部隊が第五航空艦隊の隷下にいる」
特別攻撃は日本人なら知らない人はいない。
あまりにも有名なこの作戦は、気分を悪くするには十分だ。
「櫻井さんが護衛するって言ってた、特別攻撃が遂に行われるんですね」
「うん。多分そうだと思う」
櫻井は今、この瞬間も最前線に立ち──運命の時を待っている。
──日本の命運をかけた特攻機を護る為に。
「俺達も具体的にその特別攻撃がどんなものかはわからない。ただ、戦果にもよるけれど、いずれ三〇二空も随伴する事になると思う。第三航空艦隊の俺らにそんな話がくるくらいだから、かなり厳しいものなんだろう」
戦争とは不思議なもので、なかなか終わらない。第一線で戦う人々は、限界であるという現実に嫌という程直面しているのに──終戦まであと五ヶ月もあるのだ。
「多分、これからの特攻で俺ら十三期や次の十四期の人間は殆ど死ぬんじゃないかな」
当麻は自虐的に笑って溜息をついた。
そう、海軍は終戦までのこの五ヶ月を、飛行経験の少ない彼らの特攻で耐えるのだ。
次の代の予備士官は、櫻井や当麻のように志願制ではなく、学徒動員で徴兵されてきた若者達だ。
「櫻井さんに死んで欲しくない。ううん、もう誰にも死んで欲しくない」
結末を知っている身としては、もう白旗を揚げたい。
日本政府はソ連に裏切られ和平工作が頓挫し、無条件降伏を呑まされてしまう事を知っている。
でも何も出来ないのだ。それまでの間にあの有名な戦艦『大和』が轟沈し、沖縄は戦場へ姿を変え、広島と長崎には原爆が落ち燃やし尽くされる。そして、締めくくりに北方四島もめちゃくちゃにされるのだ。
そんな流れを知っているにも関わらず、ただ見るしか出来ないほどに無力なのだから。
「こんな事を見ているしか出来ない私が辛い。この先どうなるかもわかっているのに、何も出来ない私がもどかしい」
みつきが力無く言うと、当麻は
「そんな事はない。十分出来てる、力になってるよ。少なくとも俺にとっては」
と言った。
「嘘! だってこの先原子爆弾を落とされたり、ロシアに裏切られたりするのに──」
みつきが言うと、当麻は驚いた顔をして
「どういうこと?」
と言った。
もうヤケクソだった。
喋ってしまったらもう止まらなかった。
「日本は負けるの、ボロボロになって。沖縄は戦場になり、原子爆弾を二発も落とされて、ロシアに裏切られて北方領土を取られて……ようやく降伏しか道が無い事に気付くの!」
当麻の目が見開かれて、しんと辺りが静まり返った。二階にいるのは二人だけ。風の音も、車の音すらも聞こえない。しんとした室内に、規則的な時計の音が聞こえるだけ。
「どういうこと? 裏切るとか北方領土って何だよ。なぜ原子爆弾が落とされると思った? 誰が? 根拠は? それに、ロシア帝国は今はソビエトだろ。ソ連は確かに警戒すべき脅威ではあるけど、今は中立条約を結んでいるから──」
「これ以上私は日本人が死ぬのを見たくない!」
当麻がみつきの言葉を遮るようにして
「なあ。みつき、落ち着け」
と言ってみつきの両肩を両手で掴んだ。
「落ち着けよ。どうしたんだよ。気持ちはわかるけど、まだ起こってもいない事をあれこれ考えちゃ駄目だ」
じっと当麻がみつきの目を見た。そんな目で見てくる当麻に、みつきは心が締め付けられて、どうしようもない感情が湧き起こる。
そう、"まだ"起こってないだけ。
"まだ"起こってないという事実が、どんなに幸せな事なのか──考えたくなかった。
「なあ、みつき。今日はもう休んだ方がいいよ」
「信じてくれないの……?」
みつきが言うと、当麻は困った顔をした。
「信じるも何も、あまりにも突拍子も無さすぎて……」
「そう……だよね」
わかってはいたけれど、必死になれば必死になるほど、ただただ、惨めになるだけ。根拠も証明も出来ないのだから。
みつきが力なくその場にへたり込むと、当麻もその場に腰を下ろした。
「みつきが俺達の行く末を案じてくれている事は知ってるよ。一風変わった視点から見ている事だって知ってる」
当麻がゆっくりと、落ち着いた声で言う。
「確かに、このご時世だし何があってもおかしくないとは思う。みつきがそうだと言うなら、もしかしたらそんな未来もあるのかもしれない。でも、きっと──それは結果論だよね」
当麻はみつきの腕を引いて、ゆっくりと抱きしめた。
「なあ。もし、過去を変えられたとして──変えた先に、本当に望む未来が待ってるって言える?」
そう言った当麻の声は落ち着いていた。
「望む……未来?」
そりゃあ、犠牲がない方がいいに決まっている。
けれども、その過去を辿らなかったら?
戦争に勝っていた? 戦争は延びていた?
どのような未来になった?
「覚えてる? みつきが熱を出した時言ってた事。何も不自由しない日本が未来にあるんだって言ってたよね。俺達のような人間が守ったって。それは本当なのかな」
みつきが未来で目覚めた時──確かにそこには、遊びに勉強に、仕事に忙しい日本人がいた。物に困る事も、食べ物に困る事もない生活が確かにあった。
「本当ですよ、確かに私は──」
「そんな凄惨な負け方をしても"日本"という國があるんだね」
みつきの言葉を遮るように当麻が安心したような声で言った。みつきははっとして、当麻の体に触れた。
「日本という國が確かにあって、後世の日本人が日本人として生き、豊かに生活していけるそんな未来があるのなら、これからどんな目に遭ったって日本人は乗り越えられる。絶対に」
ぎゅっと当麻の腕に力が入って、当麻の優しい香りがした。耳元で聞こえる少し低いその声は、この時代に生きる青年としてはあまりにも諦観していて、胸を締め付けさせる。
当麻はまるでみつきがこの時代の人間ではない事を悟っているかのように、驚くわけでも貶すわけでもなく、ただ淡々としていた。
まるで運命を受け入れるかのように。
「だからこれから起こる事は、みつきの言う平穏な未来に向かう為には必然な事なんだ。だから──」
そう言って、当麻は抱きしめていた腕をゆっくりと放してみつきに向き直った。
「何かを変えようとかしなくていい。俺達のような人間の──いや。俺の拠り所でいてくれれば、それでいいんだ」




