南九州地区邀撃戦 四 多すぎた犠牲
(まさか落下傘を使う羽目になるとは……)
落下傘降下で着水した相馬は、そんな事を思って苦笑した。昼間、櫻井に指摘されたのは落下傘を使う事を予測されたのかも、なんて思いながら。
着水した左腕が焼けるように痛く、相馬は顔を歪めた。
(怪我か? 海水でくっそ痛え!)
腕がどうなっているのかわからないが、飛行服が黒く汚れてどうやら破れてもいるようだった。火傷でもしたのかもしれない。
そんな事よりもとりあえず落下傘を外すべく、航空手袋を外して金属環に手をかけるが、索が海水で縺れて上手く外せない。
身体をぐらぐらと右左に揺らしてなんとか金属環を外すと、ふと体が軽くなった。
海水温約二十度前後、気温十九度前後。
水風呂にそのまま入った時に似ている。体温がみるみると奪われていくのがわかり、長居は無理だと思った。
向こうに長浜海岸が見えるが、距離は恐らく約一〇キロメートルか。裸ならまあ、泳げなくもない距離だが、この装備ではまず無理だ。
そのうち海岸に流されるだろうが、救命胴衣は一時間もすれば沈んでしまうので、沈むのが先か流されるのが先か。
相馬は救命胴衣に挟んでいた拳銃を抜いて、飛行眼鏡のゴムと飛行帽の間に挟んだ。誰も来なかったらいっそ自決でもしてやろう──なんて思ったわけではない。これは護身用。
そもそも、ここの制空権は日本なのだ。浮いていれば誰かしら助けが来るはず。
けれども、上空ではエンジン音に混じり機銃の音が炸裂していて、そんなものは当分先になりそうだ。
「くっそ! 泳いでやる!」
飛行学生の頃、体力測定は良かった方だと思う。飛行学生を首席で卒業した櫻井には敵わないが。
相馬は半長靴を脱ぎ捨てた。そして飛行服を脱ぐわけだが、飛行服の下は軍服であるので思うように脱げない。服を着たまましばらくジタバタ泳いだところで諦めた。
「あー! 重い! やっぱ無理!」
無駄に体力を消耗しただけだった。
結局プカプカと浮いて待ってるしかないのだが、
「痛い……寒い……」
そんな事を呟きながら、寒さで意識が遠のいたり戻ったりするのをじっと耐えていた。
「俺死ぬのかなあ。死にたくない……」
どれだけこうしていただろう、いつの間にかエンジンの音も機銃の音も聞こえなくなっていて、紫色の空が広がっているだけになった。海はまるで全てを飲み込むような黒色になってきている。
今頃になって、どこからともなく航空機についていたであろう座席のクッションがふわふわと浮かんで流れてきて、相馬はそれにしがみついた。
身体は冷えきり、手も足も感覚がない。ヒリヒリと痛む腕の痛みも身体が冷えすぎて感じなくなり、怪我をしていた事さえも忘れる。
「うう……死にそう……」
陸地は明らかに近くなってはきている。あとどのくらいで陸地に漂着出来るのか、寧ろ死ぬのか──相馬がそんな事を考えていると、どこからともなく
「おーい」
と聞こえてきて、いくつかの光がチラチラとしているのが見えた。その光はだんだんこちらの方角へと近付いてきている。
(船……? 助けがきた……?)
相馬は残った力を振り絞って、飛行眼鏡に挟んでいた拳銃を抜き、空に向かって引き金を引いた。
パアンと音が鳴って
「おい、なんだ!? 」
と、懐中電灯の光がこちらの方へ向いた。
「あそこ、人がいるぞ!」
誰か一人が叫んで、一斉にこちらに懐中電灯の光が集まって眩しくなる。
逆光で見えないが、薄ら見えるその人影はモリのような刺股のような物を持っていてどうも物騒だ。
「おーい、日本人か!?」
どうやら米軍機のパイロットを警戒しているようだが、もう声は出せない。
相馬は飛行帽を少しずらして、飛行帽に縫い付けられていた日の丸を精一杯見せた。
「日の丸だ、ありゃあ、日本の海軍さんや! 早く海軍さんを引き上げるぞ!」
という声が聞こえてようやく安堵したのも束の間、それから相馬の意識は途切れた。
***
相馬が次に気がついたのは、とある民家の家の中だった。柔らかくて仄かに温かい──そんな微睡みの中で相馬が目を開けると、一つ毛布の下に裸の女性がいる。
「うわ!」
体に回っていたその女性の腕を振り払いながら相馬が声を上げて勢いよく飛び起きると自分も褌一丁、裸だった。
(どういうことだ!? 何があった!? 酒でも飲んで遂にやらかしたか!? 素人女性を!?)
あれやこれやと色んな可能性が浮かんできて、血の気がスーッと引いていくのがわかる。
口から心臓が飛び出してきそうなくらいにドクンドクンと心臓が脈打っていて、誰かに聞こえてしまいそうなほど。
相馬が荒い息を抑えながらゆっくりと深呼吸していると、女性が体を毛布で隠しながら起き上がった。
「良かった、目覚めたんですね!」
その女性は、そばに置いていた服に手をかけ、毛布の中で体を隠すようにして着ながら
「お父さん! 海軍さんが目覚めましたよ!」
と、奥の部屋へ声をかけるものだから、今度は目が飛び出そうになった。
(はあ!? 情報量が多すぎる。お父さんだと!? お義父さんがいるのか!? 俺はいつの間に嫁をもらったんだ!?)
全く何が起きてるのかわからなくて、相馬は矢継ぎ早に質問した。
「申し訳ないが妻を娶った記憶が抜け落ちている! なあ、君は誰だ、そして俺は何で裸なんだ! 俺は君に何をしたんだ!?」
動揺する相馬に、女性はくすくすと笑って
「妻だなんて、貴方様は何もしていませんよ。覚えていらっしゃらないのですか? 貴方様が海で漂流していたのを父が助けたのです。身体が冷えきってこのままでは貴方様が死んでしまうから、裸で温めろとお父さんに言われたのですよ」
「はい?」
相馬が素っ頓狂な声でそう言った時、
「うっ、いった……」
じわじわと焼けるような腕の痛みに気が付いた。左腕に目をやると、ぐるぐると包帯が巻かれている。
それを見たら、すっぽりと抜け落ちていた記憶が急に波のように押し戻されてきた。
「あ。そっか。俺、落下傘で降りたんだっけか……」
***
戦闘三〇六飛行隊、三〇七飛行隊では、一五三〇から一六〇〇までの三十分の間に、計五回に渡って空戦が繰り広げられた。
富高基地では燃料補給中を狙った空襲により、何名かの整備員搭乗員が犠牲になった他、空中衝突、市街地への墜落を避けて森林へ墜落したりするなどが続出し、大混戦を極めた。
十六時半を回った頃、空戦を終えた機体がちらほらと富高基地へ降着し始めたが、櫻井が富高基地へ戻ったのは十八時を過ぎた頃。
富高基地上空附近での空戦だったが為に着陸許可が降りず、高知、熊本、大分等の基地に緊急着陸する機体が続出したが、櫻井もその限りではなく、高知で燃料を補給した後に富高基地へ帰還。
櫻井は整備員に乗機を引き渡し、神崎に戦闘状況、戦果を報告するべく指揮所へ向かうのだが、その足は重かった。
(……あまりにも敵が多すぎた)
敵機はどんどん勢力を増し、数百機はいただろう。それに対してこちらは数十機──明らかな戦力の母数の差を見せつけられたのだから。
四機撃墜したにも関わらず、襲ってくるのは無力感。やっとの思いで撃墜しても、そんなものまるで誤差だったかのように敵は湧いてくる。
服に湧いた虱を一匹ずつ潰すかのように、それを一つずつ対処していく事に限界を感じる程に。
だから海軍は『桜花』を──突入させるのだ。
「……いいや、無理だどう考えたって」
あの数であんな弾幕を張られては。
思い出すのは、目の前で次々と堕ちていく零戦。
敵は圧倒的物量で畳み掛けてくる。
雨のように四方から降り注ぐ弾幕と、編隊を崩さずに零戦に張り付く敵機。
敵機を振りほどいても、四方八方から弾幕が降り注ぎ、また別の編隊に張り付かれ──それを延々と繰り返す。
それを繰り返しているうちに焦りが襲い、置かれた状況が冷静に判断出来なくなる。やがて編隊が崩れ、一人になってしまったら──たった一人で複数機を相手にしなければならなくなってしまう。
敵の十二・七ミリは簡単に零戦の装甲を突き破る。
そうなってしまったら、戦線からの離脱は難しい。
(俺ですら大友や水木、岩崎を統率するのがやっとだった。あれもこれもやろうなんて──とても無理だ)
激しい疲れが体を襲い、頭痛もしてきた。
早く薬を飲もう──そんな事を思いながら指揮所へ近付いた頃、指揮所の窓から当直員が何やらザワついているのが見えた。
戦闘三〇六飛行隊長の神崎も、当直員と何やら話し込んでいるようだったが
「櫻井中尉、帰還しました」
と言って櫻井が中に入ると、話し込んでいた神崎がこちらを見た。
「おお! 櫻井戻ったか!」
安堵したような顔をして、神崎が手招きする。
「いやあ、聞いてくれ。相馬が助かったよ」
と言って神崎が櫻井の肩を豪快に叩くが、櫻井は全くもって自体が飲み込めない。
「相馬に何かあったのですか?」
と櫻井が言うと、神崎の隣にいた当直員が
「綿引一飛曹から無線電話を受け、敵機に体当たりを試みた零戦の翼が相馬中尉の機体に衝突しました。体当たりした機が誰だったのかはまだ判明しておりません。偵察隊からの報告待ちです」
と言った。
そして神崎が、
「それでたった今、地元の漁業共同組合の人から『相馬』という男を救助したと、佐世保鎮守府に電話があったんだよ。富高まで車で送り届けてくれるそうだから、今夜中には帰って来れるだろう」
と言った。
「そうでしたか。無事で良かった……」
櫻井は相馬がひとまず生きている事に安堵した。
「あいつの事を三五二空時代から見ているけども、腕はそう悪くないはずなのに感情的故に危なっかしくてね。いつ死ぬかとハラハラさせられる。今日も気が気じゃなかった」
神崎は参ったな、という顔をして目尻に皺を作って言った。神崎は相馬と同じ三五二空で邀撃戦に出ていたが、今年二月にこの七二一空へ一緒に転属してきたのだという。
「それにしても、現在わかっているだけでもこの三〇六からは既に十名の死者が出ている。俺の小隊からも二名、相馬区隊から二名、そして第三中隊からは六名。桜花特令が出る前にこんなに人を失っては……」
神崎は眉を顰めて言った。
確かに、『桜花特別攻撃』という海軍決死の作戦が控えている部隊としてはあまりにも多すぎる損害。現在わかっているだけで十名もいるのだから、戦闘三〇七飛行隊、そして鹿屋に展開している桜花特別攻撃隊の特攻機搭乗員によって結成された制空隊──戦闘三〇五飛行隊も合わせたら、恐らくもっと多くなるに違いない。
「先が思いやられるな」
神崎がぽつりと言った。
その言葉に、櫻井は何も答える事が出来なかった。
「飛行隊長……」
神崎にかける気の利いた言葉が出て来ず、櫻井は言葉に詰まった。すると神崎が
「今日は俺達の負けだ。なあ、櫻井。敗因は何だと思う?」
と、少し枯れた声で言った。
(我が日本海軍の零戦は──)
「統率が取れておらず、編隊が乱れ、バラバラになっていた機が多かったと見えました」
編隊を維持出来ていたのは確認出来るだけでも僅かだったと思う。故意的にブレークしたわけでなく、ただ──乱れていた。それに尽きた。
それだけ、敵のペースに呑まれていたという事。
「そうだな、本当に。敵のチームワークというものを見せられた気分だった。想像以上に敵は強い──いや、完璧なまでの陣形と戦略。嵌められた気がするよ」
もしこれが『桜花特別攻撃』の直掩だったら?
『桜花』を投下するなら、それらを全てクリア出来なければ『桜花』は、懸吊する一式陸攻ごと燃えるのだ。
そう、何一つ抵抗も出来ずに。
──俺達陸攻隊は桜花投下と同時に、自分も飛行機諸共体当たりしてやると決めたんだ。それを決められるか決められないかが櫻井に懸かっている。いいか、重要な任務だ
鹿屋基地で、陸攻隊の野中が言った言葉が脳内で響いた。
(俺は野中少佐の命を預かっている)
櫻井がじっと一点を見つめていると、神崎が
「なあ、櫻井」
と言って立ち上がった。
「やるしかない。ただ、ひたすらに」
神崎は少し垂れ気味の目を細めながら言ったのだった。
やるしかない──そう、結論は誰もが同じ。
『桜花』には、様々な人の想いと命が載せられている。
今は、日本という國と民族を守る為に前を向いて行くしかないのだから。
櫻井がじっと神崎に目線をやっていると、神崎は立ち上がって櫻井の肩を叩いた。
「そうだ。俺からも注意するが、相馬が帰ってきたら櫻井も相馬にきつく言っておいてくれ。今日兵器整備員に怒鳴り散らかしてたらしいじゃないか。口も態度も悪く、軍規を乱しかねないからな」




