南九州地区邀撃戦 三 タマのない男
午後十三時過ぎ──第五航空艦隊司令部より鹿屋基地、宇佐基地、富高基地に展開していた神雷部隊に桜花攻撃出撃命令が出された。
出撃予定時刻は一五三〇──戦闘三〇六飛行隊と三〇七飛行隊は直掩機として出撃準備を命じられたのだが──
十四時十分、『敵五十機、基地西方約七〇〇〇米を大分宇佐方面へ侵入』と情報が入り、岡本司令より
「本日の神雷攻撃は見込まず、直掩機を全機邀撃に転用する。準備出来次第発進せよ」
と命令が下った。
搭乗機へと搭乗員達が走っていく。
櫻井は、落下傘を持って走る、第三小隊第一区隊三番機の水木を呼び止めた。
「これからまた激しい戦いになる。その日の初陣さえ乗り切ればとりあえずは大丈夫だから。空は広く見えるが空戦域はとても狭い、故に戦闘時間も短い。絶対に深追いはするなよ。駄目だと思ったらすぐに離脱するんだ、いいな」
かつて三〇二空で戦死した荒木大尉からの受け売りだ。
「頑張ります。深追いだけはしないように……」
水木は少し不安な様子で言う。
確かに、深追いはするなとは簡単に言えども、意外と難しい。
あともう少し──そう思って深追いしてしまう自分に気付けるかどうか。
「そうだな。敵機は女だとでも思えばいい。落とすには押し際、引き際が大事ってこと」
どこか男女の駆け引きにも似ている。
「わかりやすい。さすが小隊長、経験がものを言いますね」
「あのなぁ、勘違いすんなよ。ただわかりやすく例えただけだ。言っとくけど俺は女に駆け引きなんてしないんだよ」
「えー。じゃあ違うじゃないですかその例え」
***
七二一空戦闘三〇六、戦闘三〇七飛行隊
十五時三十分──F4U第一波来襲
第一波では三〇六飛行隊からは神崎率いる第一中隊(雲雀)が発進準備に入った。三〇七飛行隊からも十四名が発進準備に入り、述べ二十四機が基地を飛び立った。
富高基地から次々と敵機の進行位置を伝える無線電話が入る。
空戦域となるであろう場所まで進出すると、櫻井率いる第三小隊は、富高基地上空附近を飛行するF4Uを見つけた。
「富岡基地上空附近、約四五〇〇メートル稍劣位高度にてシコルスキーを発見。敵機約十四機。直ちに空戦に入る」
櫻井が無線電話で富高基地に報告すると、富高基地から『了解』と、ノイズと共に声が入る。
他機から突撃を意味する『ト』連送が入った。
敵の方が高度が高く、今度はこちらが若干不利だ──そんな事を思っていると、神崎小隊は櫻井に行くぞと合図を送り空戦域に入っていく。
敵機はすぐに櫻井の零戦に気付いた。F4U二機編隊は急降下して機銃を浴びせてくる。
(そんな事は計算済みなんだよ!)
F4Uは速いが体が重い。あのB-29ほどにもあろうかと思える大きなプロペラを回すにはあの機体以上の馬力を必要とするだろう。
スロットルのレスポンスは大いに悪い事が予想されるわけだ。大気の厚い低高度に持ち込めば、急降下からの機首引き上げは難しい。
(上昇させずに低空戦に持ち込むまで!)
F4Uが急降下してくるのと同時に櫻井も機体を反転させながら急降下し、大友と編隊を解除する。
そして、わざと後ろを取らせた。F4Uの急降下速度は零戦よりも速いから、敵の照準に入ってはこちらの負け。
敵の機銃の軸線をどれだけ躱せるかが腕の見せどころなわけだが──正直、少しでもミスを犯せば被弾は確実で、死ぬであろう非常に危険な戦法。いや、戦法ですらないかもしれない。
(大友、水木、岩崎! 後ろを頼んだ!)
そう、心の中で叫びながら櫻井は零戦で出せるありったけの速力で急降下しながら機体を回転させると、ミリミリと自機の翼に皺が寄った。
あまり無理は出来ないから、手早く終わらせなければならない。
敵機が容赦なく機銃を撃つのを、後ろも見ずに櫻井は回転して躱す。
曳跟弾が面白い程機体を掠めていくのを見て、
「下手で助かる!」
なんて言葉が思わず出た。
後ろを敵機に張り付かれた櫻井が約一五〇〇メートル付近まで降下した時、櫻井は思い切り操縦桿を引いて機首を引き上げた。
狙うは敵機のオーバーシュート。
プラスGがこれでもかという程身体にかかり息ができない。頭から血が引いていくのを言葉にならない声で堪えながら、必死に操縦桿を引き続けた。
翼がミリミリからギシギシと、より一層強い音を立てて今にも引き裂かれそうだ。
急降下からの急上昇は負担が大きい。
敵も上昇を試み機首を上げようとするが──読み通りその機体は重く、急降下から反転上昇する櫻井機を素通りしてオーバーシュートした。
その上昇機動で急激に失速したF4Uの後ろについたのは二番機──大友。三番機、四番機はその後ろにいる片割れのF4Uを追っている。
大友がF4Uの後ろにぴたりと張り付いて、機銃を斉射しているのが見えた。
F4Uは旋回で躱そうとするが、旋回したおかげで失速が失速を生み、F4Uは大きく緩やかな旋回軌道を描いている。
ここまで来たらF4Uなど零戦の餌のようなもの。
大友の曳跟弾はF4Uの胴体に吸い込まれて、あっという間に赤い炎が吹き出した。
「さすが大友!」
──この間約三分。
***
十五時四十分──第二波来襲中の富高基地上空、第二陣の二十四機の大隊が飛び立った頃、富高基地のエプロンに一人の男の怒声が響いた。
「うおおおおい! なぁあんで直ってねえぇんだよ!」
兵器整備員に怒鳴り散らかしているのは──
「弾だよ、た・ま! また出ねーぞ! ちゃんと潤滑油入れとんのか!? あぁ!?」
第三小隊、第二区隊長相馬知英だ。
第一波邀撃に向かうところで試射をして、何発か撃ったところでまた弾詰まりを起こしたのか弾が出なくなった。装填レバーを何度も引いてもうんともすんとも言わない。
既に至るところで空戦が始まっていて、相馬はその混戦の合間を縫ってひたすら富高基地に着陸許可をしつこく煽りに煽って、着陸許可が出た時には風向きなどお構い無しで着陸。
見張りの電信員に怒られるも、そんな事耳にも入れず向かう先は兵器整備員の元。
そしてエプロンで怒鳴り散らかしているというわけだ。
「さっき直した言うとったやないか!」
「すみません、確認します」
「敵は兵力どんどん増強してんだぞ!?」
「はいぃ!」
手隙の兵器整備員三名で相馬の機銃の故障探求すると
「うわあ……また薬莢噛んでますねぇ……」
とぽつり。
「噛んでる、じゃねーよ! 早く直せ!」
兵器整備員が噛んだ薬莢をせっせと取り除いて掃除をしているのを腕を組んで見ていると
「そんなに目くじら立てんなよ"タマ無し"」
と、背後から声がした。
振り向くとそこには涼しい顔をした櫻井がいた。第一波来襲後、燃料補給の為に戻ってきていたのだ。
櫻井という男は人を煽るのが得意な顔をしている。その涼しげで、余裕のある顔こそが憎たらしい。
「だーれーが"タマ無し"じゃ! しっかりタマはあるわ失礼な!」
「まあまあ、そう見栄を張るなよ見苦しい」
弾とタマをかけてふざけたあだ名をつけ、更に何か裏があるような意味を含ませて言う櫻井に相馬が噛み付くように言うと、櫻井が突然穏やかに笑った。
「……良かった。いつもの相馬に戻ったな」
突然、あまりにも優しく言うものだから、もっと文句を言ってやろうと思っていた矢先に思わずな不意打ちを食らって、相馬は言葉が出なくなった。
煽るのが得意な顔は、人を黙らせるのも、調子を狂わせるのも得意な顔をしている。
そんな櫻井があたたかくて、なんだか救われたような気がしたのは事実。
「べ、別に……」
相馬がそんな風に言って目を逸らすと整備員が櫻井に駆け寄り
「櫻井中尉、補給完了しました」
と言った。
「ああ。ありがとう」
そう言った櫻井は、突然こちらをじっと見て
「落下傘」
と、相馬が背負っていた落下傘に付いている自動開傘索を指さした。
「その索の部分──劣化してるぞ。新しいのあったろ、それ持ってけ」
そんな事を言う。
(劣化……?)
索を見ても特に劣化は感じられなかったが、櫻井が指摘するならそうなのだろう。
相馬が索をまじまじと見ていると櫻井は
「じゃあな」
と言って足早に乗機へ戻って行った。
そんな櫻井の後ろ姿を見ながら、相馬は
「……変えるか」
と言って背負っていた落下傘を下ろした。いつもなら面倒なのでそんな事しないのだが──後で思えばこれは虫の知らせだったのかもしれない。
落下傘係に「索が劣化してるらしいけん返納品に帳簿つけといて」と、落下傘を強引に押し付け、新しいものを持って来させていると、機銃の準備が整ったのか兵器整備員が駆け寄ってきた。
「相馬中尉。十三ミリは何とかなったのですが、二十ミリの方は薬室内で焼き付いてしまっていてどうにもなりません。今度機銃を交換しますので、すみませんが十三ミリと七・七ミリで凌いでください。百発ずつ装填済みです」
「はぁ? 二十ミリが使えねーだと?」
相馬が鋭い眼光で睨みつけると、兵器整備員は萎縮した。
「も……申し訳ありません……」
相馬は舌打ちをした。無理なもんは仕方ない。
(これじゃ本当に"タマ無し"じゃねーか……)
「ったく! 十三ミリまた詰まったら承知しねーからな!」
と、頭に怒りのツノを生やしながら捨て台詞のように吐いて相馬は離陸した。
この日、『タマ無し』というあだ名が櫻井によって付けられたが、それが広まるのはもう少し後の話。
相馬が三番機の綿引一飛曹と合流出来たのはその二十分後。逸る気持ちを抑えながら相馬は適当なところで試射をした。
とりあえず弾が出て安堵する。先程は十三ミリと二十ミリが弾詰まりを起こしたという不運を考えると、随分な進歩。とりあえず十三ミリと七・七ミリは出るのでなんとかやれそうだ。
混戦の最中、辺り一面が煙で曇っていて視界が悪い。良く見えないが、述べ五十機近くはいるだろう。それが味方なのか敵なのか判別がつかない。近づいたときにちらりと僅かに見える、味方識別の赤い日の丸だけが頼りだ。
敵らしきものが早速こちらを見つけて高速で迫ってくる。敵はF4U編隊。
赤く光る曳跟弾がこちらに向かってくるのが見え、相馬はエンジンを全開にして機体を滑らせながら敵機の曳跟弾を避ける。
操縦桿を斜め手前に引いて、横転と機首上げを繰り返してバレルロールすると、自機が失速したと同時に直進してくる敵は相馬の頭上を通り過ぎた。
それを見計らって相馬は反転、敵機の後ろに張り付いて一気に十三ミリを斉射した。
「弾さえ出ればこっちのもん!」
弾が出るという事がこんなにも気持ちに余裕を持たせてくれるものだとは思わなかった。
相馬は叫びながら敵機の未来位置にありったけの十三ミリを撃ちこむ。
その十三ミリが気持ちいい程に当たる。自分の射撃精度に惚れ惚れするが、火花を散らすだけでなかなか燃えない。
二十ミリが撃てない事に苛立ちを覚えるが、今はやるしかない。
──反省はしても後悔はするな
櫻井の声が脳内で響いた。あの調子の狂うような優しい顔で言う櫻井に救われたのだから。
「俺は後悔はしないと誓ったけん! だけん、戸田と林原の分の弾ば盛大に見舞ってやらんばな!」
相馬は敵の未来位置へ斉射を止めなかった。十三ミリ弾を全弾撃ち尽くす勢いで。
もうすぐ弾が切れるといったところで、敵機の主翼が折れた。
「よっし! 撃破!」
そう言ったその時──突然、機体全体に対空砲射でも当たったかのような大きな衝撃が走って、目の前を真っ黒な煙が覆った。
「うわっ! なんだ!?」
ガタガタと機体が激しく振動して、揚力を失うあの独特な感覚がした後、ぼんやりと見えていた茶緑の陸地が上になって機体が失速した。
(敵機がいたのを見落としたか!? いやそんなはずは! 敵機につかれてはいなかったはず──)
辺りを確認すると、真っ黒な煙が左舷から勢いよく吹き出していて、その合間に見える左翼の半分は、まるで何かが衝突して削り取られているかのような。
それを見て、一瞬で血の気が引いた。
(うっわ! やばいやつ!)
何が何だかわからないがそんな事を考えている暇はない。
相馬は慌てて座席のベルトを外し、風防を開けた。機体の向きなどお構い無しに、祈りながら思い切り宙へ飛び出すと、落下傘の索が墜落する自機の尾翼に引っかかりそうになって、
──切れる!
そう思った時、尾翼と索はスレスレのところを掠った。ガクンと体が引っ張られ、落下傘が無事に開傘したと思いホッとする。
そして相馬はすぐに自機に何があったのか、辺りを確認しようと見回したその時──
(あれは……)
今まさに敵機に向かって激突せんとする零戦がいた。
片翼を失った──零戦が。
片翼を炎上させた零戦は、爆発音を轟かせながら敵機と空中衝突して、粉々になって散っていく。
敵機と共に、仲間が海の藻屑へと消えるのを──ゆっくりと降下しながら相馬はただ呆然とそれを見ていた。




