厚木のレジェンド
一方厚木基地では、厚木基地の起床ラッパが鳴ってすぐの頃、当麻は指揮所の隣に備えられた彗星夜戦隊の長机で朝食をとっていた。
当直であったから、少し早めの朝食をとっているのだが──
「がはあぁぁ!」
当麻は口に含んだ味噌汁を、みっともなく器に戻した。泥臭い海水みたいな味がするだけの汁が口の中に広がって、身体が勝手に拒否反応を起こしたのだ。
当直明けの身体に不意打ちを突かれた。
黙々と食べている他の当直員の視線が一気に当麻に集まり、その視線が痛い。
匂いだけはいいのに騙された。
日本海軍といえば飯が美味いというのが常識だが、陸上の航空部隊は調理員の腕次第なところがあった。
(くそ、今日はレジェンドの日かよ!)
そう、厚木にはレジェンドがいる。
レジェンドとは、恐ろしくまずい飯を作る伝説の調理員の事だ。伝説=Legendということで、『レジェンド』と呼ばれている。
(皆黙々と平気な顔して食いやがって)
ここ一ヶ月で何日かに一回このレジェンドに当たるようになった。陸上の航空部隊は調理経験の無い人間が調理員として徴用される事があり、こうしてレジェンドを生み出す事がしばしばあった。
予備士官とはいえ、これでも一応士官の食事である。しかも、下士官と違ってこれで給与天引きなのだから笑えない。
どんなに飯がまずくても感謝して食べるのが海軍士官──そう言い聞かせ、予備士官達は黙々と食べていた。
一応、士官は弁当をとったりするなど別で食事をする事も出来るというが、面倒くさい上にお金もかかるので、予備士官はそんな事をしてまで外食をする人はいなかった。
因みに、レジェンドを探し出して文句を言ってやろうなんて人がいなかったのは、士官故のプライドというやつである。
もしこれが下士官の調理員だったら、今頃吊し上げられていたに違いない。
「さあーて、どうやって食おうかな……」
当麻は、味噌汁のような色をした汁に目をやった。
黙々と平気な顔をして食べている奴らは、きっと勝ち組に違いない。
(あいつら、絶対味の素持ってるな)
最近厚木で密かに流行っている味の素。
どこか海外の葉巻と交換までして手に入れたという人間もいた。そこまでするか? という疑問もあるが、そこまでしないとやってられないのだ。
この味の素──グルタミン酸ナトリウムはレジェンドを乗り切る為の超スーパーアイテム。この超スーパーアイテムを手に入れられた者は毎日の生活を豊かにする勝ち組なわけだ。
このグルタミン酸ナトリウムは、昔はあちこちで売られていたものの、今やどこにも売っていないから、誰かと交換する他なく、勝ち組度が高い。
残念ながらそんなもの、当麻が持っているはずもなく。
どうしようもなくて、付け合せの沢庵と蒸したベーコンの切り身、焼き鮭をほぐして海水のような味噌汁の中に入れてぐちゃぐちゃにかき混ぜた。
海軍士官たるもの出された食事を猫飯にするなんざみっともない、そんなプライドは捨てた。
これも、銃後からしてみたら豪華な食事なのだ。
それにしても、どうしたらこんな単純な汁を不味く作れるのだろう。ある意味才能である。
米があるだけ幸せと思え──そう思いながら当麻はぐちゃぐちゃにかき混ぜた猫飯を一気に口の中に流し込んだ。
混ぜて食べる事を想定されていたのか、混ぜて飲めば海水も美味く感じる──わけがないのだが、幾分かはマシだ。
思わず戻した汁も、今度は戻さずに食べられた。ろくに噛んでもいないから、食べたというより飲んだに近い。
朝から餌を食べたというどうしようもない後悔めいたものを感じながら、汁を飲み込んですぐに当麻が席を立とうとすると
「当麻中尉、もういいのですか? お代わりありますよ」
と、従兵に声をかけられぎょっとした。
従兵がすました顔で器に盛ろうとするものだから
「あーちょっとちょっと! やめ!」
と、全力で静止した。
「今日、胃の調子が悪いからやめてくれ──いや。やめろ」
当麻が睨みつけるように低い声で言うと、従兵は
「あ、ハイ! 大変申し訳ありませんでした!」
と言って頭を下げ、慌ててその器を下げた。
従兵はいつも穏やかな当麻の滅多に見ないこの必死の剣幕に少し怖気付いているようだったが、当麻はそんな事を気にかけてやる余裕もない。
また餌を食うか食わないかの命運がここにかかっているからだ。
従兵をビビらせたことによるジトッとした視線が当麻に集まって、非常に気まずい事この上ない。
「わ、悪気はないんだよ」
当麻は苦笑いを浮かべ、手を前に出して宥める姿勢をしながらゆっくりと後ずさった。そしてその視線から逃げるように足早にその場を去ったのだった。
*
当麻は少し早めに朝食の交代をして当直室で座っていると、同期の彗星隊偵察員の川西がひょっこりと顔を出した。
「 おはよう。今日はどうだった?」
どうだった?──これは朝食の事だ。当直員に今日の飯具合を聞くのが最近の流行りになっている。勝ち組アイテムを持っていない負け組の人間同士はこうして情報共有する。
当麻はニッコリとしながら親指を立てて『Good』の指をした。
川西は安堵したようにその場を去るが──その一時間後。
「騙したなテメェ!」
川西が略帽を乱暴に被りながらずかずかと当直室にやってきて、腕で抱えるように当麻の首を締めた。
「いでででで!」
「レジェンドならレジェンドと言え!」
「だから! 俺はレジェンドの『Good』をしたろ。気付かない川西が悪い」
「普通『Good』といったらセーフを意味するだろ、セーフを!」
「そんなこたぁー知らん!」
川西と当麻がくだらない揉み合いをしていると、突然当直室の黒電話が鳴った。
同当直員である彗星隊の今村が当直室の電話を取るなり、顔つきが険しくなる。
今村が電話を置いたのを見計らって、
「おい、どうした」
と、川西が声をかけた。
「今から士官全員を招集かけろと」
「は? 真面目にか」
「これから、重大発表があるらしい」
一気に当直室の空気が凍った。
重大発表──その言葉でその場にいた誰もが察した。
──もうすぐ決戦がある事を。




