遺書は書かない、そう決めた
「くそ、だいぶ油にやられた」
櫻井は真っ黒に汚れたマフラーをごみ捨て場に捨てた。鹿屋基地に残してきた従兵が荷物を持って列車で富高基地へ来る予定であるから、マフラーくらい無くとも問題ない。
飛行服も黒くベタベタに汚れてしまったのでその辺にいた整備員に精油を貰って何とか落としたが、まだ薄らとシミが残ってしまっている。飛行服なんて元々汚いものだが、見た目に更に汚さが増した。
下に着ていた軍服まで黒い油は侵食していなかったから、軍服のクリーニング代は省ける。
櫻井は飛行服を広げて胸ポケットに目をやった。
この中にはいつも入れている物がある。三○二空にいた時からずっとだ。
それは、水にも油にも弱いから、飛行服が油まみれになった時はさすがに焦った。
ある程度手も洗ったが、手がまだ油でベトベトしている。色も完全に落ちたわけでなく、手の指紋に黒い油が入り込んでそれは当分落ちそうにない。
櫻井は恐る恐る胸ポケットのボタンを外し手を入れた。手の汚れがそれに付着しないように、そっと。
そして人差し指と中指で慎重に取り出すと、少し皺の寄ったそれがあって、特に汚れは見当たらなかった。
櫻井はホッと胸を撫で下ろすと、それを今度は軍服の胸ポケットに慎重に入れた。
*
櫻井は、富高基地を当直将校に一通り案内された後、朝食を摂った後に指揮所の飛行隊長室に足を運んだ。
ここ、富高基地では桜花特別攻撃に際し直援制空隊の戦闘三〇六飛行隊、戦闘三〇七飛行隊の二隊が展開している。櫻井は戦闘三〇六飛行隊の所属だ。
三〇六飛行隊では、指揮所外に置かれた簡素な黒板に書かれた搭乗割によると、午前六時二十九分より零戦四機が待機に入っていて、四時間交代で待機するようだ。
「遠路ご苦労だった。早々トラブルに見舞われたようだがよくやってくれた。厚木では夜戦邀撃のエースと聞いたが、なんだか大人しい顔してるな」
神崎にも野中と同じ事を言われた。そんなに顔が大人しそうに見えるのかと、鏡で見たい気もする。
神崎は、若々しく、どこか戦死した零夜戦隊飛行隊長の荒木を彷彿とさせるようなくっきりとした顔立ちをしていて、どこか懐かしさを感じさせた。
「ところで、三〇六飛行隊については知ってるか」
急に神崎の目付きが変わった。
「ええ、野中少佐からある程度は伺いました」
「それなら話が早い」
「第一回神雷桜花特別攻撃隊──これがもうすぐ行われる作戦だ。明日、明後日にも発令されるかもしれない」
と神崎は言った。
急すぎるわけではない。そこまで日本は追い詰められているのだ。明日、明後日、沖縄上陸作戦を試み、哨戒機や戦闘機を送り込んでくる可能性があるのだ。
ここ、九州に展開している部隊は、それを食い止める為の唯一の砦。硫黄島が完全に陥ちた時──ここが砦となるのだ。
「勝手ながら、櫻井は三〇六飛行隊の小隊長として組ませてもらった。俺と連携を組んで、指揮を執ってもらいたい」
「わ、私がですか?」
思わず櫻井は素っ頓狂な声を出して言った。
(だから鹿屋で与えられた乗機が一番機だったのか)
「そうだ。やれるだろ」
櫻井は戸惑った。
「私は予備士官です。小隊長以上は海兵出身者若しくは特務士官の──」
「ここは俺達戦闘機隊にとって終局の地だ。そんな法則は糞の役にも立たんのだよ。海兵だろうが叩き上げだろうが、腕がなければ全滅していくだけ。ここでは俺が認めた者が指揮を執る、それだけだ」
神崎は櫻井を真っ直ぐに見て言った。
「ゆくゆくは菊水作戦に合流する。それまで、俺達は耐えなければならない。その為に櫻井が必要だ」
その目は、昨夜野中が『素直に俺の命を預かりな』と言った眼に似ていて、気づけば櫻井は
「わかりました。やり遂げます」
と言っていた。
やれるだろうか──そんな不安は抱かない。
やるしかないのだから。
七二一空では、大隊―中隊―小隊―区隊と、細かく分けられている。櫻井は小隊──言わば区隊を二つ持つ。二つの区隊の指示系統を櫻井が行う。
今後の作戦を一通り話し終えた後、一礼して部屋を出ようとする櫻井に
「一つ言い忘れた事がある」
と言って、神崎は呼び止めた。
「貴様に言いたくはないが──遺書は書いておけ。皆、既に済ませている」
櫻井は
「承知しました」
とだけ言って部屋を出た。
部屋を出ると、櫻井は深呼吸した。
「遺書……ねえ」
遺書を遺すなんて考えてもいなかったから、今更感がある。
誰に? 何を? そんな事を考える。今更継母である伯母に書くのか──いや。そんな事を考えたり。
ただちらつくのは──
『櫻井さん! 準備完了しましたよ! 今日も無事に還ってきてくださいね』
そう言って、男整備員顔負けの仕事をして、ひたすらに乗機を見てくれていた、あのみつきの姿だ。
そんなことを考えながら、櫻井は宛てがわれた四人部屋の士官私室の自室に戻ると、部屋の隅にある机の椅子に座って先程胸ポケットにしまったそれをぼんやりと眺めていた。
今日する事といえば着任後の荷物の整理をしたり従兵の到着を待つくらいだから時間はある。
胸ポケットから取り出したセピア色のそれには、白の第二種軍装を纏った──自分。そして隣にはもんぺを着て微笑む一人の女性が写っていた。
そう、いつかみつきと二人で横浜に行った時に老夫婦が撮った写真。
西瓜を買いに行きたい──突然そんな事を言われて買いに連れて行ってあげたっけ。
そんな事を思い出しながらぼんやりと、写真を見つめた。
あの時、夫婦だと間違われたのを今なら素直に嬉しいと受け止められると思った。
「今更悔やんでも……遅いな」
自分でも信じられないほどに彼女への想いが強かった事に、今更になって痛感する。思わず情けなくて笑いがこぼれた。
すると、突然居室の扉が空いて
「小隊長」
と、突然声をかけられた。
櫻井は写真を机に置き、声の方向を向くと紺のマフラーをつけた男が立っていた。
(何故俺が小隊長である事を知っている……?)
櫻井は近寄るその男を訝しむように見た。その男は、目鼻立ちが薄く、骨をあまり感じさせない顔立ち。少し丸っこい目が女のようにも見え、こんな男が猛々しい印象の強い零戦パイロット──ましてや制空隊にいるとは驚きだ。
「俺は相馬知英中尉。区隊長だ。そして、同じ十三期出身。よろしく」
そう言った相馬の声は、柔らかい印象とは裏腹に男らしく低い声である。少し好戦的な印象も受け、何故かそんな事に馬鹿馬鹿しくもホッとした。
「櫻井紀中尉だろ。知ってるよ、有名人」
と、相馬は言った。
「貴様の事は神崎飛行隊長からよく聞いていたし──俺はそのもっと前から貴様を知っている」
(はあ。何を言い出すんだ、こいつは)
「なんたって、櫻井の事は新聞でよく見かけていたからな」
「新聞?」
櫻井が聞き返すと、相馬は少し怪訝な顔をした。
「飛行学生を首席で卒業したの忘れた? 十三期の予備士官の中で撃墜数がずば抜けて多い自覚はある? それで新聞を賑わせてたの、知らない? 飛行隊長が櫻井を小隊長に指名した理由もまさか忘れたとか言うなよ?」
この相馬という男は、随分と櫻井紀という男を研究しているもんだ。
「新聞は出来るだけ読むようにしていたが、俺自身がそこまで持て囃されていたかどうかは知らない」
櫻井が冷たく返すと、相馬はなんだか気に入らない様子で
「ふぅん。毎日のように邀撃に出とったら、自分のニュースば見る暇も無かかもしれんね」
と言った。
九州の出身なのか、矯正された標準語から相馬の訛りが出た。海軍では基本的に訛りは矯正されるが、こうしてふとした瞬間に出る人間は多い。
「で? 要点は何だ」
櫻井は苛ついた声をぶつけると、相馬は
「まあ怒るなよ。俺もこれでもやり手だったんだぞ。でも櫻井の記録にはどうしても勝てなくて、いつか会いたいと思ってた。辞令広報で神雷部隊に櫻井の名を見てからどんな人かとワクワクして待ってたわけだ」
と言って、ベッドの一段目にどかっと座った。
「それで、相馬の想像の俺と現実の俺はどうだったんだ?」
「まあ、想像した通り優等生かな。あと少しずるそう」
「何がだよ」
「なんか、顔が」
意味のわからない指摘に櫻井はイラッとした。
「どうせ会うならこんなところじゃなくて、三五二空にいた時に会いたかった。俺のいい好敵手になれたのに」
「三五二空? 九州の防空の要か」
「そう。そりゃ連日のように空襲があって大変だったよ。三○二空に負けるなってB-29を堕とすのに命を懸けていたのに──それなのについこの前、こんなところに飛ばされたばかりだ」
三五二空は三○二空と並ぶ日本本土を防空する海軍航空隊だ。三○二空が首都、三五二空が九州防空の要──相馬は何だかんだ誇りを持って戦っていたのだろう。
そしてポツリと一言。
「……死にたくない」
とだけ言った。
相馬は俯いて、小さな声で。
相馬は九州防空をしていた頃は死をそんなに恐れてはいなかったんだろう。恐らく、自分の力量次第で生き残れる自信があったからだ。
けれども、これからは違う。
死にたくない──その気持ちは、分かりたいけど分かりたくなかった。
何も失うものが無かった時は何も怖くなかった。けれども今は──
「櫻井は、どうせ怖いと言わないんだろ」
相馬は顔を上げずに言った。多分今までの自分ならきっと、それに同意していただろう。
「さあ、どうだろう」
死が怖くないと言えば嘘になるし、怖いと言えば嘘になる。
ただ自分でも確信に触れたくなくて、どうとでも取れる言い方をして誤魔化した。
相馬は
「俺は死ぬのが怖いから、おかげで遺書は書けない。未だに」
と、顔を伏せたまま言う。
「俺は遺書を書くつもりはない。誰にも」
櫻井がそう言うと相馬は顔を上げて
「その女には書かないのか? 嫁だろ」
と、机に置いた写真を指した。
「ああこれか。嫁に見えるか? じゃあそうかもな」
櫻井は写真を持ち上げて光にかざすようにして見上げ、少し笑った。
「嘘。別に何でもない、ただの俺の整備員だよ」
そう言って、櫻井は胸ポケットに写真を収めた。
「え? 女が整備員? 外部嘱託か何か?」
「まあそんなところ。彼女の零戦はいつも完璧だった。彼女がいなかったら俺は……今頃相馬に負けていたかもな」
櫻井は相馬に意地悪に言ってみせた。
「は? なんだよ、腕がいいのを零戦のおかげーみたいなその謙遜。俺の思った通りのずるいやつ!」
と言うものだから、
「そうかもね」
と言ってやった。
「櫻井の根がこんな意地悪野郎だって知ったらその子泣くぞ」
「さあどうかな。彼女は散々泣かされても俺が好きなんだから」
「ああ? この期に及んでN話か? だったらただの整備員とかしこぶっとらんで遺書なり何なり書いたら──」
「それは出来ない」
櫻井は相馬の言葉を遮るようにして言うと、相馬がえっ、という顔をした。
「折角断ち切ったんだ。俺は忘れたい。これからはもう、目の前の事に集中したい」
今、嘘をついた。
忘れたいなんて嘘だ。
忘れられるわけがない。きっと、どんな時でもみつきが目の前に現れて、どんな時でも自分の味方になる。
彼女は、自分が戦闘機乗りである為の原動力。
それは嘘偽りのない事実。
けれどもこれ以上、捨てたはずのこの世に、まだ未練がある事に──気付きたくなかった。言いたくなかった。
だから咄嗟に嘘をついた。
しんとした室内。相馬が罰が悪そうな顔をしていた。
「そうか、ごめん。櫻井」
何かを察したのか、相馬はこれ以上追求して来なかった。
自分でも認識していなかった自分の弱さを──認めざるを得なかった瞬間だった。
「なぁ、櫻井。そのうち書かされるぞ、毛筆で立派な辞世の句みたいなやつを。俺は書いた」
「それは断れるのか?」
「強制。いつか靖国に飾るんだとよ。いつになるか知らんけど」
「へぇ、じゃあ飛び切りの句を書かないと死んだ後も恥を晒すというわけか。それは酷だな……」




