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初飛行は災難だらけ

 翌日、午前四時三十分──飛行服に着替えた櫻井は、整備員の持つ赤い整備灯で照らしながら飛行前点検をしていた。


 この日、櫻井にあてがわれたのは零戦五二型乙。厚木に還納され七二一空に返還されたばかりの機体だそうだ。

 二十ミリ機銃と七・七ミリ機銃、十三ミリ機銃が装備されているが、櫻井は七・七ミリかあ、と少し残念に思った。厚木ではずっと十三ミリと二十ミリでやってきたものだから、七・七ミリの使い道がいまいちわからない。


 尾翼に目をやると、機体番号『721-164』と書かれている。その上には長機標識と思しき白の斜めクサビマークがあった。


 どうやら自分の乗機は小隊長以上の身分らしい。


 零戦を用意してくれたのは桜花隊から分離した戦闘三〇五飛行隊の整備員だ。桜花隊には特攻隊員による直援隊も編成されており、彼らは直援として飛行した後、『桜花特別攻撃隊』として散華する運命にある。


 九州の空はまだ暗い。天文薄明の頃、空にはまだ星がキラキラと見えていて、いつもより遅く迎える夜明けになんだか新鮮な気持ちになる。

 しかも気温は八度、この時間ではまだまだ寒さの残っていた関東とは違うなと改めて感じさせられた。


 敵による夜間攻撃を警戒して、灯は離陸時の目標の為に付けられた飛行場の端のカンテラ一つのみ。

 その他は整備員の持つ薄い赤い整備灯だけが暗闇の中にぽつぽつと浮かんでいた。


 ここ最近昼間飛行ばかりで、本業であったはずの夜間飛行はすっかりご無沙汰だった。


 久々の夜間飛行を凄く楽しみにしている自分がいる。

 景色が見えないから面白くないと皆は言うが、櫻井はそうは思わなかった。


 地平線や水平線すら見えない状態の中を航法計算や計器だけで飛行し、そこで狂いなく目標に辿り着けた時の達成感は何にも変えられない。


 我ながらそんな自分を変わってると思った。


 飛行前ブリーフィングに代理で来た陸攻の飛行隊長の野中に

『夜間飛行が出来ると聞いて期待した副長が、わざわざこんな時間に飛行作業ぶっ込んだらしいぞ』

なんて、言われた事は良いのか悪いのか。


 富高基地まで約五十分前後の飛行、手っ取り早く計器飛行の腕を確認するには充分といったところか。


 櫻井は操縦席に乗り込み、電源を入れて電源系統、昇降舵エレベータ方向舵ラダー補助翼エルロンの動きを確認した後、電源を切って操縦席から降りた。

 左回りに周りながら胴体やタイヤ、尾翼等をくまなく点検した後、プロペラを数回手回しして下部シリンダーの油溜りが無いか確認した。


 櫻井は再び操縦席に乗り込み、カウルフラップを全開、そして燃料をシリンダーに注射する。


「燃料コック開、AMCフリー確認」


 櫻井は指差し確認をした後、燃料を行き渡らせる為にプロペラを回せと合図しようとしたのだが──整備員がいない。


(真面目にか)


 いつもなら絶対に待機している整備員がいるのにだ。


「おい、みつ──」


 そこまで言いかけて櫻井は

(ああそうか、いないんだ)

と思った。


 男顔負けの力で、必死にクランク棒を回し、

『櫻井さん! コンタクトを!』

と言って腕を上げて言ってくるみつきを。


 仕方なく操縦席を降りて一人でプロペラを回した。

 再び操縦席に乗り込んで電源を入れた後、積んでいたクランク棒を持ってまた操縦席から降りて今度はクランク棒を突っ込んで一人でイナーシャを回した。


 降りたり乗ったり実に忙しいことこの上ない。


 そんな事をしていると、ようやく整備員がやってきた。


「お前! 遅いぞ!」

「すみせん!」

 苛立って思わずお前呼びしてしまったが、櫻井は

「もういいから、前払え!」

と言って、操縦席に乗り込みながら整備員を避けさせた。


「コンタクト」

 右足で操縦桿を手前に引き込んでスロットルを少し開きながら、櫻井がイナーシャスターターレバーを引くと、イナーシャとエンジンが接続してプロペラが回り始めた。


 エンジンがバリバリと音を立てて黒煙を吹かす。

 紫外線灯を付けると計器類がぼんやりと浮かんだ。


「排気温、燃料圧力、エンジン油圧、作動油異常無し。油圧温が若干高めか」


 そんな風に独り言を言ったが、少し様子を見る為にこのまま試運転を続けた。

 油圧温は少しユラユラするものの、本来七十度前後であるべき油圧が七十五度前後を指していて、少し不安が残るがそのまま飛行する事に決めた。


 飛行眼鏡を装着してプロペラピッチを低にして磁気コンパスを合わせた後、櫻井は準備完了の舷灯を点ける。

 すると、翼端が白く塗られた翼がぼんやりと見えた。


 七二一空独特のこの塗装は、陸攻隊と戦闘機隊の編隊飛行時の味方識別マーク。


(へえ、なかなかいいマーキングだな)


 そんな事を思いながら櫻井は

「チョーク外せ!」

と叫んで整備員にチョークを外させた。


 離陸目標灯であるカンテラの灯りを頼りに暗闇の滑走路に向けてタキシングした後、ブレーキを一杯に引いて、油圧温度に気を使いつつ滑走路で指揮所からの指示を待つ。


 暫くすると、離陸よしの発光信号が送られてきた。

 

 スロットルを全開にして、思い切り操縦桿を押し込んで滑走するが、地上は横風が強く少し煽られる。

 櫻井は、機体の水平をラダーペダルで方向舵を制御しながら維持する。

 そして、速度が約百五十キロになったところで操縦桿を引くとやがてタイヤから伝わっていたガタゴトとした振動が途絶えた。


 離陸目標灯が見えなくなったと同時に身体全面に心地よい重力を感じる。飛行機乗りで良かったと思う瞬間だ。


 プロペラピッチを高にして、スロットルを絞った後、脚と尾輪を閉まって、飛行眼鏡を外してゆっくりと深呼吸した。


「なんだか久々の飛行だ」


 下方は真っ暗で何も見えない為、これからは計器のみの飛行となる。櫻井は時計を確認し、離陸時間を記録板に書き込んだ。


「それにしても、斜銃が無いと軽いんだな」


 三〇二空の零夜戦と違って、なんだか機体が軽い。斜銃が無いだけでこうも違うかと感心したと同時に、その重さが無くなった事で櫻井はなんだか寂しいような懐かしいような不思議な気持ちになった。


 櫻井は飛行場上空を旋回した後、高度を三千メートルをとって予定コースに定針する。



***



 櫻井が富高基地へと鹿屋基地から飛び立ってから約四十分程経過した頃、払暁に入り空が白みがかってきた。

 辺りがようやく少しずつ確認できるようになった頃、予定通りの位置に富高基地が小さく見えてきた。

 地図に書き込んだ飛行予定ルートと殆ど相違ない。


 そろそろ着陸準備か、そう思って富高基地に打電した時、エンジンの回転数が高いにも関わらず油圧がみるみる下がり始めた。


 やがて墨のような液体が機体をパチンパチンと弾くように飛び散り、風防を黒く染め上げる。

 計器を確認すると油圧温度は九十五度、シリンダー温度は二百三十五度を指していた。


(まずい、エンジンが焼ける)


 櫻井はエンジンを止め、飛行眼鏡を装着。

 安全ベルトを外して風防を開け、外へ半身を乗り出した。

 機体に目をやると、エンジンから漏れ出した黒いオイルが向かい風で風防や胴体をベタベタに汚しているのがわかった。


「あーあ。派手に漏れてるな……」


 還納から返還されてすぐだというのに、漏れたオイルがどす黒いのは、劣悪なオイルが使用されていたか、ろくに潤滑油の点検手入されていなかった事を表している。


 油圧温が少し高めだったのはオイル漏れの予兆だったかと、櫻井は自分の点検の甘さを少し反省した。


 なまじ三〇二空は整備状況が良かった為に、零戦について過信してしまう。オクタン価の低い燃料を使っているのだという事さえも、忘れてしまう程に。


 エンジンを切った今、方向舵、昇降舵の動きのみで滑空しているというのに、飛行眼鏡に容赦なく真っ黒なオイルが飛んできてうざい事この上ない。

 櫻井はそれをマフラーで拭くが、再び眼鏡は黒く汚れた。


 初日早々襲う、こんなトラブルもなんだか七二一空から課せられた試練にすら思えてくる。


「まあ、こんなもの朝飯前だけどね」


 そう言ってから、実際に朝飯を食べていない事を思い出して何だか笑えた。


 滑空からの着陸は風を読み、そして可能な限り滑走路の手前の狭い範囲を狙って降りなければ滑走路内で止まれない。


 だから、上手く滑走路の進入経路に近付かなければならないわけだが──櫻井は身体を乗り出しながら、片手と片足だけで補助翼と方向舵を器用に制御しながら、富高基地の滑走路を目視した。


「さーて、どうやって進入しようかな」





***





 富高基地上空を、一機の零戦が小さく旋回している。その零戦は、水平飛行ではなく少し斜めになっていた。


「あの零戦、様子がおかしい」


 富高基地の指揮所前の奥側に並んだ長机で、少し早めの朝食を摂っていた当直員が空を指さした。


 指揮所の屋上で高角望遠鏡を見ていた見張りの当直員が

「164機、足が出ていません。ペラも回ってない」

と言った。


 その様子を同じく望遠鏡で見ていた戦闘三〇六飛行隊長の神崎國雄大尉が

「櫻井か」

と、呟いた。


 その零戦は片側だけ補助翼が下がり、その反対側に方向舵が向いている。機首は下がっていて、右斜め前につんのめる形で滑走路に真っ直ぐ高度を落としてきた。


 しかも、風防から身体を乗り出している人影まで見えるものだから、見ていた人間は気が気じゃない。


「おい、立飛行してるぞ! 大丈夫か!」

「あのままだと墜落する!」

 誰かが次々と叫んで、指揮所周辺が騒然とした。


 もうすぐ地面に頭から落ちてしまうんじゃないか──そんな事を誰もが思ったその時、零戦の機首と片翼がふわっと上がり、バンク角が水平になった。


 そして、まるで通常の着陸と変わらないかのように驚く程静かに、そして滑るように地面に着地して、およそ二百メートル程腹を擦ってようやく止まった。


 その様子を見ていた搭乗員や整備員がポカンとしていると、零戦から人が出てきた。


 人が出てきてようやく零戦が胴体着陸をしたのだと把握して、辺りがわあっと沸いた。


「今の、胴体着陸……だよな?」

「あんな綺麗な胴体着陸初めて見た!」

「凄すぎる!」


 整備員と修補員がトラックやサイドカーの着いたバイクを出して櫻井の零戦の元へ向かった。


 そして、やがてサイドカーに乗せられて運ばれて来た櫻井が飛行隊長、神崎の元へやって来た。


「櫻井中尉、本日参りました。よろしくお願いします。妻町上空でオイル漏れを確認しましたが、飛行に問題はありませんでした」


 顔とマフラーを黒く汚して、何とも無いような顔をして淡々と言う櫻井に、神崎は感心した。


「やり手だと噂には聞いていたが、半身を乗り出したあの姿勢で、滑空から胴体着陸を難なくこなすとは──正直予想してなかった。はは、凄いよ本当に」


 神崎は正直な感想を言った。


 すると櫻井は

「飛行学生の時の訓練が今更ながら役に立ったような気がします」

と少し笑いながら謙遜するが、神崎は

(そう簡単にできる芸当じゃない)

と思った。


「当直員に洗い場を案内させるから、早くその顔を洗って来い」


 神崎は当直員を呼び付け、櫻井を洗い場に連れて行かせた。


(さすが、飛行隊きっての戦力者として司令が目を付けていただけある)


 しばらくして修補科の人間が

「胴体も擦り傷だけで損傷は見受けられず、とても綺麗な状態でした! エンジンも動かないあの滑空状態からの着陸は、まさに奇跡ですよ」

と、嬉しそうに報告しに来た。


(奇跡──か)


 神崎は改めて思った。

 桜花隊の直掩戦闘機隊に、新しい風を吹かせてくれるかもしれないって──。

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― 新着の感想 ―
[一言] 更新お疲れ様です。 いつもの調子でみつきを呼びそうになった櫻井・・・・ 単独エンジン始動、以前零戦の解説で足掛け用の『ステップ』を確実に踏まないと損傷するほどの強度というのを見かけました…
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