國賊と呼ばれた者
櫻井が通された部屋は、基地の外れにある崖の下の民家だった。ここは最近まで人が住んでいたのだが、基地拡大の為に強制疎開し、空き家になったものだという。
他の部隊は野里國民学校をそのまま使用した宿舎に居住している。部屋は余ってはいるのだが、そこは桜花隊の宿舎であるため入れないのだそうだ。
というわけで、今日はここに泊まる事になる。
「櫻井中尉、上陸はされますか?」
「いや、今日はもう寝るよ」
「では、何かありましたらその電話でお呼び付け下さい」
従兵が廊下にある電話を指して言った。
「ああ、ありがとう」
櫻井は従兵が出ていったのを確認すると、大きな溜息をつきながら上衣を脱いだ。
「はあ……疲れた」
溜息と共にどっと疲れがのしかかる。
入湯上陸の許可が出ていて鹿屋市街地に出ても良いとの事だったが、そんな気力はもうどこにもなく、明日の為にさっさと寝てしまおうと適当に服を脱いで布団を敷き、横に寝転がった時だった。
「いるかー?」
突然部屋の外から磊落な声が聞こえた。扉が遠慮なく開かれて、ずかずかと廊下を歩く音が聞こえてくる。
(は!? 聞いてないんだが!?)
そんな事を思う間もなく櫻井が慌てて起き上がると、三種軍装のズボンに、上は白い長袖シャツだけになった男が目の前に現れた。
「貴様が櫻井か。随分なやり手と聞いていたが、なんだか飛行機乗りにしては大人しそうな顔してんなぁ!」
上にシャツと袴下(ズボン下)だけの格好をしていた櫻井は、慌てて身なりを整えようとすると
「ははは、そのままでええよ。硬いことは抜きだ、俺もこんな格好だし。ちょっと貴様に話があってなァ」
と言って、男はその場に座り込んだ。
「俺は陸攻隊の七一一飛行隊飛行隊長、野中五郎少佐だ。貴様が来た頃、俺ァちょうど上陸しててね。櫻井が来たぞと行きつけの店に従兵から電話があってすぐ戻ってきたわい。いなくて悪かった」
そう言って、野中は手を差し出して握手を求めてきた。
「いえ、そのような事とは存じ上げず、寧ろお手間をお掛けいたしまして申し訳ありません」
櫻井は丁寧に謝った。
(……俺を? わざわざなぜ?)
少佐がわざわざ出向いてくるなんて──そんな戸惑いを覚えながら、櫻井は手を受け取り
「櫻井紀中尉、本日参りました。よろしくお願いします」
と、言うと野中は
「遠路ご苦労。まあ、これでも飲んで陸攻隊と戦闘機隊の挨拶でも交わそうじゃないか」
と言いながら、左手に持っていた大きな酒瓶をテーブルに置いた。そして、ポケットから酒用のグラス、そしてスルメの入った紙包を取り出して櫻井に渡した。
「俺の特別な酒、『森白汀』だ。遠慮せず飲め、ツマミは大したのがなくてすまんな」
「いえ、私こそ何も持ち合わせておらず申し訳ありません。ありがたく頂きます」
櫻井は『森白汀』を手に取り、野中に酒を注ぐ。そして今度は野中に酒を注いでもらった後
「じゃあ、乾杯」
と、野中の言葉に合わせてグラスを少し上げて櫻井は乾杯をした。
酒を少し口に運ぶと、優しい芋の香りと芋焼酎にしては甘く柔らかい飲み心地で
「さすが『森白汀』。九州の芋焼酎は香りが強く刺すような辛口のものが多いが、これはとても口当たりがいいですね。かめ壺で熟成された甘みと香りがふわりとしていて──とても良い酒をありがとうございます」
櫻井が言うと、野中は
「いやー詳しいな。わかってくれるか。こうも感想を言ってくれると持ってきた甲斐があったというもんだ。な、遠慮するな、飲め飲め」
と言って、酒を遠慮なく注ぐ。櫻井は流石に断るわけにもいかず、慎重に酒を飲んだ。
(この人が陸攻か)
櫻井は野中を観察するように見ながらゆっくりと酒を口に運ぶ。
あの桜花を敵空母まで運ぶのか──なんて思っていると
「おいおい、そんな目で見るなよ。陸攻の事、ワンショットライターとか思ってんだろ、一式だけに」
と、おちゃらけた態度で言ってくるので
「いえ、そんな事は!」
と、櫻井は慌てて否定するが野中は
「いいよ、俺達だってあんなモン成功するとは思ってねぇよ」
と言って笑うのだった。
「見たか? 桜花を」
「ええ」
「どう思った?」
野中に言われて、櫻井は口ごもった。
「素晴らしい兵器だと……思いました」
声が裏返るような感覚になりながら櫻井が言うと、野中は
「本当にそう思ってるのか?」
とまじまじと見てくるので、櫻井は思わず黙り込んだ。
目線をどこにやったらいいのかわからず、泳がせていると、
「本当に嘘をつけない顔してるなぁ貴様は!」
と、野中は櫻井から目を離して笑った。
「正直に言ってくれてええよ、多分間違ってねぇからよ」
本当の事を言ってしまって良いのだろうか──桜花を運ぶ張本人、ましてや少佐というお方に、と思っていると、野中は言えと目で圧力をけてくる。
そして櫻井は正直に
「敵空母まで無事に運べるとは──お世辞にも思えませんでした」
と言うと野中は満足そうな顔をした。
「やっぱりそうだよなあ。着任したばっかの貴様もそう思うだろ」
櫻井は何も言えず黙っていたが、野中は話を続けた。
「司令部に桜花作戦を断念させたくて何度も説得してたんだが、聞いてくれやしなかった。全くどうかしてると思わないか?」
陸攻隊の飛行隊長である野中の話に耳を傾けることが出来ない程、日本は追い込まれているのだろうと櫻井は思った。
「私も野中少佐と同じ意見です。ただ──」
鹿屋基地に足を踏み入れた時に感じた逼迫した緊張感は、厚木基地にいた頃とは比べ物にならなかった。
特別攻撃が、本土決戦までの時間稼ぎだという事を一瞬にして思い知らされたからだ。
敵艦に特攻する為だけに作られた『桜花』を見てしまったが為に──。
「私には……桜花特攻を否定する事ができません」
櫻井は静かな声で言った。そこに感情があったかどうかはわからない。
敵までに到達する事が出来ない事が明瞭な戦法を肯定する事など出来るわけがないのだが、じゃあだからといって資源も戦力さえも底を尽きはじめた現在、これ以上日本を守る方法が見つからない。
あの、気を違えたかのような兵器を作るくらいなのだから。
きっともう出来る事はやり尽くしている。
「私にはもう、何が正解なのか──わかりません」
これが櫻井の正直な気持ちだった。
「何が正解かわからない──か。俺もそうだよ。今日まで起居を共にした部下が肉弾となって敵艦に突入するのを、國の為に是とするのか非とするのか……俺もわからないでいる」
初めて会ったはずの櫻井に、野中は赤裸々に自分の胸の内を語り始めたのだった。
「司令部では俺達陸攻隊は桜花を投下したら速やかに帰投し、再び出撃だと言っているが、こんなクソの役にも立たない自殺行為を見ながら帰投出来ると思うかよ?」
そして野中は一呼吸おいて
「だからなあ、櫻井。今日俺がここに来た理由は一つ。貴様に命を預けに来たってワケだ」
と言ったのだった。
「わ、私にですか?」
突然命を預けるだのと言われて櫻井は戸惑った。
何せ野中とは初対面である。そんな事を言われる程の信頼関係は、まだ築いていないはずなのだが──そう思っていると、野中は櫻井の眼を奇妙な程にじっと見つめてきて突然こう言ったのだった。
「本当に貴様は親父さんと同じ眼をするんだな。櫻井和己大佐、貴様の親父さんだろ?」
櫻井は思わず身震いがするような感覚に襲われた。
まさかこんなところで父の名を聞くことになるとは思わなかったから。
「……何故父を?」
父の名を知っているという事は、父が二・二六事件に関わる『國賊』である事を知っている。國賊の父を持つ自分が海軍にいると知れたら──櫻井は思わず身構えた。
「おいおい、そう身構えるな。まず俺の話を聞け」
櫻井は黙った。すると、野中がゆっくりと語り出したのだった。
「俺の兄は帝都不祥事件──二・二六事件を首謀した中心人物なんだ。櫻井大佐の事は常々兄から聞いていたし、家に招いた事もある」
と言って、ポケットから一枚の写真を取り出し、櫻井の目の前に差し出した。
少し折り目のついたその写真は、記念写真ではなく日常の一部を撮ったようだ。
陸軍の軍服姿の男が五人座って談笑している。
真ん中にいる少し中年の男性、そして右に一人、左に二人若い男がいて、野中は写真の人物に指を指しながら
「右にいるのが俺の兄の、四郎大尉。真ん中にいるのが、櫻井大佐だ」
と言ったのだった。
真ん中に一際目立つ懐かしい顔──そしてどこか今の自分に似たような風貌の男がそこにはいた。
そう、確かにそれは父だった。
「櫻井がここに着任すると聞いてから、ずっと貴様に会いたかった。今日を逃したら、もう二度と会う事は無いと思ったからな」
野中は少し照れくさそうに言った。
幼い頃の父との会話が断片的に思い出されて、櫻井の脳内でそれが波のように押し寄せてくる。
──俺はね、天皇陛下の下で子供達が平等に勉学に励む事ができる日本を作りたい
父はそう言っていた。
当時、日本の地方農村は類まれなる経営困難で俸給不渡りに陥り、食べる物もままならなかった。
そんな地方から徴兵されてきた兵達の話を聞き、胸を痛めていたのは青年将校達だったのだが、参謀達は自身がエリート故に誰もそれを聞き入れる事はしなかった。
けれども、父だけは違った。
── 義務教育費を全額國庫負担させる。その為には、私利私欲に腐った政治家を動かさなければならんな
父は陸軍の中でも珍しく無派閥を貫き通していたが、そんな風に皇道派の青年将校達に同調をしていた。
父を慕って訪れてくる青年将校達は多く、父は凄いんだと幼いながらに自慢だった。
きっとこの中に、野中四郎大尉もいたのかもしれない。
代々軍人家系であったから、この頃、父のような軍人になりたい──そう思い、陸軍幼年学校を昨年受験し入学したばかりだった。
だがそんなある日、父がこんな事を言い出した。
──若い奴らが、首相を殺すと言い出した。俺は武力行使をする事には賛成できない。殺してしまっては天皇陛下や國民の賛同は得られない。なんとかして青年将校達の意見を変えさせないと、大変な事になる
不安な顔でそう言っていたのを思い出す。父はなんだか、この先起こる事を見越しているようだった。
──紀、立派な軍人になれ
とても寒い日の夜、そう言い残して家を出て以降、父は二度と家へは戻って来なかった。
首相官邸や警視庁が襲われ、その決行者が父と関係のある陸軍青年将校達によるものだった事、そして父は無派閥を装って皇道派の青年将校達を唆していた裏切り者とされ、自決した事を知ったのは、騒動が収まってから暫くしてからの新聞だった。青年将校達の一部は自決、または後の裁判で死刑となっている。
後に父の手記で、青年将校達に決行をやめるよう諭した事、彼らの決意は固くそれを止める事は出来なかった事を知った。
國賊──それが父の死と引き換えに、天皇陛下によって櫻井家に押された烙印。
押された烙印は余りにも深かった。
陸軍幼年学校の退学令が出たのが三月の中旬頃。
世間からの目も厳しく、後ろ指を指される事に耐えかねた母の自殺を引き金に、一家は離散した。
伯母に引き取られてから、母が死んだのは父や陸軍のせいだとし、職業軍人への道へ進もうとするのを非常に嫌がった。高等官になって出世し、子を設けよと跡継ぎの子供を欲しがった。
結局軍隊とは無縁の帝國大学法学部へと行く事になったが、気付けば櫻井紀として海軍の人事局へ出向いて願書を取り、形は違えど父と同じ軍隊への道を選んでいた。
立派な軍人になれ──それが國民を誰よりも思っていた父との約束。
「野中少佐。私は本来であれば海軍にいられる身ではありません。私が國賊である事を副官に報告しますか」
「するわけねえだろ! それを言ったら立派な國賊の兄を持った俺はどうなる。俺はな、兄が國賊な事を全く隠しちゃいねぇんだよ。それでもここにいられてる。海軍とはそういうところだ。俺も兄を思う気持ちは貴様が櫻井大佐を思う気持ちと同じだよ。世間様には迷惑かけたなと思うがね」
野中はそう言って櫻井の肩を叩いた。
「だからな。貴様とこんな終局の地で会ったのも、兄と櫻井大佐が引き合わせた縁だと俺は思ってるんだよ」
野中は写真を懐かしそうに見つめながら言ったのだった。
「俺達陸攻隊は桜花投下と同時に、自分も飛行機諸共体当たりしてやると決めたんだ。それを決められるか決められないかが櫻井に懸かっている。いいか、重要な任務だ。俺達が特攻時は、一丁頼んだぞ!」
パンと音を立てて野中は手を合わせた。気取らない風に野中は言うが、櫻井は何と返事をして良いものかと言葉に詰まる。
すると、見兼ねた野中は
「兄は俺に櫻井に命を預けろと言ってるし、櫻井大佐もきっと櫻井に命を預かれって言ってるぞ。同じ國賊の仲だ、素直に俺の命を預かりな!」
と、櫻井の肩を叩きながら言うのだった。
「それでは……預からせて頂きます」
櫻井が深々と頭を下げると野中は
「本当堅苦しいやつだな貴様は。任せとけ、って胸を張って言えばいいんだよ!」
と言って、櫻井の髪をぐしゃぐしゃにかき混ぜた。
(そんな馴れ馴れしく、少佐というお方に言える訳が……)
なんて、櫻井は少し苦笑いをしながらも、これも父との何かの縁を感じで少し嬉しく感じたと同時に、『桜花』特攻を成功させなければならないと強く心に誓ったのだった。
櫻井紀の裏話
父親死亡後の軍人恩給を受ける為に遠野家では特別養子縁組をしていませんでした。
紀が大学を卒業してから特別養子縁組をして、正式に遠野家の長男として家を継がせるつもりだったようです。
伯母は、母(妹)が死んだのは櫻井和己のせいだと軍隊そのものすらも毛嫌いしており、紀には官吏になって稼いでもらいたいと思っているようでした。
紀は暫くの間遠野として生活していましたが、日中戦争を機に父について考え始め、大学に進学してからは戸籍上の姓である櫻井を使用していました。
日米開戦後は大学生活の傍ら軍人になる気持ちを固めており、海軍予備学生制度を利用し、伯母に内緒で志願しました。
卒業見込証明書や戸籍抄本は櫻井姓である為、海軍には櫻井紀として志願しています。
※大学のお金は、殆ど櫻井和己の恩給から捻出されています。
跡継ぎが欲しい伯母は、紀の養子縁組と三篠夏子との縁談を強引に進め、子供を作らせるつもりでした。
しかしあまりにも強引に進めてしまったので、手切れ金と共に紀から離縁を宣告されてしまっています。
それまでは遠野家に毎月25円仕送りをしていましたが、昭和19年下旬頃から仕送りをしていません。




