櫻散る鹿屋基地、第七二一海軍航空隊
櫻井が鹿屋──第七二一海軍航空隊(以下七二一空)に辿り着いたのは、翌三月十三日の午後七時を過ぎた頃だった。
七二一空は去年、神之池基地から鹿屋基地へ移動している。
鹿児島は関東よりも日の入りが一時間程遅く、午後七時を回った頃にようやく真っ暗になった様を見て、随分と遠くまで来たなと櫻井は思った。
山陽本線には一般車両とは別に海軍の特別車両が連結されており、恐らく転勤者であろう櫻井と同じ海軍の軍人が数名いるだけで混雑は差程していなかったのだが、寝台列車でもないただの急行列車での三十時間を超える長旅でさすがの櫻井も疲労を隠せない。
しかもちょうど昨日の空襲で国鉄古江線の線路が破壊されてしまった事もあり、鹿児島駅から漁船を乗り継いで錦江湾を横断し、途中で差し回しのトラックに乗ってようやく着いたのだから、もはや疲労も困憊である。
厚木では今頃飯食った後くらいかなーなんて、一瞬思ったりもしたが、あまりにも疲れすぎていてそんな思いは一瞬ですぐ忘れた。
鹿屋基地周辺は、真っ暗な中僅かなカンテラの灯りを頼りに夜でも防空壕掘りを続けており、戦地さながらの緊張感を否応にも思い知らされる。
昨日も空襲に遭ったばかりで、その数は段々と多くなっているのだと差し回しのトラックを運転していた下士官が言っていた。
横穴方式の防空壕の中に指揮所をはじめ司令室や、公務室、寝泊まりする場所も全てそこに完備するのだそうだ。
(防空壕の中で全ての指揮系統が賄えるようにしているのか)
厚木ではここまでの防空設備は無かった。防空壕の中に全てを移すという事は、地上にはもういられない事を表している。それ程までに追い詰められているのだと思った。
(厚木とは天と地の差だな)
櫻井は到着するとすぐに当直将校に引率され、副長の五十嵐周正中佐のもとに通された。
早速着任の申告をすると五十嵐は
「司令が貴様を喉から手が出る程欲しがっていた。予備士官といえど、ベテラン顔負けの腕だそうじゃないか」
と、五十嵐は嬉しそうに言った。
(俺程度の人間を喉から手が出る程欲しがるという事は、恐らく腕が立つ人間が他にあまりいないというわけか)
「ここは特攻兵器による対艦特攻を行う、通称──神雷部隊だ。うちは圧倒的に直掩できる人間が足りないので、本当によく来てくれたよ」
櫻井は察した通りだと思った。直掩できる人間が少ないのは、特攻攻撃において不利である。
不穏な先行きに襲われるも、櫻井はそれを振り払って
「未熟者ですが、特攻機の直掩という名誉ある任務を命ぜられた事を光栄に思っております」
と言うと、五十嵐はニンマリと嬉しそうな顔をした。
「謙遜するな、貴様には期待している。明日から三〇六飛行隊へ行け。直掩である制空隊は現在宮崎の富高基地へ展開している。貴様の零戦は用意してあるから、明朝〇六〇〇には富高基地へ移動だ。朝食は富高で摂れ。いいな」
(真面目にか)
ようやく鹿屋に来たかと思ったら次は富高かよ、と思った。櫻井もその場では顔には出さなかったが。
「後で従兵にアレを見せてもらってこい」
(アレとは何だ?)
五十嵐は結局、アレとは何だと言う事を言わなかった。
その後、櫻井は五十嵐によって司令の元へ引率され着任の申告を終えた。その後は士官次室長が本来ならば各室に案内してくれるものなのだが、生憎制空隊は宮崎基地に展開しており誰もおらず、この先は櫻井の従兵が櫻井に宿舎を案内すると言う。
(他の部隊は? 誰もいない、なんて事あるのか)
櫻井がそんなことを思っていると
「基本的に他部隊とは顔を合わせる事がないように配慮されています」
と、従兵がまるで櫻井の思っている事に答えるかのように言った。
七二一空には特別攻撃隊である桜花隊、それを運ぶ陸攻隊、それを掩護する制空隊とあり、その三部隊は桜花隊の精神的負担を考えて、基本的に隊員同士が直接顔を合わせることがないよう、無駄な摩擦を避ける為にお互い隔離されているのだと言うのだ。
(なるほど……ね)
櫻井が辺りを見回していると従兵が
「アレ、見ていきますか?」
と言うので、アレとは何だろうと思いながら櫻井は黙ってついていくと、とある掩体壕の前で立ち止まった。
従兵が手に持っていたカンテラで辺りを照らすように少し高く持ち上げると、ぼんやりと照らされた空間に背よりも少し低く、それなのに翼の生えたのっぺりとした形の白い物体が奇妙に浮かび上がった。
「これが副官が仰っていたアレです」
全体的に丸みを帯びて、空気抵抗を極限にまで減らしたような見た目の──そう、まるで魚雷に翼を生やしたような形のそれは、脚はなく、艦載機に突撃させる為に作ったような兵器だと思った。
「最終兵器『桜花』です」
機体番号の書かれた胴体前部には『横須賀空技廠』の文字があった。
「少し前まで重要機密にあたる〇大なんて呼ばれていました。櫻井中尉の三〇六飛行隊はこの特攻兵器の直掩隊ですよ」
櫻井は、燃料補給の為に神之池基地に降りた時の事を思い出した。『桜花隊戦闘指揮所』の前で話をした、同期の立花隆の顔が蘇る。
立花は特攻兵器に乗るんだと言っていたが、ようやくこの『桜花』というものがただの隊名ではなく、特攻兵器の名前だったのだと初めてわかった瞬間だった。
「立花が言っていたのは──これだったのか」
櫻井の言葉に、従兵が驚いた様子でこちらを見た。
「桜花は機密保持の関係で士官であっても知り得る事は出来ないものだったはずですが、どうしてそれを……?」
「ああ、いや。二月中旬頃に神之池に燃料補給で立ち寄った時にこの指揮所の前でたまたま同期に会ってね」
櫻井がそう言うと、従兵はああ、という顔をした。
「その頃はK-1──あ、桜花の練習機の事です、K-1の降下訓練をやっていた時ですから、飛行機乗りの方でしたら耳に入るかもしれませんね」
(降下訓練? どうやって?)
桜花は、滑走する為の脚もなければ、そもそもプロペラもない。主翼は低翼単葉、尾翼は高翼単葉で、方向舵は九六式陸攻のように二枚ついていたが、まるで滑空に特化したようなそんな見た目をしている。
まるでドイツのV-1飛行爆弾のようだ。ただ違う事として桜花は無人爆弾ではなく──有人爆弾だという事だ。
「これを一式陸攻で懸吊し、敵艦隊まで行ったら陸攻から切り離し、敵空母目掛けて体当たりするんですよ」
(あの陸攻で? 本気で言ってるのか?)
櫻井は思わず耳を疑った。
「一式陸攻は桜花を切り離したらすぐ戻りますから、大丈夫ですよ」
(何が大丈夫だって言うんだ? どう考えても無理だろう)
一式陸上攻撃機は約八人乗りで、主に地上雷撃を主として行う大型攻撃機なのだが、翼内燃料タンク容積が大きく、おまけに防弾タンクの装備がなされていなかった関係で、少し被弾を受けただけで良く燃えると有名だった。
(いくら制空隊が直掩したところで、こんなもの格好の餌食だというのに)
大型航空機は、戦闘機にとって格好の的だった。
鈍足だから狙いやすくまた、弱点もわかりやすい。
燃料タンクを撃てばあの硬いB-29でさえも火を噴いて堕ちた。
B-29の至る所に自動追従射撃装置があり、正確に零戦を妨害できるというのに、戦闘機の身軽さには敵わない。隙をついて撃ち込んでしまえば、あのB-29でさえも無抵抗だった。
B-29を撃ち落とし、F6Fと空戦を経験したからわかる。これが如何に無謀かという事が。
(もし俺が敵戦闘機だったら)
簡単に撃ち落とせると思った。
きっと、桜花を吊り下げる事で鈍足な機体は更に重くなるだろう。
しかもすぐ燃えるから、恐らく一斉射もすればすぐにでも堕ちる。
そして、自分がF6Fと対峙した時に思った事──それは、敵はとにかく装甲が硬いという事だ。
二十ミリは弾速も遅く飛距離が短い為使い物にならない。十三ミリでは威力が乏しく相当数撃ち込まないと穴が開かない。
そう、例え零戦が守っていようとも、もし自分がF6Fのパイロットだとしたら──零戦など取るに足らない存在だと思った。
被弾を恐れずに戦えるのは敵戦闘機の強み。
その中で、例え流れ弾でも弾さえ陸攻の翼に当たってしまえば──陸攻は火を噴くのだから。
「どうかされました?」
一人考え込む櫻井に、従兵が不思議そうな顔をしてこちらを見た。
「ああ。いや、何でもない」
櫻井は何でもない風を装った。
「もう今日は休ませてもらうよ。部屋へ案内してくれるか」
櫻井がそう言うと、従兵が
「そういえば、櫻井中尉は厚木からいらしたんですよね! お疲れの中、夜分にこんな所へお連れしてすみませんでした」
と、言って頭を慌てて下げるので櫻井は
「いや、構わないよ。寧ろいいものを見せてもらった」
と言ったが、気持ちはなんだか落ち着かなかった。
あんなものを守り切れるだろうか──そんな風に初めて不安を覚えた。
櫻井の脳裏にみつきの顔がふと過ぎって、目を閉じてそれを振り払った。
(いや、そんな事を考えている暇はない)
特攻機を守る事がみつきを守る事に繋がると信じて、みつきへの思いを断ち切って九州まで来たのだから。
(絶対にこの、桜花を守らなきゃいけない)
──そう、命に変えても。




