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櫻井最後の朝、飛行機乗りの約束

 三月十二日の早朝、櫻井は航空隊の士官宿舎にいた。転属先である鹿屋へは、約三十時間ほどかけて行く事になる。

 準備が整い次第、小園司令、山田飛行隊長──といった上官への転属の挨拶を済ませ、見送られた後は従兵の運転する車に飛び乗り東京駅まで行くのだ。

 

 今回の転勤者は櫻井ただ一人で、輸送機での輸送といった様な事は行われず、山陽本線を走る急行列車で行く事になるのだが、東京駅までは車での送迎がついていた。


 士官宿舎では、櫻井が衣袴ズボンにサスペンダーを取り付けるのを櫻井の従兵が手伝っている。それの取り付けが終わった後、従兵が衣紋掛けに掛かっていた刀帯を手渡すが

「これ以降はもう自分でやるから」

と、櫻井は従兵の手を借りる事を拒んで従兵を下がらせた。


 そんな二人の姿を、同室の当麻が椅子に座って眺めていた。


 従兵が頭を下げて部屋を出て行ったところで、当麻が

「なあ、櫻井」

と、声をかけた。


 ここにいるのは櫻井と当麻の二人だけ。

 同室の水地や同室の他の搭乗員は、既に朝食を摂りに行っている。


 当麻は櫻井に話があった。

 当麻は櫻井と二人きりになれる時間を選び、敢えて朝食を摂らずにここにいる。

 当麻に話しかけられた櫻井は、顔だけ向けて当麻を見るが特に返事をするわけでもなく、黙ったままだ。


「本当に良かったの?」


 当麻がそう言うと、櫻井は

「何が?」

と、当麻の言いたい事を知ってか知らずか、それともとぼけているのか──わからないような態度で言う。


「みつきの事」


 当麻がそう言うと、櫻井の瞳が僅かに揺れた。それは、良く見ていないと見逃してしまいそうなくらいに。


 櫻井は姿見に目線を戻し、当麻と目を合わさず身なりを整えている。

 口数の少ない櫻井の事だから、何も言わない事なんてわかりきっていた。


 櫻井が動くたびに、この静寂な室内に刀帯に付けられた短刀が服と擦れて、チャラと金属音が鳴る。

 鏡を見ながら上衣の裾を整えている櫻井の横顔は、当麻でさえも育ちの良さを改めて感じる程整っていて、その櫻井の整った顔立ちが凄く憎たらしかった。


 口数も少なく、少しツンとした雰囲気もあるこの男に、なぜあちこちの女が惹き付けられているんだろうとさえ思ったりする。


(やっぱり顔なのか?)


 櫻井の横顔は、胸の内を読み取らせない。

 時折見せる何を考えているのかわからないその表情は、軍人としては改めて才能があると思った。


 相変わらず櫻井の考えている事は、大学時代から飛行学生を経て一緒に過ごしてきたにも関わらず、あまり読めないでいる。


 けれども、分かる事も少しだけあった。


「なあ、なんとか言えよ櫻井」


 少し乱暴に当麻は言った。


 櫻井が婚約者であった三篠夏子との婚約を破棄してまで得たかったものが──みつきだということを当麻は知っている。

 それなのに、櫻井はみつきを選ばなかった事も知っている。


 そして、櫻井は生涯を一人で生きるつもりでいる事も──知っている。


「本当に良かったかどうかなんて、当麻も同じ飛行機乗りならわかるだろ」


 暫くの沈黙の後、やけに落ち着いた声で櫻井が言った。


(そんな事はわかってる)


 同じ飛行機乗りとして、『帰ってくる約束』が難しい事など、特に戦闘機乗りなら尚更という事なんて当麻もわかっている。

 だからこそ、櫻井の出した答えが間違っているとは思わない。

 

「俺はそんな答えが聞きたいんじゃない」


 ただ、当麻は櫻井を許せなかった。


「約束ができないのなら、一瞬でもいいから抱きしめてやれば良かったんだ。せめて手だけでも握ってやれば良かったんだ。みつきはきっとそれだけでも幸せだったはずなのに」


 どうせ櫻井の事だから、何もしてやらなかったのだろう。

 一瞬だけでもいい、みつきを幸せにしてやらなかった事を当麻は許せなかった。


 自分の好きな女だからこそ、そして恋敵であり敵わない相手である櫻井だからこそ、余計に。


 櫻井は当麻がみつきを好きな事を知っている。

 こんな事を言う俺を、櫻井はどう思って見ているんだろう──そんな風に惨めになる気持ちを抑えながら当麻は言った。


 櫻井は当麻から目線を落として床を見ている。


 そして目を閉じ、諦めたように溜息をついて

「本当に──そうだな。俺はそれさえもしてやらなかった」

と、いやに素直に言ったのだった。


「夏子の事もみつきの事も、全て俺の利己で悲しませてしまった。國民の無事や幸せを願っている事に変わりはないのに、身近な人一人幸せに出来ていない俺は──人として失格なのかもしれないな」


 床に目線を落としたまま櫻井は言った。


 いつも何ともない態度ではぐらかす櫻井が、悲しげに──そしてどこか後悔を含ませた顔をする。

 櫻井が当麻の前でそんな顔をしたのは初めてだった。


「なあ、当麻。貴様が俺だったら、みつきに手を触れたか?」

 櫻井は静かに言った。


「俺だったらもちろん──」

 そこまで言って、当麻は言葉に詰まった。


(俺だったらどうしてた? 抱きしめた? 抱きしめた後の行き場のない感情は──)


「俺がみつきに手を触れなかったのは、このまま自分の命すらも惜しんでしまいそうだったから。ずっとこのまま彼女のそばにいたい、もうどこにも行きたくない──そんな本音を言ってしまいそうで。情けない俺の保身だよ」


 初めて見せた、櫻井の弱音。行きたくない──人間らしい言葉を初めて聞いた気がした。

 これから最前線に行く自分と、死と、好きな人とを断ち切る為の自己保身。きっと抱きしめたら、その先が欲しくなる。


 目の前の事よりも、その先の安定と未来を──。

 でも、軍人に求められるものは未来じゃない。目の前だ。

 軍人には絶対がないのに。約束ができないのに。

 自分も傷ついて、相手も傷つけて──そんな事は誰だってしたくない。


「戦闘機乗りのわがままだ」


 そう言って悲しげに笑うのを、当麻は見ているしか出来なかった。


「じゃあ、後を頼む」

 櫻井は腕時計に目をやりながら当麻に背を向け、扉に手をかけた。

 後の事がみつきの事だという事は、櫻井と長年つるんでいればすぐにわかる。


「おい、それは櫻井が責任取れよ!」


 わかっている。櫻井が何を言いたいのか、何がしたかったのか、何をして欲しいのか。櫻井のもどかしい気持ちが痛いほどわかると言うのに、当麻の口から出る言葉は、それとは真逆だった。


 櫻井は足早に扉を開けて部屋を出て行く。扉が閉まると、廊下を歩く櫻井の足音が遠くへ消えて行き、再び部屋には静寂が訪れた。


「櫻井! 生きて帰ってみつきを幸せにするって約束しろよ! 強がったって何の意味もないんだからな! 俺の気持ちも少しは察しろよ馬鹿野郎!」


 当麻は声を荒げて言った。当麻の声は届いたのかどうかは──。


***



 午前八時、小園安名司令の元へ櫻井は足を運んでいた。

 小園は櫻井を気さくに部屋へ招き入れたが、本当のところはとても気が重いものだった。


「退隊のご挨拶にあがりました」


 深々と頭を下げる櫻井に、

「やめてくれ、顔を上げろ櫻井」

と言って小園は無理矢理顔を上げさせた。


 そして小園は席から立ち上がると、櫻井に背を向けて窓を眺めながら

「俺はなあ、蓮水に続いて櫻井を手放さなきゃならなくなる日が来てしまった事が実に悲しいのだ」

と、率直に言った。


 櫻井は黙っている。小園は櫻井からの返事を待たないまま、まるで櫻井に思いをぶつけるように話を続けた。


「海軍省の人事が特攻機を直援できる即戦力のある予備士官が欲しいと言ってきてね。俺は断ってたんだ。だが二月に人員が補充されて航空隊の編成が行われただろう? その時に櫻井と蓮水の二人が名指しされて、怒り狂って俺ぁ、海軍省に乗り込んでやったんだ。揉めに揉めたが──負けた。どうにもならんかった」


 そんな事を言いながら、小園は

(そういえば蓮水には悪い事をした。乗り込んだおかげで、突然の転勤にさせてしまったなあ)

と思った。


 櫻井はそんな小園の気持ちを知ってか知らずか

「私は特攻機を直掩できる事を光栄に思っています。司令がお気に病む事などございません」

と、何ともないような声をして言うものだから、小園は思わず振り向いて

「あんなもの、外道の用法だ! 俺ぁ指示しない!」

と、声を張り上げて言った。


 特別攻撃隊や直援部隊がどんなものなのか、正規空母『赤城』をはじめ、様々な空母の飛行隊長や航空隊の教官、指揮官を務めてきた元戦闘機乗りである小園にとって想像は難くない。


 戦闘機乗り、そして飛行隊長を経験して部下を持ち、そして部下を失ってきて思う事。


 それは、どんな形であれ大切な部下を失いたくないという事だ。


 だからこそ、自らを敵艦隊に突っ込む特別攻撃隊には賛成出来なかったから、尚更櫻井をその直援部隊に送る事を拒んだ。勿論蓮水の事もだ。

 だから、厚木で表向き(・・・)の特別攻撃隊要員の募集は行いはしたが、それは結局送る事なく破棄されている。


「俺はなァ! 櫻井を手放したくなかったんだ! 櫻井に惚れ込んで海軍省の人事局に毎日電話をかけて、ようやく櫻井を引っ張ったんだ。それなのにまさか、あんな外道の部隊へ送らなきゃいけなくなるとは」

と、少し乱暴に櫻井の両肩を握って言うと、櫻井は驚いたような目をしてこちらを見るのだった。


 その時にふと、小園は目付きが変わったな、と思った。着任した時から随分と顔つきが変わり、ぶれない一本の線を持っているかのような鋭いその眼光は、戦闘機乗りとして随分と男前になっている。


 櫻井の父親が元陸軍大佐だったと小園は聞いた事があったが、きっとこの顔のように鋭い眼光を持っていたに違いないと思った。


 小園が櫻井の眼をじっくりと見ていると、櫻井が

「⋯⋯わ、私が厚木に着任する事になった経緯は初めて知りました」

と、少し照れたような困ったような驚いているような、なんだか複雑な顔をして言うので

「おお、そうか。初耳か。実はそうなんだよ」

と、小園はちょっと気の抜けた声で言いながら櫻井の肩から手を離した。


「そういえば、今朝森岡から電話があって見送りに行けない事を非常に残念だと言っていた。鹿屋で上手くやって帰って来い、そしてまた編隊組んで空に行こうと伝えてくれとの事だ」


 電話で話した森岡は、櫻井が帰って来る事を信じていた。森岡は今でこそ同じ戦闘機乗りだが、元は艦爆出身だからなのか捨て身の戦闘機乗りとはどこが違う考えを持っていた。艦爆は死ねば乗組員全員と運命を共にする。

 だからなのか、どこか孤独に立ち居振る舞う戦闘機乗りと違って情に厚く、連帯感が強いのだ。


 勿論、小園自身も純粋な戦闘機乗りだった頃は帰るとか帰らないとか考えた事は無かった。敵をいかに倒すかしか見えなかった。

 だから、戦闘機乗りはきっとこういうものなのだろう。


「だから櫻井、堅苦しい挨拶など無しだ。貴様ならやれる。そしていずれまた厚木に帰ってこい。いや、俺や森岡のところに来い。いいな?」


 仲間思いで仲間に慕われているにも関わらず、それなのにどこか孤独に立ち居振る舞う櫻井の事だから、どうせ生きる事に執着なんてしていないだろう。

 責任感と忠誠心が強く、どんな時でさえも毅然と零戦を乗りこなす櫻井は、きっと大切なものを守る為ならば、敵と刺し違える事も厭わないだろう。


 そうなってしまっては、命も粗末にするだろうと小園は思った。 


「司令や分隊長がそこまで私を思って下さっているのなら、その期待にはできるだけお応えしないといけませんね」


 そう言って苦笑いする櫻井に、小園は当たり前だと言わんばかりの顔をして

「これは命令だからな」

と、指を差して言ったのだった。


 命令だ──そんな事を言うのは、命を粗末にするような戦いだけはするなという事。


──それは、櫻井に伝わっただろうか。



***



 午前八時半を回った頃、櫻井は大きなトランクを引っ提げて紺色の軍服、白手袋といった姿で出てきた。


 当直将校が

「櫻井紀中尉が第三〇二海軍航空隊を退隊される! 総員見送りの位置につけ!」

と号令をかけると、全員が列を作った。


「総員、帽振れ!」の号令がかかると、全員が略帽を右手で持ち、ゆっくりと三回頭上で回し「帽元へ!」の号令で帽を戻した。


 櫻井がそれに答礼しながら歩いていく。送る側は整然として送るのが常で、「解れ」の号令がかかるまで列を崩さず整列しているわけなのだが、この日は違った。


「櫻井! 上手くやって来いよ!」

「向こうでも、戦果を挙げて下さい!」

「お世話になりました、ありがとう」

「櫻井の名で新聞を賑わせてくれよ! 生存確認だ」


 そんな声が上がって、わらわらと櫻井に握手を求めて水地や糸井といった同期や仲の良かった下士官やらが、櫻井をあっという間に囲んでしまった。


 勿論、その中に当麻もいる。

 当麻は、中途半端に終わった会話を終わらせねばと思った。


 ふと人混みの中を見れば、そこにはみつきがいた。

 何ともない、普段と変わりない笑顔をして櫻井と話をしている。きっとその笑顔の裏は、心が張り裂けそうな気持ちなのだろうと当麻は思った。

 それでも、泣き出すわけでもなく笑顔でいるみつきに、なんだか少しほっとした自分もいた。


 何がどうであれ櫻井はここを発ち、いなくなる。


「櫻井」


 当麻が声をかけると、櫻井がこちらを見た。


「言われなくても、後はどうにかする」


 なんだかここを発つ櫻井へ手向ける言葉として相応しい言葉とはかけ離れた言葉が口から出てきたが、櫻井は

「ありがとう」

と、まるで心から安心したように礼を言った。


「その代わり、櫻井が帰ってくるまでだからな」

 当麻がそう言うと櫻井は特に何も言わず、今度はなんだか掴みどころのない笑顔で笑うのだった。

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― 新着の感想 ―
[一言] 更新お疲れ様です。 小園司令の慟哭が(><) 首都圏を守る数少ない歴戦のパイロットがまた一人激戦地へ・・・・ 直掩とはいえ、特攻機に付き従うその任務の危険性は変わらず(><) サブタイト…
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