猛火から救えた命
「いくら上衣を脱いでいたからといっても、俺が何者かってばれたかなー」
ネクタイを締めながら櫻井は言った。
確かに、国民服ではなく妙に小綺麗な襦袢と綺麗に磨かれた靴を履いていれば、わかる人にはわかるものだ。
櫻井が軍人だと気付いたあの女性達のように。
海軍──まではわからずとも、軍に所属する人間が先陣を切って天皇の御料地の門を壊したとわかれば、どんな処分が待っているか想像に難くない。
(もし、これで櫻井さんが何かしらの処分を受けたとしたら──)
そんなことを思いながら櫻井の方をちらりと見れば、気にも留めない顔をして
「見ろよあれ」
と、オレンジ色に染まった空を指差している。
櫻井に促されるままその指の向こうに目線をやれば、そこには黒い影を落とした見覚えのある戦闘機の影があった。
「三〇二空の『月光』だ」
月光は、低空飛行で東京湾方面から月光が二機飛んできて、真っ赤に燃える江東──深川方面へ向かっていくのがよく見えた。
横須賀鎮守府所属という事を示す『ヨ-D』の、尾翼に書かれた機体番号が地上からはっきり見える。その機体番号を持つ『月光』は──三〇二空しかいない。
「厚木からは……一機も来ないと思ってた」
櫻井は空を見上げたまま言った。
同じ海軍且つ自分の所属基地の戦闘機の活躍をこうして地上から見るだなんて──櫻井は夢にも思わなかっただろう。
「あとは陸海軍に任せよう。きっとやってくれる……そう信じよう」
そう言う櫻井の横顔をちらりと見れば、少しだけ希望を持った眼をしていた。
***
B-29の轟音がようやく止んだ頃には、空が白みがかってきていた。辺りは焦げ臭く、なんとも言えない刺激臭が鼻の奥をツンと刺激する。辺りは薄く霧がかったように灰色の煙が立ち込めていて少し目に染みて、遠くはあまり見渡せない。
「終わった……?」
「終わったのか……?」
そんな声が次々と上がって、人々が立ち上がって、出口へ歩き出した。
そんな人々の姿を目で追って、みつきも立ち上がろうとすると──今になって恐怖が襲ってきたのか、その場にへたりこんで立ち上がれなくなってしまった。
「大丈夫?」
櫻井に手を差し出されて、みつきは
「こ、腰が抜けて……」
と苦笑いすると、櫻井は
「もう少し休むか」
と言って再びその場に腰を下ろした。
そして櫻井は
「なあ。みつき、ありがとう」
と言ったのだった。
「みつきが今日の事を教えてくれなかったら……俺は多分、ここに来ようとはきっと思わなかった」
躊躇いがちに言う櫻井に、みつきはなんだか申し訳無い気持ちになった。
「いえ、そんな。私は何も……」
(ただ、私はあまりにも有名なこの日を知っていただけだから……)
「櫻井さんが先導してくれなかったら、私だけでは何もできなかった。私の方こそ……お礼を言わないといけません」
海軍士官である櫻井の存在はとても大きかった。軍人というだけで、防空法に背き大勢の人が手を止めて櫻井の言葉に従ったのだから。
もし、自分一人だけだったら着いてきてくれた人はいただろうか──そんな事を考えた時、やはり自分がいかに無力かを改めて感じたのだった。
それなのに、櫻井は
「みつきがいてくれて本当に良かった」
なんて言うものだから、胸の奥から何とも言えない感情が込み上げてきて思わず涙が溢れそうになった。
「私は……誰かを助ける事が出来たんでしょうか」
みつきは歯を食いしばりながら声を捻り出した。
「ああ。十分すぎるほどに」
優しい声で言うその櫻井の一言で、みつきの涙がぼろぼろと零れた。役立たずだと思っていた自分が、やっと誰かの役に立てたような気がして──みつきは嬉しかった。
全ての人を救えなくても、死ぬかもしれなかったあの女性達や他の住民達をこうして少しでも安全な場所へ誘導出来た事がとても嬉しかった。
櫻井は、みつきの流す涙におどろいた表情をしたが、ふとあのいつもの優しい穏やかな表情になって
「なあ、みつき。今度は俺が守るよ」
と言いながら、少し冷たくなったみつきの手を取った。
「厚木まで無事に帰る事も──約束する」
そう言って、櫻井は小指で指切りをした。
櫻井のその落ち着いた声はとてもあたたかく、まるで胸の緊張を全て解すかのようで涙が止まらなかった。
(この人はなんて強くて……そして、優しいんだろう)
櫻井はそんな事も知らずに、やっぱり落ち着いた声で
「怖かったろ。もう大丈夫だから」
と言ってみつきの頭を撫でて言うものだから──余計に甘えたくなるのだ。
「うん、怖かった」
思わず子供のように櫻井の肩に頭を預けた。
あの時は無我夢中だったが、よく考えたらあんな体験は普通に生きていたらする事は無いわけで──今、色々な感情が混ざりあってぐちゃぐちゃだった。
(もう少しこのままでいていいかな)
みつきは櫻井の肩に少し寄りかかりながら、ゆっくり目を閉じて櫻井の優しさに少し甘えさせて貰うことにしたのだった。
***
夜が空けても尚、ナパーム弾特有の重油と金属が混ざったような刺激臭、髪の毛が焦げたような刺激臭が辺りに充満していた。
白金御料地から出る時に門番を少し警戒したが、既に門番はおらず白金御料地を堂々と出てきた。
みつきと櫻井は海軍病院へ向かおうとするが、御料地から出てわかった事──それは目黒駅周辺やその近辺の住宅地は焼け野原になっていて、目黒駅を挟んで向こうの目黒川沿いにある海軍病院を目視する事が出来た。
白金御料地は目黒駅を中間地点として、目黒駅から見て東──海軍病院は目黒駅から見て西側にあるのだから、目黒駅周辺は殆ど焼かれて平らになってしまったと等しい。
とはいえ、目黒川より向こうは住宅地は殆ど残っていてみつきは少しほっとした。
目黒駅では数名の作業員が早速鉄道の復旧作業にあたっていて、思わず立ち止まって見入ってしまった。
「あの人達にも家庭があるだろうに……」
みつきが呟くと、櫻井が
「鉄道は軍事物資等を運ぶから、全てにおいて最優先なんだ」
と言った。
こんな時でも、気掛かりであろう家庭よりも、国を優先して仕事をする姿を、みつきは素直に凄いと思った。
*
海軍病院に着くと、二号館だった建物は全焼して真っ黒な瓦礫の山になっていた。
ついさっき消し止められたかのように、瓦礫がまだ暖かい。
「森岡さん、無事ですかね」
そう言いながら、櫻井とみつきが二号館の前で佇んでいると
「櫻井、白河! 無事か!」
と言う聞き慣れた声が後ろから聞こえてきた。
振り向くとそこには、顔や服を煤で真っ黒にした森岡が駆け寄ってきた。
「分隊長もご無事で」
櫻井が安堵したような声で言いながら、森岡の右手を握った。
「……分隊長。凄い顔ですよ」
お互い無事だった事にほっと気が緩んで、森岡の真っ黒な顔に思わず櫻井がぷっと吹き出した。
森岡はあまり汚れていない方の袖で顔を拭うと黒い跡がついて、それを見た森岡もぷっと吹き出した。
「二号館は全焼したけど、一号館はなんとか守りきった」
そう言って森岡は一号館に目をやった。入院病棟として使われていた一号館は、煤で真っ黒になっているものの、無事に建物が残っている。
「入院患者達と看護婦とで、とにかく必死だったよ。なんたって気を抜くとすぐ燃え移るからさ、させるものか! って必死だった」
と、やりきったと言わんばかりの笑顔を作る森岡を見て、みつきは
「森岡さんが無事で良かったです」
そう言って微笑むと、森岡は黒い顔で微笑み返したのだった。
そして、
「白金御料地に避難できたおかげで、この辺の人は結構助かったらしいな。天皇陛下の御料地をよくまあ解放してくれたもんだよな」
と言うのを、櫻井は少しにやにやしながら
「誰がやったかわからないですけど、どうやら門番を殴って突撃した人がいたらしいですよ」
と、まるで他人事のように言う。
その上、
「おかげで白金御料地に避難できました」
なんてすっとぼけて言うものだから、森岡は
「はあ。どうせ貴様がやったんだろ、櫻井」
と、やれやれといった様子で渋い目をして言った。
櫻井はそんなのをお構いなしに
「刑法一三一絛、皇居等侵入罪。これは立派な犯罪です。軍法会議に送られるリスクを俺がとると思いますか?」
と、またすっとぼけた。
「櫻井。貴様は海軍士官だと顔でわかる。全く、上手くやれって言ったのに」
森岡にはバレバレのようだ。
「國民の為にした事。別に降等処分だろうが軍法会議だろうが、何だって受けますよ」
櫻井は微塵も悪びれた様子もなく言った。
「貴様のそういうところ、俺は嫌いじゃないけどな」
森岡が言うと、櫻井は僅かに微笑んだ。
「なあ。ところで──聞いたか。城東区、深川区、本所区は全滅らしいぞ」
と森岡が櫻井に言った。
その区域は現代の江東区、墨田区にあたる。
「今朝電話で知ったんだが、浅草辺りから東京湾が見えるんじゃないかって言う程、辺り一面真っ平らになっちまったらしい。B-29はおよそ二百、アルミ箔を使って──やはり、電探妨害していたそうだ」
「やはりあの不審な動きをしていた二機のB-29は、電探欺瞞紙を撒いてたのですね」
櫻井の顔付きが険しくなって、明らかに苛立っているのがわかる。
櫻井は、低い声で
「許せない」
と言った。そして続けて
「私が鹿屋に行けば、その恨みは少しは晴らせますかね」
と言うと、
「……敵空母に突っ込めればな」
と森岡が冷静に言ったのだった。
櫻井の目は依然険しいままだ。
みつきはふと、言葉では言い表せない不安を感じて櫻井の服の裾を引っ張った。
「まさか、櫻井さん……突っ込むつもりじゃ……」
と、みつきが言うと
「それが出来たらどんなに良かったか。俺は直掩と言って、特攻を成功させる為の護衛だから」
とだけ言った。
(良かった……)
そうは思ったものの、櫻井の表情は硬い。
「なあ櫻井。白河を早く厚木に連れて帰ってやれ。俺はしばらく休暇もあるし、ここで少し手伝っていくわ」
森岡は顔を拭いながら言う。早く帰れ──みつきの精神的負担を考えての言葉だ。
「ええ、そのつもりです 」
そう言って、櫻井はみつきに
「ここからしばらくは歩くことになる。歩けるか?」
と言った。
「は、はい」
みつきがそう言うと、森岡が真面目な顔をした。
「白河、道中辛いかもしれんが……頑張れよ」
最初はなんの事だかわからなかったが──すぐにその言葉の意味を理解する事になるのだった。




