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これから東京は猛火に包まれる 三


 冬だというのに熱風が立ち込めていて、江東方面から飛んでくる火の粉や火の着いたままの紙切れや布切れが、ふわふわと舞っていた。


 目黒は江東方面からは割と近く、向こうの空にバラバラと束ねられた焼夷弾が落ちていくのがはっきり見える。

 それが、風に流されてこちらに落ちてくる様子はまるで雨のようで、『サッ……サッ……』と妙な音を立てて落ち、近くの住宅地へ落ちたかと思うと勢いよく火柱が立ち上った。


 空は新聞が読めるのではないかと思うほどに明るく赤らんでいる。ふと、提灯のような明るいものが東の空でゆらゆらとゆっくり落下しているのを見て

「堂々と照明弾を撃ちやがって」

と、櫻井は舌打ちをした。それを聞いて初めてあれが照明弾だったのだとみつきは思った。


 櫻井は地図の描かれた看板を見つけると、そこで確認しながら

「少し遠回りして住宅地の人達に声をかけながら白金御料地へ行こう。あそこは明治期に陸海軍の火薬庫だったところで──今は宮内省に委譲された広い土地だ。あそこには朝香宮邸もあるし心強いから」

と言った。


 白金御料地とは、現代では東京国立博物館附属自然教育園という名の自然緑地になっている所だ。


「目黒川方面へ行かないんですか?」

とみつきが聞くと呆れた様子で

「何故あんな狭い水路のような川へ行く? 密集するような場所では火災旋風も起こるし、何があっても逃げ出せない。広い所へ逃げた方がいい事くらい、子供でもわかるだろ」

と、櫻井に言われてみつきはムッとした。


「み、水があって安全かなって思ったので!」

「油脂性の焼夷弾は水の上さえも走るから、水場なら安心という安直な考えはやめた方がいいぞ」


 櫻井はそう言って、みつきの腕を引っ張って歩き出した。


 狭い路地から吹き込んでくる熱風が顔に当たって痛い。息をすると、喉が火傷しそうに熱く、みつきは口元を布で抑えながら慎重に息を吸った。


 通りかかった住宅地では皆逃げずに必死の消火活動を行っている。女性達が、火叩き──物干し竿のようなものに縄を束ねたものを防火用水に浸しては、噴出するかのように燃える焼夷弾を一生懸命叩いている。


 みつきは立ち止まって

「逃げて、そんなもので叩いたって消えませんよ!」

と言って、女性達の腕を無我夢中で掴んだ。


「町が燃えてしまったら、生活する所が無くなってしまうのよ。必死で守らなきゃ!」

と言って彼女達は振り向かなかった。

 寧ろ、邪魔だと言わんばかりにその手を振り払って、思わず後ろにひっくり返りそうになった。


 火の勢いは増すばかりなのに、「なんで消えてくれないよ!」と叫びながら防火水槽からバケツで汲んだ水をかけている。


 すると、そのうちの一人の女性に火の粉が落ちて、火が服に燃え移った。

「火が!」

 みつきが叫ぶと、櫻井は落ちていた筵を咄嗟に拾ってその火を叩く。バケツの水を汲んでいた女性達も水をかけたりして、数人がかりでその火を消した。


 ようやく服に燃え移った火を消したところで櫻井が

「これらは油脂性だから、燃え始めた火はどうやっても消えない。このままじゃ貴方も、火の粉にやられて火達磨になってしまうから」

と言うと、躊躇う表情を見せた。


 しかし、櫻井の雰囲気に気付いたのか驚いた表情で

「あ、貴方様は……もしかして軍人さん…?」

と言った。


 身分を明かしていないのにも関わらず、櫻井が軍人である事を見抜く女性に、櫻井は驚いた表情をした。


 そして戸惑いがちに黙って頷いて

「今は逃げて下さい」

と櫻井が言うと、女性達は勢いを増す炎をちらりと見た後に、諦めた様子で手に持っていた火叩きを次々にその場に落とした。


「死にたくない……軍人さん。助けて」

 そう言った女性達の目は、涙ぐんでいた。



***



 陸軍の高射砲が打ち上がる。空はまるで赤インクをぶちまけたかのように真っ赤に染まり、藍色の空との境界線が奇妙に鮮やかな紫色をしている。

 そんな空の中にぼんやりと浮かぶ何百ものB-29の腹を、陸軍の照空灯がより一層明るく照らして、地上からはギラギラとして見えた。


 その腹を目掛けて高射砲の弾幕があちこちに次々と浮いて、所々B-29の腹から煙を上げるのが見えた。

 日の丸の描かれた戦闘機が、それを追いかけて機銃を浴びせると、東京湾の方へ火を吹きながらB-29が落ちていく。


 その戦闘機は──陸軍の飛燕。濃緑とシルバーの迷彩に赤い尾翼が特徴的な少しずんぐりした飛燕を扱うのは、首都防空を担う陸軍の飛行第244戦隊。


 B-29のエンジン音、液冷エンジン独特の甲高い飛燕のエンジン音、高射砲の音、そして住宅地が焼け崩れる音──聞いた事もない程の轟音が辺りに響いて、声もろくに聞こえない。


 放心してぼおっと突っ立って空を見上げる男性や、空を見上げて無邪気に指を差している子供を引っ張る母親──そんな彼らに

「私達と一緒に逃げて!」

と叫びながら腕を叩いて、逃げるように促した。


 焼けるように熱い風が吹き荒れて汗が滝のように流れてくるのを、みつきは手の甲で拭う。


 既に道では何人かの人間が倒れていて、みつきは思わず足を止めた。

 彼らを揺さぶって起こそうとしたが──返事が無い。


 櫻井はそれはを見て、

「多分もう亡くなっている」

と言った。


「こんなに綺麗なのに!? 気を失っているだけかも……」

「この煙だ。一酸化炭素中毒でも起こしたんだろう。火災での死亡原因では比較的多いから珍しくない」


 そう言われて、みつきは彼らを起こすことをやめ、重い腰をゆっくりと上げて立ち上がった。


 心の中で彼らの逝く先が、幸福であるようにと──祈りながら。


 木造の家屋が燃えて目の前で大きな音を立てて崩れ落ちる。これは現実なのかそれとも夢なのか、わからなくなるほどに辺りは炎に包まれ、狭い道を炎が塞ぐ。

 それは、冬だというのに汗が出るほどに熱く、そばにいるだけで火傷をしそうな程に。


「ここからは火が強いから、鼻と口を保護しろよ。こんなところで中毒や気道熱傷になったら死ぬしかないからな」

「気道熱傷?」

「呼吸をする気道の火傷の事だ。気道の火傷は粘膜を膨れ上がらせ、死に至る。気管挿管をしなければまず助からない」


 みつきは借りたハンカチを口に当てると

「白金御料地に着くまでちゃんとそうしてろよ。俺についてくれば大丈夫だから」

と、急に優しい声で言ったのだった。

 


***



 白金御料地に着くと、大空襲だというのに門番が立っていて門を固く閉ざしていた。


 櫻井はそれを見て

「……だよねえ」

と、やれやれといった様子で大きく溜め息をついた。

 櫻井やみつきの後ろには既に多くの人がついてきていて、不安そうな顔をしている。


「俺が何者かバレたらまずいから。念には念を」

と言って櫻井は上衣を脱いでネクタイを外すと、みつきにそれを渡して中の襦袢シャツだけになり門番の所へ行った。

 この念の入れようは、恐らく先程の女性達にあっさり軍人だとばれてしまったからなのだろう。


 しばらく何かを話して、そして何もせずに戻ってきたかと思うと

「あの門をぶっ壊す。協力してくれ」

と言ったのだった。


 一瞬その場がどよめいたが、櫻井はそんな事もお構いなく、指でこっちへ来いと合図をする。


 避難民全員で門番を囲うようにして入口前へ行くと門番が

「おいお前! ここは陛下の芋と防空壕があるから、立ち入りは許さないと何度言ったら──」

と言うのを終わらないうちに、

「陛下は逃げ惑う國民を見捨てられるような、そんな心の狭いお方ではない!」

と言って櫻井が門番の顔を勢いよく殴った。


 すると、それに呼応するように

「そうだそうだ!」

「力づくで開けろ!」

「芋の為に死ぬなんてごめんだ!」

と、次々に声が上がって、後ろにいた男性や女性達が門を足や腕で蹴ったり殴ったり、乱闘騒ぎが始まった。

 皆で倒れ込んだ門番を踏み潰している間に門が外れて、どっと敷地内になだれ込んだ。


 辺りは押し寄せてくる人間で揉みくちゃになり、みつきも潰されそうになったが、櫻井の衣服を抱きしめるようにして体を守りながら押し寄せる波と一緒に中へ中へと流れ込んだ。


 中はとても広く、敷地内中頃へなだれ込んだ頃には比較的体の自由がきいて、ようやく圧迫から解放された。


 いつの間にか櫻井とはぐれている事に気付いてキョロキョロしていると、後ろから肩を叩かれた。振り向くと櫻井の顔がそこにあって、胸の奥で固まっていた緊張が一気に解れて思わず涙が溢れそうになったので、頑張って堪えた。


 櫻井に引っ張られ、敷地内の端へようやく腰を下ろすと、櫻井が

「陛下の敷地に踏み込むのは心が痛いが、背に腹はかえられない。こうでもしなきゃ、國民を守れないから」

と言う。


 みつきが

「無茶してくれて、感謝してます」

と言って衣服を櫻井に返すと、櫻井は

「ああ」

と優しげに目を細めて頷いた。

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