これから東京は猛火に包まれる 二
「で、その空襲は主にどこを主目標にされるんだ?」
櫻井は手帳と鉛筆を出して、東京の簡単な地図を描きながらみつきに言った。
櫻井がどういうつもりでこの話を聞いているのかいまいち汲み取れなかったが、少しでも聞いてくれる姿勢を見せてくれた事がみつきにとっては少し嬉しかった。
区の境と皇居の位置、電車の路線、大きな川の位置が書かれた簡単な東京の地図を櫻井に差し出されて、みつきは
「このあたりです」
と言って皇居の右側の地域を広域に指すように大きく丸を描いた。
「広すぎるな、もっと具体的に示してくれ」
「いや、この辺り一帯全てです。あと、こことここも……」
と、みつきが指を差して言うと櫻井は驚いた表情をした。
「思ったより広域だな。ここは軍需工場というより、殆どが住宅街だ。何故ここを……?」
そう言って、櫻井は少し考えた後
「なるほど」
と少し呟いて、大きく息を吸った。
「この辺りは、防火、鎮火の神が奉られた神社が数多く存在しているんだが──それが意味するのは、ここは火事が多い地域という事。特に深川区、城東区には燃えやすいという立地条件だけでなく、製紙工場といった紙を扱う工場も多い。銃後を燃やし尽くすのが目的なら、この地域は絶好の場所だろうな」
と言った。
森岡も、
「明日は陸軍記念日だし、明日米軍が何もせずにいるとは思えん。警戒するに超したことは無さそうだな」
と言う。何も説明していないのに、二人は鋭く状況を読むのだった。
すると突然、『ウォーン』と警戒警報が鳴った。森岡が部屋の隅に置いてあったラジオをつけると、『B-29二機が房総沖より来襲中』と、ちょうどラジオでも警戒警報が発令されていた。
「みつき、灯火管制」
「は、はい」
櫻井に言われて、みつきは慌てて櫻井の雑嚢から黒い布袋を取り出し、ちゃぶ台に乗って部屋の電気にその布袋を被せると、辺りは薄暗くなった。
「B-29二機か……妙だな」
森岡が呟いた。
深夜にF-13が単機で侵入する事は珍しくなかったのだが──
「ええ。偵察にしては妙ですね。F-13ではなくB-29である事に違和を感じる。何か意図があるな」
櫻井は眉を顰めながら言った。そんな風に言う二人を見ながら、みつきはいよいよか、と思った。雑嚢から防空頭巾を取り出して、いつでも退避出来る用意を整えておく。
しかし、しばらくすると警戒警報は解除され、辺りは静まりかえったのだった。
(あれ……何でこないんだろう)
みつきはそっと障子を開けて窓の外を見た。
外はとても風が強いのか、窓がガタガタと音を立てている。
櫻井が
「おかしいな。敵機は恐らく後ろにもっといるはず。探知されていないのか?」
と言って、窓を見た。
窓の揺れを見た櫻井は
「風が強くて電探アンテナがイカれたか?」
と言ったが、少し間を置いて
「いや、さっきの二機が何かやってそうだな」
と言った。
「何故警戒警報が解除されたのかわからないんですけど、これからきっと来るはず……」
みつきがそう言うと、櫻井が
「さっきの二機が電探妨害でもして、探知させないようにしたんだろう。それにしても東部軍管区は馬鹿なのか? 何故警戒警報を解除したんだ。何もないはずが無いだろ」
と苛立ちを顕にしながら時計を見た。
「あの……櫻井さん、下町へ行きたい。あの人達を助けたい」
みつきがそう言うと、櫻井は首を横に振った。
「何を馬鹿な事を言っているのか知らないけど──俺はみつきが死んでしまうかもしれない所へ、連れては行けないね」
そして一呼吸置いて、
「だからせめて、目黒の人達を助けよう。目黒の人達が無事に逃げられるように」
と、言うのだった。
*
深夜零時を過ぎた頃、突然『ウォーン』という警報が連続して鳴り響いた。
警報が短めに一分間に十回に鳴るのは──空襲警報だ。
通常は警戒警報が鳴ってから空襲警報へと切り替えられるのだが──恐らくもう既に、どこかに焼夷弾が落ちているのだろう。
森岡が、音を小さくしていたラジオの音を少し大きくすると
『東京の東部地区に焼夷弾が炸裂、複数のB-29が相次いで東京上空に侵入中』
と言っているのが聞こえた。
みつきが障子を開けて空を見ると、姿は見えずとも飛行機の轟音が響いている。多分、一機や二機じゃない、もっと多い飛行機の音だ。
「やっぱり後ろに潜んでやがったな。畜生、邀撃に上がりてぇ」
森岡が、右手に拳を作って言うが、櫻井は何も言わずにじっと空を睨んでいた。
***
一方、厚木基地では──
「どうして邀撃に行けないんだ!」
そんな風に声を荒らげて、部屋で水地が暴れていた。東京で警戒警報が発令されていた午後十時半頃には、厚木基地では要注意を示す第二警戒配備甲を発令していた。
「厚木から出すのが、たったの月光四機かよ!」
この月光四機は東京湾、相模湾上空に展開し、陸軍機の防空エリアと重複しないように配慮されている。
午前零時すぎには警戒配備から空襲警報に変わったものの、月光四機を哨戒に出して以降、追加の出撃の命は無く──水地はイライラしている。
「何が首都防空部隊だ! ただの哨戒部隊じゃねえか!」
水地はコンクリートの壁を思い切り殴った。
「おい、落ち着けよ! 俺だって邀撃に行きたいよ」
そう言って水地の腕を掴んで止めに入ったのは──当麻。水地はコンクリートの壁を殴り続けていたからか、拳から血が滲んでいる。
水地を宥めながら、当麻は低い声で
「俺だって、みつきが東京にいると知って……気が気じゃないんだ。行けるなら今すぐ行きたい」
と言うと水地は驚いた顔をして当麻を見た。
「それ、本当なのか」
「そうだよ。櫻井の区域外外出申請書を盗み見たら、同行者がみつきで………東京に行くと書いてあった」
「おいおい、冗談はよせよ……」
「冗談なんかじゃない。もしかしたら、巻き込まれてるかもしれないんだ! 今すぐ俺は出撃したい。いや、叶うなら……探しに行きたい」
そう言った当麻の目は、灯火管制で薄く照らされた電球の光がゆらゆらと揺れて、水地にはいやに綺麗に見えた。
「おい、当麻……もしかして貴様、泣いて──」
「うるさい!」
当麻は声を荒らげた。
当麻が腕で目を擦っているのを見て、水地は
「櫻井、守らなかったら承知しないからな」
と、小さな声でそう呟いたのだった。
***
B-29の爆音が響く目黒の空は、うっすらと東の空が明るく、そして白く靄がかっていた。夜明けが近い訳では無い。それは、焼夷弾で燃え盛る江東地区の炎と煙が、うっすらと空を明るくしているから。
陸軍の照空灯がB-29を捕捉するのを、目黒の地上からでも確認することが出来た。
目黒は直接の標的ではないらしく、B-29は素通りするのみだったが、近隣地区に落とされた焼夷弾が風で流されて着弾し、やがて目黒も炎に包まれ始めた。
窓の外を見ながら様子を伺っていた櫻井は
「とりあえずここを出よう」
そう言ってみつきに部屋を出るように促した。みつきは防空頭巾を被って部屋を出ると、櫻井と森岡も部屋を出た。
森岡が先導して階段を降りると、黒煙が階段伝いに天井へと向かってのぼってくる。
「これは下で燃えてるな」
森岡が階段を降りながら言った。
「本当に下に行っていいんですか!? 燃えてたら逃げられないんじゃ……」
と、みつきは後ろを振り返って後ろから降りてくる櫻井に訊くと
「いいから、ハンカチを鼻と口に当てて姿勢を低くして降りろ。煙は秒速五メートルで空気層を押して上にのぼる。上にのぼった煙は壁伝いに下へ降りてくるから、空気が無くなる前に下へ降りなければ中毒死だからな」
と言ってみつきの手元をちらりと見た。
櫻井が何か怪訝な顔をしたかと思うと、内ポケットからハンカチを出して強引にみつきに押し付けた。
「持ってないなら使え。今すぐに」
押し付けられたハンカチを受け取って
「え、でもそしたら櫻井さんは……」
と訊くと、
「俺は訓練を受けているから」
と言ってみつきの背中を押した。
みつきがそれで口元を押さえると、炎と煙の臭いの中で仄かに櫻井の優しい香りがして
(櫻井さんが守ってくれる)
そう、なんだか急に心強くなったのだった。
ようやく出口に近づいたところで、急にふと目の前が明るくなった。
森岡の目の前で、炎が勢いよく燃え盛っている。まるでガソリンを撒かれているのではないかと思うほどに勢いよくバチバチと音を立てて、天井まで炎の柱を作っていた。
「白河、悪いな!」
森岡がそう言ったと同時に腰あたりを思い切り蹴り飛ばされて、みつきは出口の向こうへ倒れ込んだ。
起き上がろうとしたところで、今度は防空頭巾を被った頭を勢いよく叩かれた。
顔を上げようとすると、こちらに来た櫻井が
「火が燃え移ってるからじっとしてろ!」
と言って、何度か乱暴に叩かれた。
それがようやく止んで、みつきはゆっくりと顔を上げると森岡が炎燃え盛る出口から転がり込んできて、炎が燃え移っている箇所を櫻井が衣服で思い切り叩き消していた。
起き上がって辺りを見回せば、海軍病院に入院していた患者が集まっており、防火水槽から水をバケツで汲んだり、ポンプ車がやってきたりして、必死に二号館の消火活動を行っている。
二号館は瞬く間に全てを炎が飲み込んで、強く吹き荒れる風が、辺りに火の粉を散らした。
「俺はここで消火活動にあたるから、櫻井は白河連れて外へ行け!」
森岡の声は炎の轟音に掻き消されたが、櫻井は軽く敬礼をすると踵を返して
「行くぞ」
と、みつきの腕を引っ張った。




