これから東京は猛火に包まれる 一
みつきと櫻井は目黒の海軍病院へ向かった。
海軍病院に着いた頃にはもう夕方──三月だというのに夕方にはかなり冷え込んで、チラチラと雪が舞っている。
海軍病院の受付で森岡の事を訊ねていると、廊下の向こうから森岡が
「おお、櫻井!」
と言ってみつきと櫻井を出迎えた。
森岡は櫻井を見るなり
「櫻井、なんだその格好は。休暇中に軍服着て出歩いて何してんだよ」
と言った。
「青山へ父の墓参りに。父に海軍軍人となった事を報告しに行って参りました」
「そういえば櫻井んとこは陸軍一家だったっけか」
「ええ。父が生きていたら、怒られそうですがね」
櫻井はそんな冗談を言った。
森岡は海軍病院の分院に特別に泊まっているという。そこはかつて目黒の高級ホテルだったところで、政府の要請により現在は一時的に海軍病院の分院になっている。
一号館が入院病棟、二号館が閉鎖棟で、森岡はその二号館を特別に開放して貰っているらしい。
森岡に、少し飲もうと言って案内された森岡の部屋は、十畳ほどありそうな広い部屋で、一人で泊まるには少し広すぎる。
「さすがにこの建物に一人で泊まるのは、ちょっと肝が冷えるね」
寂しいのか怖いのか何なのか、森岡はみつきと櫻井をここに泊めたくて必死なようで、
「もう遅いし雪も降ってるし──泊まってけよ。な?」
としきりに言うものだから櫻井は根負けして
「仕方ない、泊まるか」
と言って背負っていた雑囊を下ろした。
「みつきはどうする? 帰るなら駅まで送るけど」
櫻井にそう言われて思わず
「泊まります」
と言ってしまい、女だからと隣の部屋に行かされた。とはいえ、この二号館はみつき、森岡、櫻井の三人しかいない。
なんとなく怖くなって、みつきは寝るまでの間は森岡と櫻井の部屋にいる事にした。
櫻井はさっきまで着ていたはずの第一種の軍装から通常の背広にあっという間に着替えていて、既に業務外モードになっている。
みつきは櫻井の持ってきた酒を開けて、みつきは部屋にあったグラスに注いで森岡に渡した。櫻井にも渡そうとすると、櫻井は手で断る仕草をして
「上官を潰してはいけないですからねえ」
と、少しにやにやしながら言う。
それを聞いて、森岡は
「言ったな? このやろ!」
と言って、櫻井の左腕をど突いた。
「勤務外くらい上下関係抜きで飲めよ! たかだか二歳しか違わねぇんだから、ほぼ同年代だろうが」
と森岡が言うのを、みつきは驚いた。
「えええっ!? うっそお!? 森岡さんて、めっちゃ年上かと思ってた……。十歳くらい」
「はあ? 十歳年上だぁ? 白河、随分と失礼だぞ!」
(だって……貫禄とか喋り方とか……。この時代の人って、なんかちょっと見た目が実年齢より高いよね……)
自分より年下かも、なんて思いも過ぎる。
櫻井は
「分隊長は海軍兵学校卒で俺は一般大学だからね。俺より長く飛行経験もあるし、キャリアは分隊長の方がよっぽど上。俺は頭が上がらないというわけだ」
と言って笑った。
「櫻井、いいから飲めよ。俺だけ飲んでも楽しくねーから!」
と言って、森岡は櫻井にグラスを渡した。
「分隊長、潰れても知りませんよ?」
「よけーなお世話だよ!」
そして森岡はみつきの顔を見て
「ところでなあ、白河。実は俺、元々は戦闘機科の人間じゃないんだ。──さーて、何だったと思う?」
と、気分が良いのかそんな事を言って、みつきに問題を出した。
「うーん……」
みつきは暫く考えたが答えが出ずに沈黙していると、森岡は手を叩いて
「正解は艦爆乗りだ。しかも急降下爆撃の」
と言いながら手で急降下爆撃の様子を描いた。
「当麻さんや水杜さんのような感じですか?」
「そうそう」
森岡は嬉しそうに笑った。
「でもな、聞いてくれよ。それからずーっと教官やらされてさあ、なっかなか前線に出させてくれないから艦爆やめる! って言って、戦闘機科に転科したんだよ」
横で聞いていた櫻井は
「そういうところ、分隊長らしいですね」
と言って笑っていた。
「だろ、戦闘機科に転科して良かったよ。手首はなくなったが、全く後悔してない!」
酒の勢いなのか何なのか、やけに森岡は元気だ。
そんな他愛ない会話をしていると、ふと、櫻井のポケットから少しはみ出た新聞が目に入って
「それ、見せてください」
と言って、みつきはその新聞を借りた。
するとそこには
『少しも危險はない 二・八キロ油脂性焼夷彈 殆ど当たらない』
『逃げずに防火せよ 初期消火が大事』
なんて書いてあって思わず
「焼夷弾なんて消せるわけなくないですか!?」
と言うと、櫻井が驚いたように振り返った。
新聞には、焼夷弾に水をかけている絵が載っていて、あたかも簡単に消せるような──そしてちっとも危険は無いような素振りで書いてある。
そういう文を読めるようになった自分を褒めてあげたいが、そんな場合ではない。
更にその新聞には
『燃えながら筒から十メートルぐらゐの所へ飛び出す、四方へ散らばるのでなく一方に飛ぶのだからその威力闤はごく狭いわけだ──』なんて書いてあって、みつきは
「油脂性焼夷弾て、すぐに消せるんですか?」
と訊くと、櫻井は
「いや──それはないね」
と、少し躊躇いがちに言った。
そんな風に話しながらなんだか嫌な予感がした。こんな風にここに泊まる事になった事も、こんな風に新聞を読んでいることも、無意識の自分から、今の自分に何か気付きを与えようとしている気がして──。
そこでみつきはハッとした。
「空襲──空襲がくる!」
みつきは咄嗟に立ち上がった。
「どうしたんだよ?」
森岡が眉を顰めながら言った。
みつきは
「東京に空襲がくるんです、この一帯が全部焼け野原になって……何万人もの死者が出る──大空襲が!」
と言って森岡の服の裾を掴んだ。
(思い出した、深夜に東京を大空襲が襲う事を──)
みつきは櫻井の腕を取り、時計を見た。
時刻は夜九時──もう時間が無い。
櫻井と森岡は依然と訝しげな顔をしているがみつきの剣幕を見て二人は顔を見合わせ、首を傾げている。
「どうしたらいいですか、どうしたら、皆を避難させてあげられますか!?」
みつきはそう言いながら慌てて二人の服を引っ張るが、櫻井はみつきの肩を掴んで冷静に言った。
「まず、落ち着いて欲しい。東京の殆どが焼け野原になるような空襲が来るという情報はどこから得たんだ」
「どこって──」
みつきはそう言いかけたまま、答えられなかった。未来で教わった情報だと言ったところで、証拠がない。
「と、とにかく来るんです! 下町が焼け野原になるのは絶対に確実なんです! 何万人も死ぬんです! 隅田川は死体で溢れて、上野公園や錦糸公園は安置所になって──」
「なあ、その空襲というのはちょっと前に東京にばら撒かれた伝単にあったものか? あんなものを読んでいると知れたら、処罰されるぞ」
みつきが言い終わる前に、森岡は焦った様子で言った。
「伝単って何です?」
みつきが二人に問うと、櫻井が
「所謂米軍の宣伝謀略ビラのことだ。日本に限らずどの国でもああいった類のものは拾ってはいけない事になってる」
と言った。どうやら数日前、東京に米軍による空襲予告のビラが撒かれて大問題になったようで、普段厚木基地で勤務しているみつきはその事を知らなかった。
「伝単は知らなかったです。でも……その空襲予告は本当かもしれないですよ」
みつきがそう言うと、櫻井は気まずそうな顔をした。
「……海軍にいながらこんな事は言いたくないが──俺は伝単には本当の事が書いてあると思っている。しかし、宣伝謀略ビラというものは、いつ、どこで、といった具体的なものは一切書かれていない。奴らは本当の意味で予告する気など更々ないんだ。狙うのは、混乱と恐怖、社会機能の停止──」
そう言って、櫻井は大きくため息をついて腕を組んだ。
「だから、伝単は意味がない──と言いたいところだが、去年の暮あたりから米軍は無差別爆撃を繰り返している。九州の海岸から連合軍による上陸作戦があるという情報も掴んでいるし、今更何が起こってもおかしくはないだろうな」
森岡は淡々と言う櫻井の言葉に頷いている。どうやら森岡も、連合軍による九州上陸作戦に纏わる情報も知っているようだ。
「じゃあ! 早く……みんなに知らせなきゃ!」
みつきは櫻井の腕を掴んで引っ張ると、櫻井は
「みつき、早まるな!」
と言ってみつきの腕を強く引っ張り返して畳に座らせた。
「逮捕されるぞ」
「何故です!?」
「情報を撹乱させる為のスパイ行為だとされ、もれなく刑務所行きだ」
「でも! 事前に知ってたら逃げられるかもしれない。皆に知らせられたらきっと──」
「日本國民は、義務を放棄して逃げる事は許されない」
みつきが言い終わる前に、櫻井がみつきの言葉を遮るように言った。
「防空法第八絛ノ三及び七により、全ての日本國民は防空、消火義務があり、許可なく退避する事は……出来ないんだ」
さすが法学部卒だけある──なんて関心している場合ではなかった。逃げてはいけない、そんな法律があるとは夢にも思わず、みつきは言葉が出なかった。
(初めて私の知識が役に立つと思ったのに……!)
未来から来たとなれば大体物語では歴史が変えられたりするものだが、現実はそう甘くなかった。
櫻井は、困った顔をしながら
「もしそれが本当だったとしても、軍という國に仕えるという立場上、俺達は公に義務を放棄して逃げろとは言えないんだ。それに、このような行為は軍規にも反する」
と言う。
「でも今は民間人の装いじゃないですか」
「まあ、そうだけど。こういう事は意外とすぐにバレるものだから」
櫻井は困ったように言った。
立ちはだかるものは、法律、立場、軍規、そして結局のところ自分一人では全くの無力であること──。
みつきの目から涙がぽとりと畳に落ちた。悔しくて情けなくて、何よりも無力で──涙が出た。
櫻井はみつきの落とした涙を見て、驚いたような顔をした。そして少し考えて
「なあ、その大空襲というのは……本当に来るんだな?」
と、真剣な目でみつきに言った。
みつきがその眼差しに答えるように大きく頷くと櫻井は
「……わかった。俺は空襲が起きてからでないと動けないが──出来るだけ國民が逃げられるように努めよう。みつきがそれを望むなら」
と言って、みつきの頬を伝う涙を櫻井はポケットから出したハンカチで拭った。
「おいおい、櫻井本気かよ」
森岡が慌てて口を挟むが、
「ええ、本気ですよ。本当に空襲が来たとして──どうせ厚木からは邀撃は出ないでしょう。それならば、自らの身体で國民を護るのみです。いけませんか」
と、そんな風に低い声で言う櫻井に、森岡は何も反論出来なかった。
「どちらにせよ、米軍のナパーム弾など……バケツの水や、濡れ筵でとても消せるものじゃない。軍でもポンプ車を使ってやっと消すんだから、消火をしようとその場に留まるだけ無駄だからな」
國に仕える者として、軍規に背くような発言をする櫻井に、森岡は少しヒヤヒヤしながら
「やるなら上手くやれよ?」
と言った。




