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櫻井と東京へ、明かされる櫻井の過去 一 (R6年改変

 長閑な田舎道を電車が走っている。先の空襲で、ぽつぽつとあった住宅は倒壊していて、人が住んでいる様子はない。草木は枯れ草の色をしていて、春の芽吹きはまだ先のようだ。


 カタンカタンと規則正しく聞こえる線路の音を聞きながら、あぜ道──畑──森林──あぜ道──と繰り返す風景をみつきは電車の中から眺めていた。


 席は長距離用のボックス席で、みつきの向かいには櫻井がいる。今日はなぜか、紺の詰襟の第一種(冬衣)軍装で、黒革の手袋を手に纏っている。


(今日は何故軍衣なんだろう)


 いつもは国防色と呼ばれるグリーンの背広か、グレーの背広、それと紺色の帽子、茶褐色のネクタイをしているのに。


 櫻井の足元には都内に出るだけには大きすぎるトランクが置かれている。どうやら、着替え、見舞い品、その他色々入っているようなのだが、具体的には教えてくれなかった。


 櫻井は少し足を組んで新聞を四つ折りにして読んでいる。

 その櫻井の上衣の裾の間から海軍の短剣がちらりと見え、海軍軍人なのだと改めて感じさせた。


 こうして二人で電車に乗ったのは、西瓜を買いに行った時以来だ。あの時櫻井は、真っ白な海軍の軍衣を着ていた。


 近寄り難く、とても育ちが良さそうな──高貴な印象を抱いたものだったが、紺色の軍衣姿は、それよりも高い気品を感じさせる。振る舞いも、所作も仕草も──全て。滅多に見ないこの姿は多分、海軍の誰よりも気高いだろう。


 辺りを見回してみても、櫻井という男はやはり普通の人とは違う一際目立つ存在で、辺りに静かな空気を纏っている気がするのだ。


 思わず櫻井をしげしげと見つめてしまうわけだが、あまりにも彼が美しくて自分の目線が落ち着かない、みつきがそんな風に思っていると──


「……なんだよじろじろと」


 櫻井がみつきの視線に気付いた。

 櫻井が少し困ったような顔をしてこちらを向くものだから、みつきはどきりとした。


「何を緊張している? まさか、久しぶりの俺の軍衣姿に萎縮でもしているとか?」

 意地悪な顔をして、櫻井は言った。


 あの眼は全てを見透かす。考えていることは恐らく筒抜け。みつきは恥ずかしくなって顔を背けた。


 そんなみつきの姿を見、櫻井は少し呆れた様子で

「変なヤツ」

手に持っていた新聞に再び目を落とした。


 みつきが東京に行きたいと言った翌日──櫻井はみつきを連れて東京に出たのだった。

 第三分隊分隊長の森岡がちょうど目黒の海軍病院に義手を製作しに行くというので、ついでにどこかで海軍病院へ顔も出す予定だ。


 この頃の電車は、軍事輸送や地方疎開に必要な輸送力を確保するために、旅行の制限を強化して旅客列車の運行を大幅に削減。そのため、主要駅を過ぎると一気に混雑が増した。

 等級のある列車も廃止していたから、列車は全て三等の所謂通勤電車。


「──で、俺の母校なんて見に行ってどうするんだよ」


 櫻井は訝しげな表情をしてこちらを見た。


 それもそのはず──

「櫻井さんの母校を見に行きたい」

なんて、みつきが言い出したからだ。


 勿論これはみつきが櫻井と二人で東京に出かけるための口実が八割。


「そりゃ、学生時代どんなことしてたのかなって興味ありますから」

「だから昨日言ったろ? 俺は法学部だったって」

「どんな職業に就くつもりだったとかは聞いてないですよ」

とみつきが言うと、櫻井は少し嫌そうに

「法学部に行く人間がなる職業なんて大体官吏だよ」

「官吏って何ですか?」

「官吏は、広い意味で教論や例えば各省の大臣のような高等官、公務の仕事をする人の事。俺は高等官になるつもりではあった。例えば各省の次官とかね。まあもう、俺には関係の無いことだけどな。元々はしたい事ではなかったし」

と言った。惰性だ──とでも言いたげな顔をして。

 

「したい事じゃなかった?」

「そう。元々俺は陸軍幼年学校に入学したばかりだったんだけど、とある件で退学になってね。伯母に引き取られて以来俺は官吏、将来的に高等官になる事を強要されていたわけ。出世した俺の子供がただ欲しいだけなんだ。まあ、もう関係ないけどな」


 しきりに櫻井は「関係ない」という言葉を繰り返して、それがみつきの胸になんとなく引っかかった。


(遠野家──と関係があるのかな)


「関係無いって言うのは、海軍に入ったから?」

「それもあるし、もう家とは縁を切った」


 そう言って、櫻井は四つ折りにした新聞を開いてページをめくった。


「伯母は高等官にでもなって世を変えればいいと言っていた。でもやっぱり俺は、官吏ではなく実の父の意志を継いで家の名を継ぎ、どんな形であれ軍人になりたかった。養母である伯母に恩が無いわけじゃないけど、俺は──父を尊敬していたから」


 櫻井は新聞から目線を外して外に目をやりながら言った。


「櫻井さんのご両親て──」

「両親共に死んでる。父は、二月二十六日の、あの帝都不祥事件で自決しているし、母も後を追った」

「二月二十六日……えっと、もしかして二・二六事件の事ですか?」

 みつきがそう言うと、櫻井は黙って頷いた。


「父は農村部と都市部の経済格差を埋めようと、今の私利私欲に満ちた政治を、改革したいと思っていた軍人の一人だった。未遂ではあったけれども、結局クーデターになってしまった事で陛下のお怒りを招き國賊となってしまったが、俺はそんな父を今でも誇りに思っている。……とある件とはこの事だ」


 櫻井に重い過去があるとはつゆ知らず、みつきは言葉に詰まった。櫻井はそれを察したのか

「まあ今更だから気にするな」

と言って平気な顔をした。


 手帳にあった遠野家──とは恐らく、この伯母の家のことなのだろう。


「だから海軍に……入ったんですね」

「俺は父の軍人恩給を受けていた関係で伯母とは養子縁組をしていないから、戸籍が櫻井のままなんだ。国賊の俺は陸軍は入れない。海軍なら国賊だと、とりあえずはバレないからな」


 櫻井は持っていた新聞を畳んで、膝の上に追いた。


「海軍に合格した時、帝大の連中に開いてもらった壮行会で、軍人なんて馬鹿がやる事だと言われたが、俺は嬉しかった。やっと少し父に近付くってね」


 櫻井は乾いた笑みを浮かべながらそう言うと

「俺の話はこれくらいにしてほら、これでも食べろよ」

と言って、人から見えないように手で隠しながら、ポケットからみつきに航空糧食のあまりのキャラメルを渡した。


「ありがとう……ございます」


 櫻井の体温で少し柔らかくなったキャラメルに、紙が少し張り付いている。みつきはそれをピリピリと破いてキャラメルを口に入れると、口の中が一気に甘くなった。



***



 帝国大学をほんの少しだけぶらりとしてから、みつきと櫻井は目黒の海軍病院へ行くために東京駅へ向かった。


 その前に少しお茶でもしようか──そんな話をして、みつきと櫻井は東京駅付近でお茶をすることにした。


 この辺りの店は慰問袋を売るお店や被服のお店になっていて、飲食店というような店は無くなっている。

 政令で飲食店の営業の一時停止が余儀なくされているから当たり前なのだが、そんな中一店舗だけ純喫茶と呼ばれるお店がやっていて、そこに入ってみる事になった。


 少し洋風な佇まいの扉を開けると、 店内は薄暗く、ふんわりと芋の香りがする。


 店主によると珈琲は輸入品だから配給制で、最近はその配給すらも無くなったと言う。今は焼き芋を原料としたりタンポポなどの根を乾煎りして作っているそうだ。


「うちくらいですよ、営業してるのは」

 店主はそんな風に言って笑っていた。


 シックなブラウンを基調とした店内で、外の光もあまり入らないから時計を見ていないと時間感覚がわからなくなりそうだ。

 けれどもそれは、なんとなく現実を忘れさせてくれるような気がして心地良い。


 少し高くなった丸いテーブルと丸い椅子に座って、少し焦げ臭い、麦茶のような香りと味のするタンポポの珈琲を飲んだ。


 薄暗い所で見る櫻井はなんだか一層大人っぽくて、いつもは恥ずかしくてじっと見れないのだが、暗いことをいいことにみつきは櫻井を見つめた。


(転勤のこと、言ってくれないんだ……)


 そんな思いもぶわっと込み上げて、切なくなってくる。婚約を破棄した──というあの日記で、何故破棄したのかというところまで目を通す事ができなかったのも、切なくなる原因の一つだった。


「転勤しちゃうってどうして教えてくれなかったんですか?」


 みつきが思い切って言うと、櫻井は驚いたような顔をして

「知ってたのか」

と言った。


「糸井さんから聞きました」

 櫻井はああ、という顔をしたが、何も言わなかった。


 再びみつきは

「どこに行っちゃうんですか」

と言うと、櫻井はあまり言いたくなさそうな顔をして

七二一空(ななふたひとくう)──鹿屋に行く」

と言った。


(か、鹿児島……!?)


 関東ですらない、遥か九州の末端を言われてみつきは動揺を隠せなかった。


「もう二度と会えないとかないですよね、また会えますよね?」

 縋るような気持ちでみつきが言うと、櫻井はわからないという顔をした。


「そんなの……」

 みつきは泣きそうになるのを堪えた。


「今度の航空隊は、俺も生きて帰れるかわからない」


 そう言って櫻井は珈琲を飲んだ。今度の航空隊は特攻機直援らしく──敵空母ギリギリまで接近する。


「敵と相討ちになる覚悟で、特攻機を守らなきゃいけない。俺が死んでも──特攻機だけは絶対に墜とさせない」

 

 真剣な眼をして櫻井は言う。そしてふと、目付きが柔らかくなった。


「別に隠すつもりはなかった。ただ──」


 櫻井は一呼吸おいて、

「言ってしまったら、また会う約束をしてしまいそうだったから」

と静かに言った。


「え?」


「きっと、敵機なんてどうでもよくなるくらいに俺もまた、会いたくなる」


 透き通った声でそんな事を言われた時、まるで辺りの時間が止まったかのようにゆっくり見えた。

 なんだかとても嬉しい事を言われたような気がして胸の中が急に熱くなってくる。櫻井の眼が優しくて──思わずそれに飲み込まれそうになった。

 

「俺は軍人と言っているけども、所詮予備役だから父のような職業軍人じゃない。日本を変えるだとか、大層な事は出来ないが、俺はこの戦争から日本という國と民族をただ守りたい。だからこの期に及んで生きて戻るなど──言うつもりはないんだ」


 みつきの熱かった胸が急にストンと何か冷たくなって、一瞬何を言われているのかよくわからなかった。


 暫く沈黙が続き、ようやく何を言われたのか理解できるようになってきて、櫻井の死に対する決意が固い事、もう二度と会えないかもしれないという事が現実になるんだとみつきは思った。


 みつきの目から涙がぽとりと落ちた。落ちた涙はテーブルに丸い形のガラスの欠片のようにキラキラと光っている。


 声を出さずとも声が震える感覚がして、みつきは今声を発したらきっと、感情が(せき)を切ると思った。


(そんなの嫌だ、嫌だ!)

 我儘でしかない事を承知している。けれども、みつきはそう心で叫ばずにいられなかった。


「いやだ、私は……櫻井さんに会いたい。生きて、生きて、生きて欲しい。だって私は……櫻井さんが……」


 そこまで言って、みつきは言葉が出なかった。負担になるんじゃないかって、思ったからだ。

 好きならこの人を応援してあげるのが本当の愛なんじゃないのか──みつきはそう自分を無理矢理納得させて涙を飲み込んだ。


「特攻機を……守り抜いてください」

ようやく捻り出した声でそう言うと、櫻井は少し微笑んでうん、と頷いた。

官吏:国家公務員の通称のこと。天皇の大権に基づき任官され国務に就いた高等官と判任官。


櫻井は将来的にどこの省の大臣になりたかったんでしょうね。

いや、伯母は何省になって欲しかったんでしょうか。


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