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突然もらった休暇、櫻井に下った辞令

 ひな祭りの時期も過ぎ──いや、そもそも桃の節句というおめでたい日なんてあったかどうかさえもわからない。この時期はいつ起こるかわからない空襲に皆、神経を尖らせていた。


 警戒警報自体は何度か発令されているが三〇二空では哨戒機を飛ばす事に消極的だった。

 というのも、二月中下旬の連日の空襲により、東格納庫は鉄骨だけの廃墟になり、地上燃料タンクも全てぶち壊されて、地下に貯蔵している燃料が最後となるところまできていたからである。


 けれども、ちょうどひな祭りが過ぎたあたりから、毎日あった空襲警報がぴたりと止んだ。

 それは嵐の前の静けさといったものに似ている。しかしそれに気付いている者は誰もいなかった。


 ──そう、未来から来たはずのみつきでさえも。 




 

 ある日、みつきは朝から飛行班用の携帯工具箱を開けて、やろうやろうと思って先延ばしにしていた工具の手入れを始めた。


「これは数日かかるわね」


 倉庫から持ってきた工具管理台帳によると、結構な数の工具の手入れをしなければならないらしい。


 整備科で主に使われている工具は、京都機械と壺三鑢(ツボサンやすり)という会社の工具なのだが、それは現代の物と遜色ない使い心地でみつきは結構気に入っていた。


 特に京都機械の工具は、栄や熱田エンジン等の専用工具として作られた特注品であるため、特別に良い素材で作られているのだとか。


 その良い素材というのはニッケルクロムバナジウムなのであるが──現代では当たり前に使われている素材が、この時代では結構貴重であるらしいのを、誰かが倉庫に放置していた霞ヶ浦海軍航空隊と書かれた整備学生教程の教科書で知った。


「めがねレンチの錆が結構しぶといなー」


 そんな事をぶつぶつと言いながら、ヤスリで削ったりオイルに浸したりしていると、

「おい白河! いるか!」

 大きな声を上げてずかずかとみつきの所へやってきたのは整備分隊長の田万川だ。


 ヤスリやらたわしやらオイルやらで錆をガシガシ削っていて手が離せないと言うのに──そんな風に思っていると、田万川は呆れた様子で言った。


「なんだ嫌そうな顔をして。せっかく休暇をやろうと言うのに嫌なのか?」

「えっ、休暇ですか!?」


 田万川はやれやれといった様子で、

「しばらくは零戦も雷電も動かさない。彗星も機体は温存する方針だ。搭乗員も休暇が出ているし、飛行班の仕事は少し落ち着くだろう。そんなわけで、正月からずっと働き詰めだろう貴様に休暇をやろうというわけだ」

と腕を組んで言うが──みつきにとってはあまり嬉しくない報告であった。


 やっと工具箱を広げて工具を手入れできる時間が持てたというのに──みつきは、油まみれの軍手を外して、傍に置いておいた工具管理台帳を開いて田万川に見せた。


「お言葉ですが、手入れをしなければならない工具が四二五本あります。うち、交換対象のレンチが七十本あり──」

 みつきが言い終わる前に、田万川は怪訝な顔をして

「白河……そんなに仕事がしたいのか?」

と大きく溜息をついて

「そんなもん槙野一整曹にでもやらせとけ! いいから今日から三日間の休暇だ!」

と、虫の居所が悪いのか何なのか──髪の毛が逆立つくらいに声を荒らげて、油まみれのままのみつきを追い出したのだった。


「ちょっと、そこまで怒ることないのに!」


 みつきと田万川のやりとりの一部始終を見ていた整備員の槙野が、

「田万川整備分隊長も、人間の管理をしなきゃならないし色々立場とかしがらみがあるんですよ、きっと」

と、若いのに何か悟りを開いたような事を言っていた。


「分隊長からご指名いただきましたので、後は私がやっておきます」

 槙野がそう言って、みつきの持っていた管理台帳を取った。


(三日間の休暇かぁ──)


 突然休暇と言われても、することがない。みつきはとりあえず荷物をまとめて下宿に帰ることにした。


 ここのところ指揮所を出入りする搭乗員が少ないと思っていたら、どうやら彼らもまた、数日間の休暇が与えられているようだ。


 すれ違った搭乗員が

「休暇貰っても、休む気になれないよな」

「いつまた空襲が来るかわからないのに」

と言っているのが聞こえた。


 燃料を温存する為とはいえ、休暇を与えられるのは搭乗員にとっても不本意なようだった。


 隊門まで行く途中、格納庫の脇にある犬小屋の前で、犬と戯れながら数人の搭乗員が談笑していた。

 そのうちの搭乗員がちらりとこちらを見て

「あ、白河さん」

と、みつきを呼び止めた。よく見ると声をかけてきた人物は第三分隊の糸井。


 糸井はみつきを呼び止めるなりこちらに駆け寄ってきて

「なあ、今度櫻井の送別会やるんだけど……そうだ。君もくる?」

と切り出した。


「送別会?」

「そう。あいつ──転勤するんだよ」



***



 ──口から心臓が出てくるんじゃないかと思うくらいに胸がどきどきしている。

 みつきは早足で下宿に帰ると、自室に駆け上がった。


(櫻井さんが転勤なんて……)

 

 いつ行ってしまうんだろう、いつ決まったんだろう、どこへ行くんだろう──そんな気持ちがぐるぐるして、みつきは具合が悪くなった。


 みつきは持ってきた荷物を無造作に投げて、こっそりと櫻井の部屋の襖を開けた。隣の部屋とは壁ではなく、襖で仕切られている。


 まだ部屋には私物が残っていて、まだここに住んでいるようだった。

 真新しいシャツや最近使っていたであろう手帳等が置いてあって、最近帰ってきた形跡があった。


 ふわっと香る櫻井の服の匂いが心地よくて、思わず中に入ると、すっきりと片付けられた部屋の隅に真っ黒に血で汚れた草緑色の海軍略帽と、ズボンとネクタイ、靴下などが無造作に置かれていてぎょっとした。


(これはあの時の──)


 血は広範囲に渡って汚れていて、ズボンに至っては上から血が大量に流れたような痕跡と、また略帽には血飛沫がついていて、櫻井の負った銃弾が如何に酷く激しいものだったのかを物語っている。上衣は捨ててしまっているのか──見当たらなかった。


 そしてその衣類の上には櫻井の黒い表紙の手帳があって、みつきは思わずそれに触れた。


 その手帳は表紙部分がクタクタになっていてかなり使い込まれているようだった。ノートの部分が少し生成色の和紙のようになっていて、少し血が染み込んでいるが、最近まで使っていたらしく、新しいページには

『三月十三日──七二一空 轉屬(てんぞく)

と殴り書きされていた。


(これが次に行く日にちと、航空隊なのかな)


 悪いと思いながらもみつきは最初のページを開いた。


(す、すごい)


 櫻井の文字が二十代とは思えない程の美しい字で息を呑んだ。

 こうして改めて櫻井の文字をみるのは初めてだったが、自分の下手くそな丸文字が凄く恥ずかしくなるほど。


 櫻井の文字は草書体の時と楷書体の時があり、難しくても読もうと思えば読めた。


 ここでは楷書体で、何かの計算式とグラフ──いや、よく見ると揚力を求める公式とグラフ、クッタ・ジューコフスキーの定理、ベルヌーイの定理などの航空力学に関する事が書いてあって、流石だと思った。

 

 それからパラパラと捲ると、去年の日付で撃墜数等のメモ書き、飛行作業内容や気象情報等も細かくびっしりと書かれてる中に、ちょっとした日記が書かれているのを見つけた。


『伯母が緣談を持ってきた。とり敢えず今は一旦受けようかと思うが、あまり氣乘りしない。海軍に入った今、海軍が俺の居場所であり死に場所だと思う。やはり父の血がそうさせるのか、俺は櫻井の名を繼ぐ。遠野家には戾らない』


 みつきは思わずそこで目を止めた。

(櫻井の名……? 父の血? 遠野家って一体何?)


  初めて見る情報に混乱して、何が何だかわからない。みつきは食い入るように日記を読んだ。


『昭和十九年十一月──三篠(みすず)夏子との婚約を破毀(はき)する事に決めた。今まで世話に成った分として手切れ金を(はら)って、伯母の遠野家とは緣を切るつもりでいる。俺には、他に』


 そこまで読んだところで階下から足音が聞こえて、みつきは慌てて手帳を戻し自室に戻って襖をぴしゃりと閉じた。


 その足音は階上まで来て、隣の部屋──櫻井の部屋の中に入っていって、大きな荷物を畳にどさりと置く音が聞こえた。


(櫻井さんが帰ってきた?)


 みつきは腰を下ろし、襖に耳をくっつけてその物音を聞いていると、洋服の擦れる音と一緒に何か小物を鞄に詰めているような音が聞こえる。荷造りしているんだとみつきは思った。


 そこでみつきはふと、自分の部屋にかかっていたカレンダーを見た。今日は三月八日──櫻井が転勤するまであと一週間。


(ど、どうにかしなきゃ……!)


「さ……櫻井さん!」


 襖の向こうから

「──みつき? いるのか?」

と、声が返ってきてみつきはハッとした。


(しまった、声をかけてしまった……!)


 どうにかしなきゃと思って声をかけたが、何をどうするつもりだったのか──自分でもわからないまま気付いたら襖の向こうの櫻井に声をかけていた。

 あたふたしていると心の準備ができないまま襖がガラリと開いた。


 恐る恐る上を見ると、草緑色の軍服を着た櫻井と目が合って、みつきは固まった。

 

「あ……こ、こんにちは……あはは」

と作り笑いをして取り繕っていると

「何だ? 変なやつだな」

気持ち悪い、とでも言いたげな表情をした。

 その時、みつきは櫻井の髪が短く整えられている事に気づいて思わず

「髪、切りました?」

と言うと、櫻井は

「ああ、今日切ってきた」

と言ってすっきりした髪に手を触れた。櫻井の目にかかるくらい長かった前髪も、肩につきそうだった襟足もすっかり短くなっていて、育ちの良さそうな顔立ちをいっそう引き立たせていた。


「今日お休みですか?」

「二日前から五日、休みをもらっている」


「そう……なんですね」

 そんな風に言ったきり、みつきは言葉が続けられず黙り込んだ。すると、櫻井が襖を閉めようとするので

「待ってください」

と言ってみつきはその手を止めた。


「よかったら私と……東京に行ってくれませんか」


櫻井の日記は読みにくさ回避のため現代仮名遣いにしています


〈小話〉

・京都機械→戦後は京都機械工具〈KTC〉

・壺三鑢→戦後はツボサン

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