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振り回される、嫌な海軍の伝統

 三月一日──ストーブが控えめについた士官宿舎では、早朝から櫻井を含めた水地、当麻、糸井──その他の十三期予備学生の搭乗員が、正装に着替えていた。


「櫻井中尉、剣帯を」

「いや、自分でやる」


 従兵が剣帯を櫻井の腰につけようとしたところで、櫻井はそれを取って腰に身につけると、新しい中尉の襟章と袖章のついた濃紺の一種上衣に袖を通した。


「もういいよ、新しいシャツをありがとう」


 櫻井は、ダブルカフスのボタンを留めながら、従兵に部屋を出るよう促した。


 従兵が頭を下げて部屋から出て行ったのを見届けると

「一昨日、口頭で昇任するとは言われてはいたけど──正式な電報が届くのが昨日の夜、とはね」

と、昨夜従兵が持ってきた電報の紙に視線を移して言った。


「本当、名刺刷ったり襟章やら袖章やら……俺達は色々準備しなきゃいけないんだから、こういうのやめて欲しいよね」


 同室の当麻が白手袋をはめながら苦笑した。


「お陰様で昨日慌てて上衣を買うはめになった。名刺は間に合わないし、ろくなことがない」


 当麻の上衣は新たに仕立てたわけではなく在庫品であるらしい。当麻は着心地が悪いのか何度も裾を鏡の前で直した。


 そんな櫻井の上衣も、従兵に夏用の白の二種の上衣を渡して、似たような寸法のものを急遽買ってきてもらったものだし、新しいシャツも今朝やっと従兵が届けてきてくれたものだ。


 まあ、正直服を買わなくとも袖章と襟章を縫うだけといえばそれまでなのだが、買うよりも時間がかかるので買ってしまうのが手っ取り早い。


 ──そう、今日は昇任申し渡しの式が行われる。


 口頭で三日前に何となく言われ、その上正式な昇任の通達は突然昨夜電報で届いたものだから、昇任予定者はとにかく慌ただしかった。


「まあ、突然予定を告げられるなんて今に始まった事じゃない。今から厚木行け、って言われた時よりはマシだけど」

 水地も、中尉の袖章のついた上衣に袖を通しながら言う。


 すると、当麻が

「言われた? 俺も前そうだった!」

と水地の横に駆け寄り、水地と「だよな!?」と顔を合わせて笑った。


 そんな二人を見ながら櫻井は

「突然告知されるのはある意味海軍の伝統なのかもな。きっとこの先もずっとこうだぞ」

と言うと

「嫌な伝統だ」

と、水地がやれやれといった様子で、整えたばかりの眉を潜めながら首を傾げた。



***



 三月といえどまだ冷える寒空の下で、小園司令の訓示と昇任者宣誓を終えて昇任申し渡しの式が終わった。


 そして、まるでそのついでのように、

「急ではあるが、蓮水昭人少尉が第三〇二海軍航空隊より退隊される事となった! 総員、見送りの位置につけ!」

と、突然号令がかかり、総員で真ん中をあけるように列を作った。


 既に大きなトランクを引っ提げて待機していた蓮水がそこを歩いていく。


「総員帽振れ!」

の号令がかかる。そして全員が軍帽の鍔を右手で持ち、ゆっくりと三回頭上で回した。


 そして、

「帽元へ!」

の合図で総員軍帽を戻した。


 蓮水はそれに答礼し、中程まで進んだところでトランクを地面に置いて

「櫻井!」

と、叫んで櫻井のいる列へと割り込んで行った。

 全員の視線が蓮水と櫻井へと集中するのを気にもせず、蓮水は櫻井の前へ立った。


 櫻井は蓮水が言い出すのを待っていると、

「俺、転属することになった。今日から」

と、蓮水が参ったような顔で言うので、櫻井は思わず吹き出した。


「突然の事で驚いた。随分急だな」

「ああ。だって、昨日の夜に昇任の電報と共に異動の電報が届いたからな。昇任といい、転勤といい──全く急すぎて目まぐるしい」


(こいつもなかなか災難だな)

 こんなところでも、無茶苦茶な海軍の伝統に被害を受ける者がいるなんて──と、口角を下げて眉を顰める蓮水に同情した。


「で、次はどこだ?」

「第一国分基地だ。七〇一空へ行く」


 七〇一空──山陰、四国、九州を中心に展開した各航空隊で編成された第五航空艦隊に属している。

 第五航空艦隊は、艦船や機動部隊に積極攻撃や邀撃、特攻を行う部隊で、残存戦力を総結集して二月十日に編成された。

 迫る沖縄決戦に備えた日本海軍の総力を挙げての布陣である。


「甲戦(  ※)か──蓮水、貴様に務まるのか?」


 櫻井は少し意地悪に言ってみせた。決してそれは嫌味などではなく──言葉とは裏腹に少し優しげな表情をした櫻井の意図は、蓮水を少し心遣ってのこと。

 でも、そんな櫻井の心配は杞憂だった。


「いや、務めてみせる。沖縄を守る。そして──特攻機を全力で守る。特攻を必ず成功させる為に」


 そして、一呼吸置いて蓮水は櫻井を真っ直ぐに見た。蓮水の何かを憂うような表情も、後悔も──櫻井には何も汲み取れなかった。


「櫻井、俺は全身全霊を懸けて守ると誓うよ」


 櫻井が汲み取れたのは──そう語った蓮水の眼に迷いは無い事だけ。


 日本海軍の最後の総戦力をもって編成された第五航空艦隊は、まさに背水の陣であり、これに敗れれば──待つのは本土決戦のみ。


「もし俺が特攻(いく)時は、貴様が全力で守れよな」


 上目遣いで少し強気に言う蓮水に、櫻井が

「当たり前だろ」

と言うと、蓮水は照れたように笑って櫻井の腕を小突いた。


 直掩機として守った次は、直掩機に守られて特攻に行くなんて事があるかもしれない。


 もう、進むべき道は決まったとでも言うかのように

「櫻井、ありがとう」

と言って、蓮水は櫻井の手をがっしりと握ってゆっくりと手を離した。恐らくもう二度と会う事は無いだろう──そんな風に言いたげな表情をして。


「お元気で」


 寂しさを瞳の奥に閉ざして真っ直ぐに言う蓮水に、櫻井はほんの少し微笑んだ。


「──ああ」


 蓮水も少し微笑んで頷くと、櫻井に背を向けて列を抜けていく。櫻井は蓮水が隊門を抜けるまでその後ろ姿を見ていた。


※甲戦隊――制空戦闘機で編成された戦闘機隊。

 櫻井、当麻は丙戦(夜間戦闘機)にあたる。

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