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みつきの甘いお茶

 二月十九日──日本への航空兵力及び補給が無いまま、米海兵隊第三師団約七万人が硫黄島へ上陸した。


 敵空母、戦艦軍群を合わせると、総兵力は百万人──日本軍にとってこれ以上為す術もなく、ただ、出来ることは肉弾戦で硫黄島を一日でも長く保持する事だけ。


 参謀本部も軍令部も為す術もなく、硫黄島の日本人は一人残らず死ぬんじゃないか──そう思ってはいても、誰も口にはしなかった。


 米海兵隊第三師団による硫黄島上陸作戦に呼応するかのように、過去最多のB-29百五十機を、八丈島の陸軍レーダーが捕捉した。


 彼らの第一目標は、中島飛行機・武蔵製作所──浜名湖上空から東北東へ進んでいく。


 三〇二空では、八丈島レーダーの連絡から数分後の午後一時半過ぎに、出動を開始した。


 動き出したのは、『銀河』二機と、『月光』十二機、『彗星』五機。


 当麻・水杜ペアは搭乗割に入っており、その他の搭乗員と厚木基地を離陸するためのブリーフィングが行われている。

 彗星夜戦隊は御前崎から東京空域に展開するようだ。


 なお、この出動には雷電隊、零戦隊、零夜戦隊は加わらなかった。


 この二日間の艦上戦闘機邀撃戦で中破した雷電、零戦が多く、厚木基地の地下修理工場に殆どの機体が送られたというのと、零夜戦隊の指揮官が結局不在のためである事が主な理由である。

 


 飛行班として整備をしているみつきは、厚木の地下修理工場へと出向いて修理をしたかったのだが、突然田万川に「彗星に行け」と言われて、彗星の飛行班に入れられた。


 今日は彗星のエンジンの調子がいい。

 昨夜、何機かの熱田エンジンのローラーベアリングを交換しておいたのだが、大正解だった。

 これは、エンジンが起こすピストンの動きをクランクシャフトに伝え、回転運動に変換する重要なパーツで、現在これの凹凸の精密さが悪く、よく不具合を起こす。


 日本の基礎工業力の不足が原因な為に、これ以上どう整備を頑張ろうと成すすべがないのだが。


 それにしても、厚木の雷電、零戦の大半が飛べなくなってしまったということは、みつきに大きな衝撃を受けさせた。

 その時に思い出したのは──もうすぐ敗けるんだということ。


 守ってくれる人達をどうにかして支えていきたいと覚悟を決めたはずなのに、今更になって自信が無くなってきてしまった。


 みつきはちらりと辺りを見回した。


 皆の表情を見る限りきっと、向かう方向は誰もがきっと気付いている。彗星に乗り込む搭乗員達の背中を見ながら、私は何をするためにこの時代に来たんだろう──と思った。


(歴史を変えるため? それとも……何なんだろう)

 

 例え自分のおかげで彗星や零戦の可動数が少しだけ多くなっても、ただ少し遠回りして──いや、遠回りもしないかもしれない、ただ()()()を史実通りに迎えるだけだ。


 みつきはそんな事を思いながら、飛行前点検をして操縦席の水杜に整備よろしいの合図をすると、水杜の笑顔が帰ってきて思わずみつきの顔も綻んだ。


 そうだ、この人たちの笑顔を一人でも守りたいと思ったんだっけ──


 飛び立つ彗星を見送った後、みつきは格納庫に戻り、エンジンのオイリング作業をしていると「おい」と、再び田万川がやってきた。


「零夜戦隊が荒れてるから女にどうにかしてもらいたいらしいと、水地分隊士と糸井分隊士がわざわざ俺に頼みに来た」


 みつきが、えっという顔をすると

「女とは貴様のことだ!」

と指を差されてハッとした。


(零夜戦隊が荒れてる?)


「女の力を借りて和ませるなんて俺は出来んと思うが──まあ、いい水差しにはなるだろ。搭乗員が荒れるのは整備員(おれたち)も困るからな、オイリングの続きは槙野一整曹にやらせておくから行ってこい」





 一方、今日も指揮所で待機するしかない零夜戦隊は、第二飛行隊指揮所で時間を持て余していた。空気は無論──ピリピリしている。


 足を揺すっていたり、忙しなく手を動かしてみたり、外をウロウロしてみたり、談笑も談笑ではなく、まるでお互いに張った薄い膜を破らないように──もし破れたら何かが起きてしまうかのような、そんな危うさがあった。


 各分隊から送られてくる電信によると、視界不良のために中島飛行機・武蔵製作所から指標を変え、東京市街地へ向かっている事がわかった。


 東京市街地はB-29による投弾を受け、神田区、板橋区、葛飾区や渋谷区等の市街地では死者が既に多く出ているらしいという情報だけは上がってくるのに、三〇二空の戦果が一向に上がってこない。


 搭乗員達のイライラは、いつ爆発してもおかしくない──といったところだ。


「俺は、この先の日本がどうなるのか考えるのが怖い」


 緊迫した空気の中で、ぽつりと呟いたのは三種服姿でストーブの前で俯いている蓮水少尉だった。


 辺りの空気がぴたりと止まり、シンとした室内に沈黙が暫く流れているのをようやく感じ取ったのか、蓮水は戸惑いながら顔を上げた。


「おい、貴様らは怖くないのか? 硫黄島の事を聞いたろ! このままだと、日本はいよいよ終わりだぞ」


 怯えるように言う蓮水に、櫻井が冷静かつ淡々とした表情でその空気を破った。


「だったらどうだと言うんだ? 今日、明日の事を考える方がよっぽど建設的だろ」


 櫻井は腕を組んで、冷酷な眼を蓮水に向けている。

 伸びた髪を邪魔そうにかきわけるだけで、表情は一つも変えないまま。


 全視線が櫻井に注がれ、触れてはいけないものに触れてしまったかのような──そんな空気の中で、蓮水が

「櫻井、よくもまあ淡々と……。随分他人事でいられるんだな! 貴様どうかしてるぞ!」

と声を荒らげ、蓮水が櫻井に掴みかかろうとしたその時──


「どうかしてなかったら戦闘機乗りなんてやってられるかよ!」


 あの冷静なはずの櫻井が、掴みかかろうとする蓮水を床に押し倒したと思ったら、横たわる蓮水の胸ぐらを思い切り掴んで持ち上げ、今度は壁へ突き飛ばした。蓮水は思い切り壁と椅子に背中を打ち付けられて、辺りに激しい音と共に机に積み上げられていた帳面(ノート)が蓮水の上にバタバタと落ちてきた。


「おい、櫻井!」

 傍にいた数人の搭乗員が櫻井の腕を掴んで止めに入るが、櫻井はそれを押しのける。


「もうどうにもならないことなんてとうの昔から知っている! 嘆いだら戦争が終わるのか? 勝てるのか? ああ!?」


 櫻井の怒鳴り声が第二飛行隊の指揮所の中に響く。どちらの気持ちも分かるために誰も口を挟む者はおらず、それを皆は黙って見ているだけ。


「俺達にはどう足掻いても戦争を終わらせる権限はないし、軍令部に従う他ない。だったら、一人でも多くの國民を守る為に、全身全霊をかけて最後の最後まで戦うのが俺達の役目じゃないのか!」


 櫻井がこんなに怒ったのを見るのは彼らは初めてだった。いつも冷静沈着で、どちらかと言えば口数は少なめで──そんな彼がぷつりと何かが切れたかのように蓮水に掴みかかるとは誰もが思いもしなかっただろう。


 それだけ、責任と覚悟を持って海軍にいる証拠。

 

「貴様は海軍戦闘機隊に向いてない! やめてしまえ!」


 櫻井が蓮水に殴りかかろうとした時──


「やめてください!」


 ぴたりと櫻井の手が止まった。振り向くと、気まずそうな表情で入口に立っているのはみつきだった。手にはお盆と数人分のお茶と──後ろには水地と糸井、そして春日井が同じようにお茶を持っている。


「み、みつき?」


 驚いた声とキョトンとした表情をしながら櫻井が言うと、

「零夜戦隊が荒れてるって聞いて、慌てて来たんです」

と言って、お盆を手近な机に乗せた。

 後ろに立っていた水地、糸井が櫻井に目配せをして、櫻井は二人がみつきを呼んだのだとわかった。


「同じ戦う仲間なのに……こんなことで喧嘩って嫌です。本当は皆、思うことは同じで、目標は同じはずなんだから……」


 そう言いながらみつきは淹れたお茶を搭乗員に差し出していく。転げたままの蓮水がわあっと泣き出して、櫻井は少し言いすぎた、と思った。


「日本が例え辛く困難な状況になっても、必ずあなた達が命を懸けて守ったという事実は未来に繋って、未来の私達が感謝しています。未来の日本はあなた達がいなかったら成しえなかった事なんですよ!」


 まるで自分が見てきたかのように言うみつきに一瞬不思議に思いながらも、そんな事なんてどうでも良くなるくらい──そう、自分達が救われたような気がして、搭乗員達は思わず涙を流した。


 みつきは、櫻井にお茶を手渡して言った。

「櫻井さん。蓮水さんの事、もうこれ以上は言わないであげて」


 櫻井は、戸惑いを覚えながらみつきに言われるまま頷いた。戸惑い──単なる戸惑いではない。それは、みつきの不思議な力になんだか戸惑いを覚えている。


 なんだか、本当は全てを知っているんじゃないか、自分達を救うためにいるんじゃないか──とか、そんな事を考えてしまうくらいに。


「わ、なんだこのお茶! いや、お茶なのか?」


 搭乗員の一人がお茶を飲むなり叫んだ。


「私の特別ブレンドですよ──なーんて言っても、麦茶にお砂糖入れただけなんですけど、お口に合いませんでしたか?」

「いや、面白いよ、美味しい!」

「うわ、本当だ! 美味しい!」

「いつか飲んだ、英国の紅茶みたいだ!」


 一気に指揮所はざわついて、甘い麦茶の話題で持ちきりになった。麦茶の香ばしさと砂糖の甘さが不思議と合うもので、少し贅沢な香りの強い紅茶を飲んでいるかのようだ。


 櫻井は、転げたまま肩を震わせて泣いている蓮水の肩を抱え上げて、無理矢理みつきのお茶を飲ませた。


「蓮水、嘆いでばかりでは何も守れない。いつか迎えるその日まで──何があってもまずは、一番身近な人を守れるようにしよう」


 櫻井は身近な人──みつきに目をやりながら言うと、蓮水は腕で乱暴に涙を拭きながら頷いた。


 甘いお茶のおかげなのかみつきのおかげなのか──少しピリピリした雰囲気が晴れたようだ。


 櫻井は手近な椅子に蓮水を座らせると、

「なあ、みつき」

と、みつきの横顔に声をかけた。


 こちらを向いたみつきの顔に、櫻井は安心感を覚えた。彼女の姿はいつからか、いつもふわりと胸の中を暖かく──占めるのだ。


(当麻もいつもこんな気持ちなのだろうか)


 そんな風に思いながら、

「ごめん。そして……ありがとう」

と言って櫻井は申し訳ないという顔をすると、みつきはにこりと微笑んだ。

 その笑顔はやはり、胸の奥から広がるように暖かく感じた。


──白状しちゃえばいいのに

 そう言う当麻の姿が思い出されて、

「白状かあ」

と口走ったが、なんだかそれが妙に笑えてきて

(それは嫌だな)

もう少し当麻をからかって遊びたい──なんて、意地悪な事を考えた。


(夏子との婚約破棄の理由も白状させたいんだろうな)

 

「それも嫌だな」

 なんて独り言を言いながら、櫻井はみつきの甘いお茶を一口飲んだ。

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