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指揮官不在の零夜戦隊 一

 午後四時──毛布の様に分厚い雲が空一面を覆った頃、敵艦載機は概ね引き上げていった。


 神奈川県を含めた東京近郊は、やがて細かな雪がチラチラと舞い始め、冷たく乾いていた空気が湿り気を帯び、暖かくなった。


 午後四時までに来襲した敵艦載機は九〇〇を超え、邀撃を行った陸軍第十飛行団が撃墜六十七機、海軍第三航空艦隊(二五二空・六〇一空・二一〇空)が撃墜五十五機、横須賀空が二十二機、三〇二空は十三機という戦果を挙げたが、総合的に見て日本側の敗北は歴然だった。


 月光隊、彗星夜戦隊、銀河隊は航空機の特性上内陸の陸軍飛行場へ退避している為、三〇二空の主力は第一飛行隊の雷電・零戦隊のごく僅かな機体と、零夜戦隊の合計三十六機のみ。

 しかも、雷電隊は第一邀撃のみ参加し、第二、第三邀撃と出撃したのは零夜戦隊の十六機だけ。


 それにも関わらず、対戦闘機戦未経験者のみで構成された零夜戦隊はF6F撃墜七機、撃破二機という戦績を挙げており、部隊として喜ばしい事のはずなのに──搭乗員の顔には笑顔は無く、光を遮るような分厚い雲と、示し合わせたかのように降り始めた雪の様に暗く、冷たい。


 灯火管制の薄暗い食堂に、一階級進級した『荒木俊士少佐』と札が立てられ、荒木の従兵が丁寧に畳まれた荒木の軍服を札の後ろに置いた。


 それを、櫻井を含めた零夜戦隊の搭乗員達がじっと見ている。


──誰も、一言も発さずに。


 深々とした食堂に零夜戦隊の十三期予備学生の名前がまた一人、また一人と札が立てられていくのを櫻井はじっと見ていた。

 やがて遺品の置かれた札の前に蝋燭の火が灯り、荒木俊士少佐、春原梢中尉(殉職の為一階級特進)陸奥和成中尉と書かれた三人の名前がはっきりと照らされた。


 ふと人の気配を感じて振り向けば、海軍病院で入院していた水地透が、ドアの入口で闇に融けるような濃紺の軍服を着て気まずそうな顔をして立っている。


 退院したのか──櫻井がそう声を掛ける前に水地が

退院したんだ、と静かに言った。


「荒木分隊長の事は、残念だ」


 そう言って床を見つめる水地に、櫻井は一言も発しなかった。


 人の死には慣れている──というわけではないが、職業柄いつもそれなりに覚悟していた。というより、飛行機乗りである以上死は誰にでも起こりうるものであり、当然の事だと受け入れている。

 軍人として生きるなら、軍人として國の為──天皇陛下や日本國民を守る為に死ねる事は誇りだ。


 けれども、尊敬していた上官、そして二人の同期を同時に失った今、自分を慰める言葉が見つからないでいる。


 荒木俊士大尉──彼は空のヤクザとも揶揄される飛行機乗りには珍しく、のんびりした性格の持ち主だった。しかし行動力は人一倍あったから、三〇二空に配属になったばかりの櫻井を真っ先に「零夜戦隊に入れる」と言って譲らなかった。

 そして、櫻井に夜間飛行・夜間戦闘の基礎を叩き込んだのも荒木だ。


 十代後半〜二十代前半の若者が大半を占める零夜戦隊で、年長者でありながらも配偶者のいなかった荒木は、海軍関係者から縁談を持ち込まれる度に「空で死にたいから」と、断っていたのは有名な話。



「格納庫に墜落した荒木分隊長の頭蓋骨に、十二・七ミリの貫通痕があったそうだな。そんな中、藤沢基地まで自力で飛んだのは凄いよ」


 水地が、瞳に映る蝋燭の火をゆらゆらと揺らしながらこちらの様子を伺うように言うのを、櫻井は目だけを動かして

「そうだな」

と、一言だけ言った。


 零夜戦隊のナンバーツーである森岡の左手首損傷に続き、ナンバーワンである荒木の死。

 たった二十数名しかいなかった零夜戦隊は、遂に上官を失った。これでまともに作戦可能な搭乗員は櫻井を含めて五人となり、ほぼ戦闘機隊としての機能は失われたも同然。


 櫛の歯がこぼれていくように──という言葉は、良く言ったものだと櫻井は思った。



 こんな事を、ここにいる誰もが思っていたに違いない。



──日本はもう駄目だ、と。



***



 チラチラと舞っていた雪は次第に水分を含んだ重い塊となって、厚木基地に真っ白な絨毯を敷き詰める。

 そんな冷たい空が泣く夜に、遺体無きまま通夜はしめやかに執り行われた。

 

 零夜戦隊整備員の一員として参列していたみつきは、焼香を終えた後、外に出て降り積もっていく雪を眺めていた。

 雪を見ていると悲しみが少し和らぐような気がして、みつきはうっすらと明るく赤みを帯びた空を見上げた。

 舞い落ちる雪に手を伸ばすと、手のひらの体温で雪はすぐに消えた。

 真っ白になった息はしばらく消えないのに、不思議と寒さはあまり感じない。


──こんな時に俺が行かなくてどうすんだよ。何かあったら、そん時はそん時だ


「あの時、なにがなんでも引き止めておけば良かった……」


 我慢していた涙が溢れて喉の奥が痛くなった。

 引き止めておけば、カウリングを外して邀撃に上がる事を許可していなければ──後悔はとめどなく涙と共に溢れ、みつきは思わず唇を噛んだ。


「あの……白河さん」


 はっと振り返ると、学ランを彷彿とさせる濃紺に金ボタンの軍服に身を包んだ入江准が、黒い傘を真っ白にさせて、こちらの様子を伺うような目をして立っていた。

 

 入江はゆっくりと近付き傘にみつきを入れると、ポケットから出したハンカチでみつきの髪や肩に積もった雪を払う。みつきも慌てて入江の軍服についた雪も払った。


 すると入江が白金カイロを出して、

「また熱を出したら、大変ですから」


 これで暖を取れ、とみつきに差し出した。


「ありがとう……ございます」


 森岡と水地を見舞った際に高熱を出した事を思い出して、みつきは申し訳ない、と思った。

 みつきはカイロを両手で握りながら手に息を吐くと、感覚が無くなった手にじんわりと感覚が戻ってきた。


「何故入江さんはここに?」


「俺も……雪を見に来たんです」


 そう言って、入江は眉を歪ませた。

 

「四番機を失ったんです。俺が……悪かったんだ。俺がもっと後ろを見張っていればこんな事には……ならなかった」


 入江の瞳からボロボロと大粒の涙が溢れて落ちていく。腕で乱暴に拭いながら、入江は肩を震わせた。


「死んだのが俺だったら……俺だったら良かったのに!」


 そんな風に泣く入江に、みつきは気の利いた言葉をかける事が出来なかった。降りしきる雪の中でただ、黙って見ているだけ。


 カウリングを外したままの零戦に乗り込んでいく荒木の背中が何度も思い出されて、それは悪夢のように胸を苦しく責め立てた。

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