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酷使する身体、待ってくれない戦況

 辺りも闇夜の如く暗くなり、ぽつぽつとまだらに灯されたカンテラの灯りを頼りに厚木基地へと降着した櫻井は、夜間戦闘機隊搭乗員の養成の為に配備していた荒木大尉のきつい抱擁を受け、咳き込んだ。

 荒木大尉のそのきつい抱擁は、今日は徹夜しろとの無言の圧力でもある。


「今日は寝かせないからな!」


 そんな風に言う荒木に櫻井はやっぱり、と思った。

 櫻井一人いないだけで零夜戦隊は夜もおちおち寝ていられない。

 何故なら、櫻井のいない零夜戦隊は手薄であるからだ。

 B-29の夜間来襲が滅多に無い為目立たないが、本来は夜間邀撃を行うのが零夜戦隊の仕事であるというのに、夜間邀撃作戦が可能なのは櫻井を含めたったの四名だけ。


 しかも、そのうちの一人は海軍病院に入院中の森岡寛大尉だ。昨年の十二月でごっそりと夜間作戦可能な搭乗員が転勤してしまったのも一因である。

 その為、夜間戦闘機隊としての搭乗員の養成が急がれており、夜間訓練に再び力を入れ始めたのだ。


「やってくれるな?」


 荒木太尉の濃い眉毛が動いた。つまりは、櫻井に教官をやれと言うのだ。


「わかりました」


 具体的な内容は聞かなくてもわかる。

 暗いエプロンで、真っ黄色に塗装された複葉複座小型機の二色基本練習機『ユングマン』が、整備員によってエンジン始動されている──つまり、あのユングマンを使って夜間戦闘飛行訓練をするという事だ。

 ユングマンは複座であるから、あの後部座席に乗って指示をする教官役である。

 相手は同じ十三期の同期だから、なんだか気が重たい。


 櫻井は指揮所に用意された簡単な夕食をかき込むようにして済ませ、ユングマンに乗り込んだ。



***



 二月十五日、午後一時八丈島レーダーは南西方向に北上中の数目標を捕らえた。マリアナを出撃したB-29は百機以上であったが、天候不良の為に名古屋地区へ来襲したのは僅か三十三機。

 志摩半島の波切レーダーに捕まり、陸軍と海軍二一〇空の邀撃を受けた。


 当初関東への来襲と判断した三〇二空は、哨戒機に加えて全力出動に移行したものの、神奈川方面に来襲したのはたったの五機だった為、交戦の機会を得たのは未帰還になってしまった『彩雲』一機のみ。


 そしてその日の夜も休む間も無く警戒警報が再び発令され、厚木基地は灯火管制を敷きながら全力整備状態に入った。


 制限された光の中で航空機を整備する事は整備員にとっては非常に骨の折れる仕事である。搭乗員にとっても、邀撃に備えて機上で即時出撃出来るように万全の状態にしていなければならないから、気が抜けない。


 搭乗員も整備員もここ数日ろくに寝ていなかった。

 整備員は寝ずに整備作業をしているし、搭乗員に関しては零夜戦隊のような夜戦搭乗員は昼間邀撃もしつつ夜間訓練や夜間哨戒に出ている為に疲労が激しかった。


 そんな中、櫻井は軍医にメチルプロパミン(メタンフェタミン)──所謂除倦覚醒剤(ヒロポン)を注射して貰いながらなんとか日々の寝不足と疲労を乗り切っていた。


 そんな風に、櫻井がメチルプロパミンを注射するのは初めてではない。徹夜が続いたり寝不足になるとこうして軍医の元を訪れていた。

 こうして軍医の元を訪れる搭乗員は少なくない。搭乗員だけでなく整備員も、そして工廠で働く当直の女学生でさえも──女学生はそれの錠剤であるのだが、メチルプロパミンを愛用していた。


 メチルプロパミンは、注射が終わるとすぐに全身に冷たい何かが走るような──頭がシンと静まり返るような感覚を覚えさせる。

 空気を吸う度に、神経が研ぎ澄まされていくのがわかるのだ。集中力が高まり気が散ってしまうような状況の時でさえも、適切な判断が下せる不思議な効能を持っていた。


 空腹も感じないから飲まず食わずでも平気でいられるし、特に夜目が利くから夜間哨戒時は非常に便利だった。


 だからこそ副作用も強く、感覚が冴え過ぎて起こる震えや吐き気、また、薬が切れた時は尋常じゃない程の眠気や空腹、倦怠感に襲われ立つのも辛いわけだが、そんな事を差し置いても長所の方が大きかった。


 邀撃に備えて、櫻井は搭乗割に割り振られた搭乗機に乗り込もうと指揮所に背を向けた──その時だった。

 何かの気配を感じ、気配を感じた方向へ目線を送ると、各航空機のエンジンの爆音で躍動する暗闇の空気の中を、ゆっくりとした足取りで第二飛行隊戦闘指揮所に近付く男がいる事に気が付いた。


 その男が誰であるかを判別する事は、夜目が利いたその目には容易い事であった。


「森岡太尉!?」


 左腕を包帯で吊った森岡の姿がぼんやりと浮き上がるように確認できた。その表情には晴々としたような、何か憑き物でも落ちたような、そんな清々しさに満ちている。

 

「森岡大尉、どうしてこんな所に?」

「どうしてってそりゃお前、自主退院してきたからに決まってんだろうよ」


 森岡は、少し乱雑に伸びた髪を略帽から覗かせながら、さもこれが当たり前かのように言った。

 森岡は、浜松の陸軍病院から東京目黒の海軍病院に水地と共に転院していたわけだが、左手を失うという重症から僅か一ヶ月も満たないうちでの自主退院なのだから、その回復能力は才能かもしれない。


「あんなクサい所で貧相なメシなんか食ってられっかよ」


 痩せた頬に笑窪を作りながら、森岡は溜息をついた。

 閉鎖的な空間で悶々とベッドの上で過ごしているくらいなら、部隊で治療を続けていた方がいいに決まっている。森岡は、ここ一ヶ月の間に行われた度重なる東京への空襲に、戦闘機搭乗員としていてもたってもいられなくなったのだ。

 しかも、目黒の海軍病院の付近は、最近の空襲で焦土になったばかりである。


 左腕に巻かれた包帯を、右手で感触を確かめるように撫でながら

「東京はめちゃくちゃになりつつある。俺達が守んなきゃいけないんだ。黙って見てられるか」

と、森岡は言った。


 その声は、左手が無いくらい何だ──と、力強く訴えているように感じられて、櫻井は思わず笑みを零した。


「森岡大尉、傷が完治したらまた──空へ戻りましょう」



***

 

 

 その頃、米軍の第58任務部隊の正規空母九隻と軽空母五隻、そして護衛空母十二隻が硫黄島奪取の為に動き出していた。


 硫黄島──そこは米軍にとって、奪わなければならない島だった。日本軍にとっては東京〜サイパン島の中間に浮かぶ硫黄島はマリアナ攻撃に欠かせない中継点であるが、米軍にしてみればB-29の不時着場或いは戦闘機隊を置けば、戦爆連合の空襲を日本へかける事が容易になる重要な島である。


 ここで米軍の侵攻を食い止める事が出来なければ、日本の運命はもはや決まったと同然。




 二月十六日の黎明、米軍第58任務部隊は、風速一〇メートルの風を受けF6F『ヘルキャット』とF4U『コルセア』の発艦を開始し、日本戦闘機を制圧するべく本土へ向かっていた。


 海軍各防空部隊は、軍令部の「敵機動部隊、本土来襲の可能性」を受け、全軍全力配備を続けていた。

 しかしながら、三〇二空をはじめとする各防空戦闘機部隊は、対戦闘機隊の経験が無く、前年の夏に対重爆に切り替えていたのである。


 頼れるは、ラバウル航空隊で全線を張っていた下士官兵の腕だった。

 雷電隊には赤松貞明少尉をはじめ、ラバウルを生き抜いた下士官兵が二人いたが、零夜戦隊では戦死した磐城少尉が唯一のラバウル帰りの搭乗員だった。現在では戦闘機対戦闘機の空戦経験者は皆無なのである。

『除倦覚醒剤』――通称ヒロポン。錠剤はヒロポンよりゼドリンが効く。当時は、「メタンフェタミン」ではなく「メチルプロパミン」と呼ばれていました。


描写がリアルですが、覚醒剤含め違法薬物はやったことはありません。

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